【20-01】幻の残留日誌─中国に渡った1943年から帰国するまでの10年間─(その2)
2020年1月7日
橋村 武司(はしむら たけし)
龍騰グループ 代表、天水会 会長、NPO法人 科学技術者フォーラム 元理事
略歴
1932年5月生、長崎県出身 1953年 中国より引揚げる
1960年3月 中央大学工学部電気工学科卒
大学卒業後、シチズン時計(株)に入社、水晶時計、事務機器、健康機器の研究開発を歴任
1984年 ㈱アマダに入社、レーザ加工機の研究・開発、中国進出計画に参画
1994年 タカネ電機(株)深圳地区で委託加工工場を立上げ
1995~1997年 JODC専門家(通産省補助):北京清華大学精儀系でセンサ技術を指導、国内では特許流通アソシエイト:地域産業振興を促進
2000~2009年 北京八達嶺鎮で防風固沙の植樹活動を北京地理学会と共同活動、中国技協節能建築技術工作委員会 外事顧問として、省エネ・環境問題に参画
現在、龍騰グループで日中人材交流、技術移転、文化交流で活動中
論文 「計測用時計について」(日本時計学会誌、No. 72、1974年(共著))
『センサ技術調査報告』(日本ロボット学会、共編)
(その1よりつづき)
3、終戦
伯父はこのころハルピン近郊の阿城(あじょう)というところにいましたので、中学の最初のころそこから汽車通学をしました。しかし、汽車の本数も少なく不便で通いきれませんでした。それで、母のいるハルピン市内靖国街の中央銀行支店の社宅に移りました。社宅ですから、形の上では職員待遇だったのでしょうが、実際には母は支店長のお宅のお手伝いさんのようなことをやっていたようです。支店長は別所さんといいましたが、子供は女の子が一人(マーコちゃん)だけでした。ソ連軍が入ってきた後、別所さんは行方不明になりましたが、どこかへ連れて行かれたのではないかと言われていました。
写真:左が中学1年の橋村少年、右がマーコちゃん(1945年)
靖国街はハルピン飛行場のすぐ近くにありましたので、ソ連軍が満洲に侵攻した8月9日あたりから騒がしくなりました。ロシアの落下傘部隊が降りてくるという噂が立ちまして、はやく移動しろということになり、私の記憶では8月12日に市内にある中央銀行支店に移りました。
ここにいたときのことですが、国民党がやってきて銀行の前に掲揚していた日の丸の国旗を引き摺り下ろし、代わって青天白日旗を立てました。すると日本軍がやってきて、また日の丸に差し替えた、ということがありました。
8月15日の「終戦の詔勅」を、私は母のいた元の銀行の寮で聴きました。銀行としてはこの寮を根城にして籠城しようと考えていたのではないかと思います。ここに米袋を運び込んで床下に隠しました。それで銀行から寮に移ることになったわけですが、さてどういうふうに移るのか、この間はいろいろな噂が飛び交い、どうするのが安全かはそれぞれが判断してばらばらに行動しました。母と私、それに母の友だち母子の4人は、みんなと別行動をとりました。結果的には、これは大失敗でした。私たちは荷物をリュック一つにまとめて、危ないといわれている大通りを避け迂回して移動したわけですが、途中道里公園の入り口で中国人に取り囲まれてしまいました。20人ぐらいいたと思いますが、あっという間に荷物を全部取り上げられてしまいました。女子供四人で何の抵抗もできません。無一物になって寮に着いたのを覚えています。これはたしか14日のことでした。
一方で、危ないと言われるのをあえて無視して、人力車に荷物を積んで市中を堂々と移動してきた人たちがいましたが、こうした人たちが反って助かったのです。皮肉なもので、迂回作戦をとったほうが失敗したのです。こうしたいろいろな情報が錯綜しているときにどれをとるかという判断は非常に重要だと、このとき思いました。また情報の大切さも知りました。
終戦の詔勅を寮の一室で聴きましたが、全然聴き取れませんでした。ただ、先輩の方々が「日本が負けた」という話をされているのが聞えてきましたから、なんとなく分かりました。
この日を境に変ったこととして子供心に強烈に残っているのは、それまで苛めていた中国人の同輩たちから、逆にやられたことです。同じ一角に住む中国人の子と喧嘩になったとき、彼は敢然と反抗してきて、私は突き飛ばされたのをはっきり記憶しています。彼らにとっては、今までやられていたのだから、やり返すのは当たり前ですよね。
しかし、中国人の子供でもなかには終戦になっても前と変わらずよく付き合ってくれた子もいました。私を兄のように慕ってくれ、頼山陽の漢詩「十有三春秋・・・」を暗誦するとびっくりし、ますます尊敬してくれるのでした。
最初に入ってきたのは、ロシアの兵隊でしたが、ちまたでは"囚人部隊"と言われていました。みな頭を剃った粗末な身なりで、それはひどかったです。「ダワイ!ダワイ!」と毎晩略奪に来ました。酔っ払ってやってきて、先ず時計を奪う、万年筆を奪う、それから女性を襲う。二人連れでやって来て酔った勢いでハーモニカを吹き、抜刀してコザック・ダンス(?)を踊り始める。生きた気がしませんでした。しかし、初めのうちは憲兵もいませんから、彼らのやりたい放題でした。
そのうち正規軍が入ってきました。赤軍の正規軍はたしかに素晴らしかったです。彼らがやって来てからは、夜酔払った兵隊が押しかけてくると、ぼくらはゲー・ペー・ウー(GPU)――所謂ソ連軍の憲兵隊に当たる――の詰所へ駆けて行って彼らに来てくれるよう頼みました。ゲー・ペー・ウーがやって来ると、ひどいときは見ている目の前で銃殺でした。特に強姦なんかやっているのは、有無を言わさず銃殺でした。物を取っているのは、わりと大目に見ていましたが、女性に対する犯罪に対しては非常に厳しかったです。
この頃になると、ぼくらも食べていくために、大工の見習いを手始めに、餅売り、タバコ売りなど、いろんなことをやりました。ソ連の正規軍の兵士たちの中には、タバコを買ってもお釣りはいいよと言ってくれる者もいました。もちろん真赤な軍票でしたけれども。
ロシア人の軍隊で印象に残っているのは、彼らが合唱しながら行進していることでした。しかもちゃんとハーモニーができているのです。低音のきいた勇ましい音色に聞き惚れました。それから、女性の兵隊さんがいるのには驚きました。若いスタイルのいい女性が長靴をはいてスカート姿で闊歩しているのです。しかも、零下30度もあるのに彼女たちは帽子を斜に被り、耳かけも掛けず、コートを羽織って歩いていました。惚れ惚れと眺めてしまいました。
それからしばらくして八路軍が入ってきました。このときは、正直言って怖かったです。「パーロ(アカ、八路軍のこと)が来る」と聞いて、みな外に出ないで、じっと家のなかに閉じこもっていました。このときは伯父もハルピンへ出てきて一緒に住んでいましたが、「外に出てはいけない」と言うので、一日中家のなかに隠れていました。しかし、外を覗きたくなるので、窓からこっそり覗くと、一列縦隊にずらーっと並んだ兵隊が入ってくるのです。服装たるや点々ばらばらで、百姓のような者もいれば、軍服らしいのを着ている者もいる、鉄砲を持っている者もいれば、持ってない者もいる、それはまちまちでした。鍋釜を背負っているのは奇異に感じました。しかし、みな寝袋は担いでいましたね。これが軍隊かという感じがしました。
写真:戦後の仮中学校、女学校(先生3人、生徒約35人、1946年)。前列左から3人目が橋村少年。
結局、八路軍はわれわれに対して何一つ悪さをしませんでした。これは素晴らしかったです。例の「三大紀律・八項注意」が軍隊内に徹底していたのでしょう。一日経ったらそれが分かりましたから、翌日からわれわれも堂々と出て行きました。八路軍が来てから、治安はぐっとよくなりました。
落ち着くにつれ寺小屋の中学校が開校され、毎朝「朝はふたたびここにあり・・・」の歌を合唱し、戦時中とは異なる雰囲気を感じました。
4、残留と帰国
満鉄はソ連軍に接収されましたが、当面元の体制のままでソ連軍に協力することになり、満鉄社員はソ連側から雇われる形で仕事をしていた人が多かったのではないかと思います。
1946年の初め、母は伯父から懇願されて、伯父の親友であった三井軍一氏一家の世話をすることになりました。三井氏は終戦のときに夫人を亡くし、子供4人を抱えていましたが、そのなかの一人は身体未熟児でした。そういう事情があって母も断りきれなかったようです。沙曼屯(しゃまんとん)にあったこの三井氏の家に母と私が移り住み、妹はそのまま伯父の家で暮らすことになりました。
三井氏は南満洲工業専門学校(南満工専)を出た人で、満鉄のハルピン工務区の区長をしていましたが、終戦のときにはそこを離れて鉄道の青年学校――いわゆる後継者を養成する学校――の教頭先生をしていました。戦後私たちと一緒に住むようになってからは、仕事もなく、家でぶらぶらして、たまに会合に出て行くといった生活でした。
私は母の取った行動に不満でしたし、一方日本へ帰りたいという思いが強く、この頃から「残留日誌」をつけはじめ、そうした気持を日々日誌に書きつけました。
46年の8月、待ちに待った日本人の引揚げが始まり、伯父の一家も帰ることになりました。三井の家で母と私も帰るつもりで荷物をリュック一つにまとめて出発を待つばかりとなっていました。ところが、土壇場になって三井氏は帰国出来ないと言われたのです。
三井氏がどうして残留させられることになったのか、私は直接理由を聞いたことがありませんが、推測するに元々工務、つまり土木関係の技師でしたから、戦争であちこち破壊されている鉄道線路を修復するために残されたのではないかと思います。彼の下にいた部下で残る人もいたようですから、工務区長であった彼も残るよう説得されたのではないでしょうか。これも聞いた話ですが、最初は2年間残ってほしいと言われたそうです。
そんな次第で、妹二人は伯父の一家と一緒に帰り、母と私が中国に残留することになったのです。
ハルピンから大勢の日本人が帰国していったあと、日本人の住んでいた周辺には大量のゴミや汚物が残りました。残留させられた日本人は、その後始末の清掃作業に狩り出される羽目になりました。私はこうした光景を見ていて、子供ながらほんとうに悔し涙に暮れました。
ただ、幸いハルピンでは私たちは国民党と共産党の内戦に直接巻き込まれるということはありませんでした。小学校で一緒であった「花園会」の人のなかには、新京で内戦に巻き込まれお父さんを亡くした人もいました。新京(現長春)、奉天(現瀋陽)、四平街等、南に行けば行くほど内戦に巻き込まれた人が出て来ます。
伯父や妹たちを送り出したあと、三井氏と私たちは林口(りんこう)へ行きました。林口は牡丹江(ぼたんこう)の北東に位置しますが、佳木斯(チャムス)に行く線や虎林(こりん)に行く線が交叉する、いわば交通の要衝に当たるところです。おそらくそこを拠点にして鉄道の修復をやったのではないかと思います。
日本人が家族を含めて三、四百人いましたけれども、そのなかに私と同じ年頃の子が3人いました。そうしましたら、鉄道の職員で北大を出た広鰭(ひろはた)さんという方が寺子屋教育のように、私たちに数学とか物理とか英語を教えてくれました。これは非常によかったです。
当時、各家庭では燃料に汽車が落としてゆく石炭ガラを拾い集めて使っていましたが、私はこの「ガラ拾い」は物貰いのようでみじめな感じがして、徹底してさぼりました。要するに"格好悪い"のです。逆に、中国人の青年が穿いているラッパズボンが、私の憧れていた海軍のイメージと重なって"格好良い"服装に見えました。
林口にいたあいだのことでしたが、三井氏の未熟児の娘が5歳で亡くなりました。畑で荼毘に付し、夜警をして朝まで見送りました。2度目の経験でした。
(その3へつづく)
本稿は橋村武司『幻の残留日誌(梦幻的残留日记)─中国に渡った1943年から帰国するまでの10年間─』(2019年、非売品)を著者の許諾を得て転載したものである。
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