林幸秀の中国科学技術群像
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【21-14】【近代編9】容閎~幼童留美政策を実施

2021年06月11日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 トランプ大統領の登場以来、米国と中国の科学技術の交流には暗雲が立ちこめているが、中国の近代科学技術を支え育んだ人たちには、米国に留学した経験を有している人が圧倒的に多い。今回は、清朝末期に先駆者として米国に留学し、その後留学生政策の先鞭を付けた容閎(ようこう)を取り上げたい。

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1909年に発行された『西學東漸記』卷首の挿絵の容閎

生い立ちと教育

 容閎は、1828年に広東省香山県の農家に生まれた。清朝最盛期の乾隆帝の孫に当たる道光帝の時代であり、すでにこのコーナーで触れた曾国藩 とは17歳の年齢差がある。容閎が12歳となった1840年にはアヘン戦争が起き、英国に大敗した後1842年に南京条約を結ばされた。さらにその後1850年には太平天国の乱が勃発している。

 容閎の出生地である香山県は現在の珠海市であり、南にマカオが隣接している。海を挟んで東側には香港島が存在する。広東省の省都である広州市は、約150キロメートル北に位置している。隣接するマカオは1999年までポルトガルの植民地であったが、その歴史は古く、ポルトガル艦隊がマカオ周辺海域の海賊退治に協力したことから、明朝の嘉靖帝時代の1557年にマカオへのポルトガル人居留が認められたのが起源となっている。容閎の幼少期にはポルトガルの居留地にすぎなかったが、ポルトガルはアヘン戦争後に周辺の諸島をも占拠し1887年に直轄の植民地とした。

 1835年、7歳となった容閎は、父親に従ってマカオに行き、キリスト教宣教師夫人が運営する学校に入学した。アヘン戦争の結果香港が英国に割譲されたのを機に、容閎の学んでいた学校が香港に移転したため、容閎も香港に移動した。1847年、容閎の学んでいた学校の校長サミュエル・ブラウン牧師が米国に帰国することになり、ブラウン牧師は容閎ら生徒3人を同行させることとした。1847年4月に米国に到着した容閎らは、マサチューセッツ州の大学予備校(ウィルブラハム・モンソン・アカデミー)に入学した。

 容閎らを同行させたブラウン牧師は、日本とも関係が深い。夫人の病気のためにマカオから帰国した後、今度は日本でのキリスト教布教のため1859年に来日している。そして、聖書の和訳やキリスト教団の発展に尽力するとともに、ヘボン式ローマ字の考案者として有名なジェームス・カーティス・ヘボンらとともに英語教育にも携わり、明治学院の基礎を築いている。

 なお、容閎と一緒にブラウン牧師に同行して渡米した黄勝と黄寛の2人も、その後中国に帰国して活躍している。2人とも容閎と同じく香山県の出身で、黄勝は容閎の一歳上、黄寛は一歳下であった。黄勝はマサチューセッツ州の学校に入学するも、病を得て一年後に帰国し、香港でジャーナリストとして活躍し、後に政治家・教育者としても名をはせている。黄寛は米国で英語教育や基礎教育を受けた後、英国スコットランドのエディンバラ大学で医学を学んだ。その後中国に戻り広州で開業し、臨床医学と医学教育に従事している。

洋務運動への貢献

 容閎は、1850年にウィルブラハム・モンソン・アカデミーを卒業し、コネチカット州にあるイェール大学に入学した。1854年には同大学を無事に卒業し、文学士の学位を取得している。この間、キリスト教に入信すると共に、米国国籍を取得した。

 イェール大学を卒業後は中国に帰国し、米国広州公使館や上海税関などの通訳などの業務に就くと共に、絹糸やお茶の国際的な売買などに携わった。

 当時中国大陸は、清と太平天国が共存する形となっており、容閎は太平天国が中国の近代化のきっかけとなると考えて、1860年に太平天国の都のあった南京(天京)に赴いて軍備や教育制度に関する提案を太平天国の幹部に提出するも、相容れられなかった。

 1863年、今度は旧知の数学者李善蘭 の紹介で、清の洋務運動の主導者である曾国藩に謁見する機会を持った。曾国藩らが主導する洋務運動に中国の近代化への希望を見いだした容閎は、翌1864年に曾国藩の命を受けて米国に赴き中国国内の武器製造所用に様々な機械を購入し持ち帰った。この機械購入の成功により、容閎は曾国藩の信頼を得ることとなった。

幼童留美政策の立案・実施

 曾国藩の信頼を得た容閎は、その後要人の通訳などの仕事をしていたが、子供達を米国に留学させ軍事などの面で将来の中国を背負って立つ人材に育てる計画を思い立ち、1870年に曾国藩にその旨を提案した。曾国藩は同僚の李鴻章と相談し、1872年から「幼童留美」と呼ばれた中国初めての海外留学生派遣政策を実施させることとした。この政策は、上海、福建、広東など中国の沿岸地域の10歳から16歳までの少年(幼童)を毎年30名選抜し、米国(中国語で美国という)に留学させて(留美)軍事や造船・航海術を習得させた後、中国に帰国させるという壮大な計画であった。そして容閎は、在米公使館の副公使として米国に滞在することになった。

 幼童留美政策は当初順調に推移し、1872年から4年間に毎年30人ずつ全体で120人の少年が米国留学に出発した。米国では、全ての少年が米国人家庭でホームステイし英語の習得に励んだ後、高等教育に進んだ。1881年時点で、22名がイェール大学、8名がマサチューセッツ工科大学(MIT)、3名がコロンビア大学、2名がハーバード大学に進んだという。ところが、留学生の中からキリスト教徒となるものが出たり、米国の軍関係の学校がこれらの留学生の受け入れを拒否し最終目的の軍事や造船・航海術の習得が困難となったことから、1881年に清朝政府は幼童留美政策を中断し留学者全員に帰国命令を発した。容閎も留学生とともに帰国した。

 留学生たちはまだ10代のものが多く、大学を卒業していなかったため、帰国後もそれほど重用されなかった。幼童留美政策は中断されたとはいえ、留学生の中からすでにこのコーナーで取り上げた詹天佑(せんてんゆう)などの人物が現れている。

戊戌の変法と辛亥革命

 幼童留美政策中断への失望から容閎は米国に滞在していたが、日清戦争で清が敗北したことを強く憂えて北京に帰国した。1898年に光緒帝により開始されたの戊戌(ぼじゅつ)の変法に関与するも、これが失敗したため、北京を脱出し香港に逃れた。

 その後、孫文の知己を得て、辛亥革命を米国から支援した。辛亥革命が成功し、孫文が臨時政府の大総統に就くと容閎に帰国を促す手紙を送ったが、容閎は病床にあり帰国はかなわず1912年4月、コネチカット州ハートフォードで84歳の生涯を閉じた。

参考資料

  • 百瀬 弘 (翻訳)『西学東漸記―容閎自伝』平凡社 東洋文庫 1969年