林幸秀の中国科学技術群像
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【22-17】【現代編17】ダニエル・ツイ~分数量子ホール効果でノーベル賞を受賞

2022年08月16日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、日中戦争時に中国に生まれ、戦後米国に渡りシカゴ大学を卒業した後、ベル研究所時代に分数量子ホール効果を発見してノーベル物理学賞を受賞したダニエル・ツイを取り上げる。

生い立ちと教育

 ダニエル・C・ツイ(Daniel Chee Tsui、崔琦)は、1939年に河南省平頂山市の農家に生まれた。平頂山市は、古い歴史を有する洛陽や鄭州などに接する都市である。ツイが生まれる2年前の1937年に盧溝橋事件が起き、幼少期には日中戦争が続いていた。河南省では、戦乱に加えて干ばつや洪水などの天災が襲い、悲惨な状況にあった。

 1951年にツイが地元の小学校を卒業すると、両親はより高い教育を受けさせるべく、ツイを香港の培正中学(日本の中高一貫校)に行かせた。18歳となった1957年に同中学を卒業し、台湾の国立台湾大学医学部に合格した。しかし、故郷の両親や大陸と蒋介石支配下の台湾との関係を考え、香港に留まって香港大学に設置された特別コースで勉学を続ける選択を行った。ツイは、このコース在学中に米国ルーテル協会から奨学金を獲得することが出来、1958年秋に米国イリノイ州ロックアイランドにあるオーガスタナ・カレッジに留学した。

 1961年に同カレッジを卒業すると、ツイはやはりイリノイ州にあるシカゴ大学大学院に入学した。シカゴ大学の卒業生であった中国出身の 李政道 と楊振寧 が、パリティの非保存の理論により1957年にノーベル物理学賞を受賞しており、これがツイを同大学大学院に誘う強い動機となった。

ベル研究所で分数量子ホール効果発見

 1967年にシカゴ大学より物理学のPhD(博士)を取得したツイは、同大学で1年間のポスドク研究をし、その後1968年にニュージャージー州マーレーヒルにあるベル研究所に入所した。ベル研究所では半導体物理の研究を行ったが、当時の半導体物理の主流である光学系・高エネルギー・バンド構造やデバイス応用などではなく、ニッチであった2次元の電子物理学の研究を行った。

 2次元の電子物理学で、ツイは量子ホール効果の研究に没頭した。電流が流れている物体に電流と垂直な向きに磁場をかけると、電流とも磁場とも垂直な向きに電位差が生じる。 これをホール効果と呼び、1879年に米国の物理学者エドウィン・ホール(Edwin Herbert Hall)によって発見された。一方、半導体の開発が本格化したのは1930年代の米国であり、ベル研のショックレーらがゲルマニウムのトランジスタを1947年末に開発している。これ以降電気回路の主役として半導体が用いられ、ベル研はその開発の中心を担っていた。ツイらは、半導体の物性特性の研究にホール効果を用いたのである。

 1980年にドイツのクラウス・フォン・クリッツィング(Klaus von Klitzing)は、半導体の表面などの電子系が面に垂直な磁場 (Bz) を受けた際に示す量子論的効果(量子ホール効果)を発見した。この発見は半導体物理の大きな発見となり、クリッツィングは1985年のノーベル物理学賞を受賞した。

 この量子ホール効果について、ツイらはより純度の高い半導体を用いて実験を重ねた。実験は、10歳年下のベル研の同僚でドイツ出身のホルスト・L・シュテルマー(Horst Ludwig Störmer)との共同によるものであった。そして1982年にツイとシュテルマーは、クリッツィングとは別の量子ホール効果を発見した。翌1983年に、この新たな量子ホール効果について、やはりベル研の同僚でツイの11歳年下のラフリン(Robert B. Laughlin)が、半導体内の電子が極低温と強磁場によって3分の1、5分の1などの半端な電荷をもつ準粒子として振る舞うとの理論を発表した。このツイらが発見しラフリンが理論的な根拠を与えたホール効果は、現在分子量子ホール効果と呼ばれており、この業績によりツイ、シュテルマー、ラフリンの3人は、1998年にノーベル物理学賞を受賞した。

ノーベル物理学賞受賞後

 ツイは、分子量子ホール効果の発見直後にプリンストン大学に移り、電気工学科の教授に就任した。その後、28年間にわたってプリンストン大学の教授を務め、2010年に引退している。

 他の中国系のノーベル賞受賞者に比較すると、ツイの中国との関わりはそれほど多くないが、ノーベル賞受賞後の1999年に香港中文大学から名誉博士号を授与され、翌2000年には中国科学院の外国籍院士に選ばれている。さらに2005年には中国科学院の名誉教授に就任している。

 2014年、75歳となったツイは、63年ぶりに故郷である河南省の平頂山市を訪問し、関係者との旧交を温めた。ツイは、実家を訪れたり、7年前の2007年に35万元(約500万円)を寄付して故郷に設置した「希望小学校」を訪問したり、地元の子供達と交流したりした。ツイは、故郷への訪問を終えるに当たり、「自分は故郷の外にあっても、友人達に故郷を語り、故郷の文化を誇りにしてきた。今回改めて自分の眼で故郷を見ることが出来たのは、大変な感激であった。」と述べている。

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