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【19-06】幻の残留日誌─中国に渡った1943年から帰国するまでの10年間─(その1)

2019年12月9日

橋村武司

橋村 武司(はしむら たけし)
龍騰グループ 代表、天水会 会長、NPO法人 科学技術者フォーラム 元理事

略歴

1932年5月生、長崎県出身 1953年 中国より引揚げる
1960年3月 中央大学工学部電気工学科卒
大学卒業後、シチズン時計(株)に入社、水晶時計、事務機器、健康機器の研究開発を歴任
1984年 ㈱アマダに入社、レーザ加工機の研究・開発、中国進出計画に参画
1994年 タカネ電機(株)深圳地区で委託加工工場を立上げ
1995~1997年 JODC専門家(通産省補助):北京清華大学精儀系でセンサ技術を指導、国内では特許流通アソシエイト:地域産業振興を促進
2000~2009年 北京八達嶺鎮で防風固沙の植樹活動を北京地理学会と共同活動、中国技協節能建築技術工作委員会 外事顧問として、省エネ・環境問題に参画
現在、龍騰グループで日中人材交流、技術移転、文化交流で活動中
論文 「計測用時計について」(日本時計学会誌、No. 72、1974年(共著))
『センサ技術調査報告』(日本ロボット学会、共編)

まえがき

「光陰矢の如し」、86年はあっと言う間に過ぎ去り、今年は米寿を迎える。私の人生にとって印象深いのは中国で過ごした少青年期の10年間である。身体も生長したが、一生を通しての考え方、思惟の基礎が形成された。

 父を病気で亡くし、10歳のときに伯父を頼って母と妹2人の4人が渡満(現東北)したのは、戦中の1943年(昭和18年)、小学5年生のときであった。長崎県対馬の田舎者にとって、初めて見る東洋のパリ・ハルピン(哈爾浜)はまさに眼を見張る外国の大都会であった。

 真っ先に驚いたのが色白で青い眼をした、鼻の高い外人が堂々と街中を闊歩している様であった。日本では外国人はスパイであると教育されていた。おまけに菓子や果物が豊富にある。甘いものにありついて、何処で戦争をしているのかと訝った。間近に植民地を垣間見た。

 生活にも慣れ、安定したかのように思えた1945年(昭和20年)8月、青天の霹靂、戦争に負けた!天下は一夜にしてひっくり返った。中学1年の坊主は、いきなり世の中に放り込まれた。これはまた新しい人生行路の出発点になった。翌1946年、引き揚げを目前に強制留用に巻き込まれ、妹2人とも引き裂かれて母と行動を共にした7年間、身の不運・憤懣を自作インキで古紙の裏に綴った。

 戦後の満洲(現東北)の生活は貧しいものであった。一つの救いは中国人も同じで、互いに飢えをしのいだことだった。周りが同じように貧しければ、自身も多少は我慢できた。それにもまして不満だったのは、学校で勉強できなくなったことである。14、5歳の少年は好奇心が旺盛であった。周りに起こる物事を順序よく理解したいと思った。しかし金はなく、学校に行くどころではなく、ロスケや中国人、朝鮮人と一緒に勉強できるか!と偏見の強い少年でもあった。食べ物にも飢えたが、学問にも飢えていた。

 手っ取り早く始めたのが自活である。軍靴工場で麻縄をなったが、知恵を絞って機械を改造し、生産量を2倍にして労働模範に選ばれた。次いでコメの飯が食べられる炭砿で働いた。17歳で一番若いと言われたが、大人と一緒に採炭をした。戦場とは斯様なものかと疑似体験をした。身体はめきめきと鍛えられ、一人前になった。ここで学んだ「太陽のもとでなら何でもできる!」は私のその後の一生を通しての金科玉条になった。「腕一本で稼いで生きる」のそれである。期せずして貴重な経験をした。

 18歳でやっと中国天水鉄路職工子弟初級中学校の2年生に編入でき、長年の夢が叶えられた。言葉は耳で聞いて覚えた。水を得た魚のようにがむしゃらに勉強し、半年後には飛び級で高級中学(高校)に入学した。文武両道、勉強もしたが体育にも励んだ。数学など90点以下は取らなかったし、鉄路西北地区の運動大会では1,500mで優勝し、上海での全国大会の選手に選ばれた。残念にも日本人であるが故に出場は叶わなかったが、負けん気の強い青年に成長していた。一方、2年半の寄宿舎生活で最大の成果は、同学たちとの65年に亘る交友の基礎が固められたことにある。

 1952年10月1日、天蘭線は工期を半年前倒しして完工した。翌1953年3月、日本帰国の命令がもたらされた。そのとき、当局の話で「自筆の記録や集合写真を持ち帰っては、日本のためにならない」との勧告を受け、甘谷旅館の庭先で、涙しながら「残留日誌」を燃やした!よって炭砿時代など一時期だけしか欠けずに書いた残留日誌は、水泡に帰した。これが表題に付けた、今は無き「幻の残留日誌」の由来である。しかし、焼き付いた記憶は簡単に消えるものではない。記憶を辿りながら、ここに往時を振り返って見たい。

2019年盛夏
橋村 武司

 橋村武司さんは1932年(昭和7)の生まれ。8歳で父を亡くし、戦火のさなか1943年(昭和18)、母と妹と3人で満鉄勤務の伯父を頼ってハルピンに渡る。中学1年で終戦を迎えたが、混乱の続く満州で各地を転々としながら自活して生き抜く。1950年(昭和25年)、中国に留用された元満鉄社員の義父の家族とともに西方の天水に鉄道(天蘭線)新設のために移住。このとき約300名の元満鉄の技術者、その家族を含めると800名の日本人が天水に移住した。橋村さんはここで中国人の通う中学・高校で学ぶ。1953年(昭和28年)天蘭線は開通し、日本人は全員帰国した。橋村さんには、中国に渡った1943年(昭和18年)から帰国する1953年(昭和28年)までの10年間の体験を中心に語っていただいた。 (2009年1月~5月、オーラルヒストリーホームページまえがき)

1、対馬から満洲へ

 私は長崎県対馬の厳原(いずはら)で、1932(昭和7)年5月22日、父寿太郎、母アキの長男として生れました。妹が二人いまして、現在上の妹美幸が佐世保に、下の妹弘子が長崎にいます。

 父は男ばかり7人兄弟の次男坊でした。厳原ではクリーニング店を経営していましたが、若い時期東京に出て白洋舎に勤め、職を身につけたと聞いています。

 祖父・橋村卯作は佐賀県鹿島の近くの小さな村の出身ですが、そこは集落全体がすべて「橋村」姓というところでした。祖父も私たちの家族と一緒に住んでいましたが、「葉隠れ武士」の精神を継承したような人で、孫の私たちから見ると厳格そのものでした。そして、そうした性格は父も受け継いでいました。

 ところで、父の兄弟は7人のうち、一番上と一番下とだけになってしまい、間の5人はすべて二十台、三十台という若さで世を去りました。みな結核や肋膜の病気で亡くなったようです。私の父は明治40年の生まれですが、1940年(昭和15年)、33歳で大腸癌のため亡くなりました。私は8歳でしたが、このときは妹と押入れの中で泣いたことを覚えています。

 父の兄弟で子供ができたのは、私のところの3人しかいませんでした。祖父は男の初孫であった私をたいへん可愛がってくれましたが、一方で厳格に育てようとしました。

 父の兄、すなわち長男の橋村高保は満鉄に勤めハルピンに行っていました。この伯父のところにも子供がいませんでしたので、私の妹の弘子がそこの養女になってハルピンに貰われて行きました。

 父の死後、母は職人を雇ってクリーニング店を続けていましたが、やはり経営が難しくなっていったようです。この頃、戦局もだんだん厳しくなってきていましたから、対馬にいても物は入ってこないし、食べる物もなかなか入手できなくなっていました。お菓子は配給になっていましたし、甘いものはもう食べられなくなっていました。祖父も非常に心配しまして、結局私たちの家族――母と私と妹の3人は伯父を頼ってハルビンへ行くことになりました。これが、1943年3月のことです。

 日本海もこのころすでに厳戒態勢に入っていましたから、釜山まで航行するのに、窓は黒い布で塞がれ外が見られないようになっていました。船には満蒙開拓団のお嫁さんとして渡る人たちが何人かいたのが、子供心にも印象に残っています。

 釜山からは鉄道を使ってハルピンまで行きましたが、途中のことはあまり記憶にありません。

2、ハルピンでの生活

 ハルピンに着いたときは、ちょうど4月から新学期でしたから、私は花園小学校の5年生のクラスに転入しました。

 ハルピンに来て先ず驚いたのは、外国人、つまり西洋人が歩いているということでした。これはショックでした。日本では、外国人といえばすべてスパイですから、「どうしてスパイが歩いているのだろう?」と不思議に思いました。

 もう一つ驚いたのは、ハルピンは食べ物が豊富であるということです。特にお菓子がたくさんあったことです。それから、学校に入って驚いたのは、私が長崎弁で話すので、クラスの皆から笑われたことです。ハルピンでは、みんな標準語で話していました。

 母は中央銀行――本店は新京にありましたが、そのハルピン支店の寮母のような仕事に就きました。伯父は私たちの家族を引き取ったつもりでいましたから、私たちはみな伯父の家で生活しました。私が将来進むべき目標にしたのは、海軍士官です。これはその恰好に憧れたのでしょう。そのために先ず身体を鍛えることを始めました。

 それから勉強ができるようになること。そして3番目は、手でいろいろなものを覚える――たとえば洗濯、縫物、編み物、ミシン、アイロンかけ等が自分でできるようになることを目指しました。

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写真:ハルピンの祭、昭和19年(1944年)。前より3列目、左より3人目が橋村少年

 私は厳原での小学校4年間、ずっと級長をしていまして勉強のほうは自信をもっていました。あとは身体を鍛えることだと思っていましたが、ここへ来たらそれが簡単に打ち砕かれました。もっと優秀なヤツがいるのです。一学年5クラスあり、一クラス40人ばかりいましたから全部で200人ほどいたのでしょうが、上には上がいるものだと思いました。

 ハルピンには日本人の小学校が三つありました――桃山小学校、白梅小学校、花園小学校。そして、そのなかでは花園が一番大きかったです。この土地には元々ロシアの女学校があったのですが、日本が接収してそこに小学校を作ってしまったのです。花園小学校には中国人の子も朝鮮人の子もいましたし、そしてごく少数のロシア人の子もいました。私がよく覚えているロシア人の子は、お下げ髪でドッジボールが滅法強い子でした。中国人・朝鮮人の子は日本語の発音が悪いので、すぐ分かりました。だからイジメもありました。子供の世界にイジメは付き物です。しかし、少なくとも私としては彼らとの接触は、インターナショナルな感覚で付き合ったという印象をもっています。

 翌1944年、6年生のとき、私は花園小より代表5名のうちの一人に選ばれてハルピン放送局で詩の朗読をしたことがありました。詩の作者は忘れましたが、「敵機はついに満洲を襲った・・・」といった出だしの詩でした。満洲は当時まだ本土とちがって戦争をしているという感じはありませんでしたが、それでもこの頃になると奉天あたりまでB29が偵察にやってきたというような話が聞かれるようになっていました。そういうことに対する危機意識を吹き込もうという意図があったのかもしれません。

 この詩の朗読に、私のような者がどうして選ばれたのか分かりませんが、これに出たお蔭で、長崎弁を徹底的に直されました。そして、ご褒美に模型飛行機の材料一式をもらいましたが、これは非常に嬉しかったです。(日本に帰ってきてから後の話になりますが、私が6年生のときの花園小学校の生徒たちで「花園会」を作って毎年集まりをもっています。これはクラス単位ではなく、学年全体の会ですが、もう60年あまり続いています。)

 終戦の年の4月、ハルピン中学に入学しました。花園小学校からハルピン中学へは90パーセントの進学率でしたから、ほとんどが中学へ進みました。男ばかりの学校でしたが、1クラス60名で4クラスありました。女子の学校は富士高等女学校一校だけでしたが、これは花園小学校の斜め前にありました。

 中学でも私にとってはショックがありました。私は海兵(海軍兵学校)を目指していたのですが、相当な難関でしたから学年で2、3番にいないと入れないことが分かってきたのです。中学になるとまた周辺から優秀な連中が集まってきましたので、私など10番に入るのがやっとという状態でした。生徒は満州国の官吏や満鉄社員の子息が多かったように思います。

その2へつづく)


本稿は橋村武司『幻の残留日誌(梦幻的残留日记)─中国に渡った1943年から帰国するまでの10年間─』(2019年、非売品)を著者の許諾を得て転載したものである。

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