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【20-017】民法典は異彩を放ったか?

2020年9月16日

御手洗 大輔

御手洗 大輔:早稲田大学比較法研究所 招聘研究員

略歴

2001年 早稲田大学法学部卒業
2003年 社団法人食品流通システム協会 調査員
2004年 早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了 修士(法学)
2009年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学
2009年 東京大学社会科学研究所 特任研究員
2009年 早稲田大学比較法研究所 助手(中国法)
2012年 千葉商科大学 非常勤講師(中国語)
2013年 早稲田大学エクステンションセンター 非常勤講師(中国論)
2015年 千葉大学 非常勤講師(中国語)
2015年 横浜市立大学 非常勤講師(現代中国論)
2016年 横浜国立大学 非常勤講師(法学、日本国憲法)
2013年より現職

中国民法典を読み解いてみる

 中国民法典が2021年1月1日より施行します。そのため民法総則、権利侵害責任法、物権法、契約法、担保法、養子法、民法総則、相続法および婚姻法は廃止されます。この中国民法典の編纂が、現代中国にとって悲願であったことは論を俟ちません(「民法典ができるまで 」参照)。そして、日本においては、中国民法典の施行前後において、その翻訳本や同じ論調の文章が溢れかえることも想像に難くないでしょう。ここにいう同じ論調とは、「悲願の結実となった。」「21世紀の民法典の1つの方向が示された。」などの現代中国国内における宣伝文句の焼き増しの類いで始まり、「中国社会の変化に対応した改正を含めた民法典が公布されたが、実際(実務で)どうなるかは分からない。」というお決まりのフレーズで終わるものです。ほぼ間違いなく、私たちはその長短は兎も角も、同じ論調を読み聞かせられることでしょう。

 さて、中国民法典の意義に先立って、民法総則の意義については、このコラム[1]で取り上げさせていただいたことがあります。今回のコラムに先立って2点ほど、すなわち(1)権利主体の扱いと(2)行為評価の扱いを確認しておきたいと思います。まず(1)について、民法総則1条は「民事主体」の合法的な権利利益を保護するために制定したと言明し、平等な民事主体として「自然人」「法人」および「非法人組織」を定めました。旧法である民法通則において「公民」「個人事業者」「農村請負経営者」などの様に、個別具体的に権利主体を定めていたこととは雲泥の差があることを指摘しました。

 次に(2)については等価有償原則を放棄したことを指摘しました。この原則は厳格な損益計算を求める原則のことで、異なる地域の異なる生活水準にある民事主体の間の損害賠償紛争においては、その被害者の生活水準に合わせた賠償で十分であることを導く論理です。日本でも交通事故で死亡した場合、その死亡した人の職業や残余年数の推測統計によって算出金額に差がありますが、それ以上に厳密に算定されていた(=都市住民優位だった)と言われていました。

 以上の次第でしたから、民法典の意義について真っ先に確認すべきは「民法典全体の論理整合性を高める役割を担う民法総則で打ち出した法的論理について民法典がどこまで引き継いだのか」です。管見の限り、この点について両者(民法総則と「民法典第一編 総則」は、平易な文章表現に修正されたことを除き基本的に同じであったため、読み解けるツールが揃うまではペンディング状態でした。

 ここにいう読み解けるツールとは現代中国の法動向を読み解く手段のことです。次の5つの手段を揃えれば、現代中国の法動向に対応できます。既に以前のコラムで紹介済みですから、簡単に整理しておきます。すなわち、①「読み解く時点」の状況を確認でき、②「新旧条文の比較」ができ、③「指導性裁判例群の傾向」を確認し、④「立法関係者の動向」を確かめながら、⑤「裁判例の分析」を行なえば、同じ法学という土俵の上で日本法と現代中国法は議論できます。そのため、現代中国における法的リスクを把握するには、自分の関係する方面の法的空間について、この5つの手段を用意しておけば「マズイ対応」は極力回避できると言えます。ちなみに、私の経験上、この読み解くツールはコロナ禍の中であっても変わりません。

 中国民法典について言えば、私は①と④をフォローし、③と⑤については自分で機械的に蓄積している裁判例のデータから必要に応じて参照できる状態であるため、②だけが課題でした。幸い  『中華人民共和国民法典:含新旧与関連対照』中国法制出版社2020年を入手でき、ようやく民法典の読み解きができましたので、今回のコラムで読み解いてみたいと思います。

民法典を構成する(法的)論理について

 民法典を読み解いて印象に残った点は、次の3点です。第1に、「『近代私法』に近づいたのかも!?」と言えることです。これは、民法総則において以前のコラムで指摘した点でもあります。今回のコラムでは日本民法との比較から簡単に説明してみようと思います。第2に、「平易な文章表現」に修正されたことです。日本民法も2004年に現代語化されています(日本の場合、民法(の)現代語化によって読み辛くなった印象しか私にはないのですが)。この現代語化がもたらすだろう影響について考察してみます。そして第3に、「人格権」を紹介しようと思います。これまでの民法典と比べて異彩を放っていると言えば、やはり人格権編が分かりやすいからです。

 民法典は「近代私法」に近づいたのでしょうか。

 そもそも「近代私法」とは、権力能力の平等の原則、所有権絶対の原則および私的自治の原則が特徴であると言われます。つまり、一人ひとりの人は等しく権利義務を帰属させられる資格=権利能力を持ち、自らのもつ所有権は誰にも干渉させられない神聖不可侵=絶対であり、この前提から社会を構成するのだから人と人の自主的決定=合意に委ねるべきであるという原則から構成される私法を、私たちは「近代私法」と言うのです。

 ところで、「近代私法」をさらに俯瞰して近代なるものから眺めてみると、「近代私法」の三原則が、さらに根本の考え方=思想から発展していることが分かります。ここにいう近代とは時代区分としての、例えばウェストファリア条約から始まる主権国家体制の成立や市民革命による市民社会の成立、産業革命による資本主義の成立といったことを意味するものではありません。あくまで法的区分としての近代です。ここにいう近代なるものは、個人の自由を前提にして万象を、法を通じて科学する(因果関係を理解する)ところに見える考え方そのものであると私は考えます。つまり、個人主義・自由主義が法的区分としての近代です。そして、合理性という要素を法学も多分に漏れず組み込んで理論を構築してきました。

 個人主義・自由主義から「近代私法」を発展させていく中で、私たちの法(日本法)は、個人を中心に法的論理を展開し、確立しています。例えば、この個人を自然の人=自然人、法的に人と評価される人=法人という様に、です。自然の人すなわちナマの個人は、それぞれの個性がありますし、法的に人と評価される人すなわちナマの会社や組合などにもそれぞれの個性があるはずです。しかし、これらの個性を捨象して自然人、法人という様に抽象化することによって、近代私法(そして近代法)は、それぞれの個人は等しく権利能力を持ち、個人の持つ所有権は絶対であり、この前提から社会を構成するのだから、個人と個人の間の合意に委ねられると合理的に説明する理論を構築したわけです。なお実際にナマの個人と向き合ってみると、個人間の合意が常に公正であるとは限りませんし、所有権を絶対とすると集団・社会にとって都合が良くないことも起こることは想像に難くないはずです。

 では、中国民法典はどう規定したのでしょうか。旧法である民法通則において「当事者」と言明してナマの個人と向き合っていた時と比べると、民法総則が「民事主体」と言明し直した論理を踏襲しただけでなく、[事業単位]を「非営利法人」に、[社会団体][其他組織]を「非法人組織」に、さらには個人を「成年人」とし、[児童]を「未成年人」に、[老人]を「老年人」に言明し直すという様に、抽象化の作業を行ないました。また、等価有償原則は復活しておらず、代わりに「公序良俗」(民法典8、10条)を原則の1つとして確立しました。例えば、民事主体が従事する民事活動は、法令に違反してはならず、公序良俗に違背してはならないこと。そして民事紛争の処理にあたって法令に規定がない場合は慣習を適用するが、その慣習は公序良俗に違背してはならないことを言明しています(民法典10条)。

 以上のように見てくると、近代私法に近づいたと言えます。そのため、中国国内における今後の民事活動については、民法典の規定を中心に想定し、外国人・組織向けの特別法ないし特別規定がある場合は、それもフォローしておけば良いと言えそうです(民法典12条)。

現代語化は何をもたらすか

 民法典を読み解いて印象に残った第2の点は、民法典が「平易な文章」に修正されたことです。このことから、中国語の練習教材としても、また、和製英語もとい「華製日本語(中華日語!?)」の探検と異文化理解の題材を複数提供してくれていると私は感じます。

 例えば直前で紹介した公序良俗という言葉ですが、これは華製日本語です。公共の秩序と善良の風俗のことを「公序良俗」といい、日本の法学徒であれば民法90条=公序良俗としてお馴染みの言葉です。ちなみに旧法である民法通則において「国家の政策を(当然に)遵守する」としていた部分を、民法典10条は「公序良俗」に違背してはならないと定めています。この類いの例としては、従来は○○の場所と表現した箇所を「住所」としたり、○○を[支付]すると表現した箇所を「支出」するとしたり、[期間]と表現した箇所を「期限」としたりという様に、日本語らしい表現と日本語のままで翻訳できる箇所を散見できます。

 このほか、中国語の従来の用例と参照すると整合するのかという箇所がないわけでもありません。例えば、序数として2を表現する場合、中国語では[两]を用いてきたわけですけれども、「二年」(例えば民法典621条)と修正したり、数人(一桁が想定される)の人を表現する場合は[几(个)]を用いてきたわけですが、これも「数(个)」(例えば民法典791条)と修正したり、書面形式を[採取]すると表現していたところを、書面形式を[採用]すると修正するなど日本語の中国語化が止まりません。

 さらに、拇印(すること)はプライバシー侵害に当たるなどと非難されて廃止する方向で進み、このコロナ禍の中でハンコ文化がナンセンスだなどと非難される日本と違い、サイン[签名]、ハンコ[盖章]に加えて、拇印[指印]による契約の成立をしっかりと認めています(民法典490条)。一方で、現代語化の前の日本法の表現の名残りが消滅したことも見て取れます。例えば、例外規定を設ける場合は「但し、○○の場合を除く。」の様に日本法でも規定していました。この表現に合わせるかの様に[但○○的除外。]となっていたのですが、平易に[但是(しかし)]と修正しています(例えば民法典209条など)。

 平易な文章に修正する現代語化は、法の存在を人々の身近に感じさせるという意味では意義のあることだと私も感じます。しかし、異文化との融合の中で、現代中国法の中核が何かを常に観察し続ける必要性も感じざるを得ません。確かに直前の項において中国民法典が「近代私法」に近づいたと言えそうだとしましたが、中国民法典は私たちの近代私法(日本法)の様に、人と人の自主的決定=合意に委ねるべきであるという原則(契約の自由の原則)を未だ承認していません。

 例えば、民法典534条は次のように言明します。「当事者が契約を利用して国家の利益、社会公共の利益を危うくする行為を実施する場合は、市場監督管理及びその他の関係する行政主管部門が、法律及び行政法規の規定に照らして監督処理する責任を負う。」これは第3編「契約」第4章「契約の履行」における一条です。私たちの近代私法の原則に照らせば、公共の福祉に反するか否かをめぐって関係する当事者間における法的議論からスタートします。なぜなら、個人主義・自由主義から出発して法的論理を展開する近代私法(の理論)を承認するからです。上記の条文がスタートを異にしていることは明らかであり、それゆえに「近代私法」の道へと全面的に転向したとは現時点で言えません。

人格権編は21世紀の民法典のトレンドになるか

 中国民法典が日本民法と比べて異彩を放つのは、第4編に設けられた人格権編でしょう。その前後を契約編(第3編)と家族編(第5編)、相続編(第6編)と編成していますから、日常生活中の諸々の行動が影響する法律関係を守りたい、そして場合によっては私的空間である家庭にも影響するかもしれない法律関係を想定しているのだろうと推察されます。

 中国民法典が想定する人格権とは、民事主体が享有する生命権、身体権、健康権、姓名権、名称権、肖像権、名誉権、栄誉権およびプライバシー権などの権利です(民法典990条)。個人の人格から派生する諸権利ですから、人格権を放棄することも、譲渡することも、まして相続することもできないはずです。が、放棄してはならないし、譲渡してもならないし、相続させてもならないと言明します(民法典992条)。この表現が採用された理由の1つは、死者の人格権に対する侵害を遺族が守ろうとする場合の請求権を故人の代理人として確保する法的論理を前提とするためのようです(民法典994条)。このように人格権は一身性を有し、その個人自身のものですから、肉体が土に還ろうとも消滅しません。そのため訴訟上の時効は存在しません(民法典995条)。

 人格権をめぐって問題になりやすい行動と言えば、何でしょうか。日本の中で少し考えてみると、マスコミや評論家による偏向報道や団体もしくは個人によるヘイトや差別発言などでしょうか。同時に、日本国憲法21条が定める表現の自由はその文言上無制約の自由を認めていますから、上記の人格権侵害に当たりそうな事例であっても、表現の自由として原則守られると主張できます(主張できるだけですからね、あくまで)。なぜなら、個人の口を塞がないようにすれば、悪事を皆が知るところになり(知る権利の保障)、主権者として日本国をどうすべきかに関われるからです。そして、同21条から派生して承認される報道の自由も、この趣旨に叶うからこそ承認されてきたはずであり、それ故に報道の自由を委縮させる諸々の行動や言動が非難されてきたわけです。

 この趣旨に基づくかどうかは不明ですが、中国民法典999条は「公共の利益のために新聞報道や世論監督等の行為を実施する場合」は、民事主体の姓名、名称、肖像、個人情報などを「合理的に」使用できるとしながら、非合理的な使用であるときは民事責任を負うと言明します。何を以て非合理的な使用と判断するのかについては、中国民法1025条は事実の捏造や歪曲、裏付けの不足、ヘイトスピーチを挙げています。そして、その人格権侵害により生じた影響の除去、名誉の回復、慰謝料や謝罪などの民事責任を負担する場合は、具体的な行為の方法や影響の範囲に相当させることを確認します(民法典1000条)。あれ?等価有償原則の名残りでしょうか。

 ざっと読み込んだところ、日本法特に日本国憲法の講義で人権編として講義される内容が、中国民法典第4編にあるという印象を私は持ちました。言い換えれば、憲法レベルの保障を法律レベルの保障へ「格下げ」しています。もちろん、このように格下げする方が救済を求めやすくなることも事実でしょう。日本法の場合、憲法の条文のみを根拠に訴えることが難しい理論を既に確立していますし、中国法の場合は合法的権利であり、合法的に自分が救済を求めていることを示し続けることが救済を得るための大前提になっているからです。

 とはいえ、人格権編が21世紀の民法典のトレンドとなるのかと問われれば、私は難しいと考えます。そもそも個人の人格は法によってどうこうできるものではなく、多様性を承認するのであれば一般抽象的な決まり事のみを皆でシェアし、衝突した時に皆の知性から熟議し、合理的な結論を導こうとする流れでしか解決の方向性は示せないと感じるからです。

 私たちの住む法の世界が「近代」を卒業できていないだけかもしれませんし、「近代」法の世界へ現代中国が進み入っていないだけかもしれません。

(了)


1 拙稿「民法総則の歴史的意義」《中国の法律事情》2017年 6月14日
 拙稿「民法総則は身分制を打破できるか」《中国の法律事情》2017年 7月27日
 拙稿「所有権が変容する?」《中国の法律事情》2017年 8月24日