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【21-26】【現代編10】孫家棟~宇宙の総帥

2021年10月15日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 近年の中国の宇宙開発活動は、極めて活発である。今年に入っても火星探査車「祝融号」を搭載した火星探査機「天問1号」が、5月15日に火星のユートピア平原南方への着陸に成功し、現在祝融号が火星の表面探査を行っている。月探査活動も活発であり、一昨年の1月には、探査機「嫦娥4号」が世界初となる月面の裏側への着陸に成功している。

 今回は、中国初の人工衛星「東方紅1号」の開発にも参加し、その後の数々の衛星開発や初期の嫦娥計画を指導した孫家棟(そんかとう)を取り上げたい。孫家棟は、人工衛星開発への多大な功績から「中国人工衛星の父」と呼ばれることもあるが、この呼称はすでにこのコーナーで取り上げた趙九章 に使用しており、孫家棟には「宇宙の総帥(航天总师)」との呼称を使いたい。なお孫家棟は、92歳と高齢であるものの存命であることから、現代編で取り上げることとした。

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生い立ちと教育

 孫家棟は、1929年に遼寧省瓦房店(現在の大連市の一部)で生まれた。孫家棟が2歳となった1931年に柳条湖事件が発生。日本の関東軍が満洲全土を占領し、1932年3月には関東軍主導の下に満洲国を建国した。孫家棟は基礎教育をこの満州国の国民として受け、1942年に黒竜江省ハルビンの学校に入学したが、1945年の終戦により通っていた学校が消滅して学業中断を余儀なくされた。

 孫家棟は、1947年にハルビン工業大学の予科に入学しロシア語の習得に努めた後、本科の自動車学科に入学した。当時は日本軍がすでに撤退し、ハルビンを中心とした地域はソ連軍の影響下に置かれており、ハルビン工業大学も中国とソ連の共同管理下で主に鉄道技術者の養成行い、授業はロシア語で行われていた。

空軍に入隊し、ソ連に留学

 孫家棟がハルビン工業大学の学生であった1949年に中華人民共和国が成立すると、直後の同年11月、人民解放軍内に空軍が設立された。孫家棟は、それまで学んできたロシア語の技能を活かすべく、学業を中断し、通訳として人民解放軍空軍に入隊した。

 孫家棟に大きなチャンスが訪れたのは、21歳となった1951年である。新中国建国直後は中国とソ連が蜜月の状態にあり、様々な分野でソ連は新中国建国に貢献している。その一環で、科学技術面でもソ連は有力科学技術者を指導者として中国に派遣するとともに、優れた若者をソ連に招聘し大学等で教育を行っていた。孫家棟は、空軍の他の同僚を含め総勢30名のソ連派遣者に選抜され、モスクワにあったジューコフスキー空軍工学アカデミーに留学し、航空機のエンジン技術を専攻した。同アカデミーはソ連空軍により1920年に設立された著名な航空科学の高等教育機関である。

ミサイル開発に従事

 孫家棟は、ソ連に留学して7年後の1958年にジューコフスキー空軍工学アカデミーを優秀な成績で卒業し、中国に帰国した。帰国後は、このコーナーで取り上げた銭学森 が所長となっていた国防部第五研究院に配属され、ミサイル開発に従事した。

 ミサイルの開発当初はソ連との協力が大きく貢献し、ソ連製ミサイルR-2が中国に供与され、中国はこれを解体してリバースエンジニアリングして複製することにより、中国製初号ミサイル「東風1号」が1960年に打ち上げられた。しかし、東風1号は航続距離が短く搭載能力も原爆を搭載するには小さすぎたため、銭学森らはその改良に乗り出した。ただ、この頃になるとスターリン批判を巡って中ソ対立が激化し、ソ連は中国への技術協力を中断し1960年には派遣していた技術者を引き上げてしまった。

 孫家棟は、銭学森率いる開発チームの一員としてミサイル自主技術開発を続行した。1964年10月、核弾頭を装備した東風2号Aミサイルが打ち上げられ、20キロトンの核弾頭がロプノール上空で爆発した。この成功により両弾一星の両弾部分が完成した。

人工衛星開発に転換

 孫家棟は、その後もミサイル技術の高度化作業に従事していたが、文化大革命の混乱を受けて1967年に両弾一星政策の担当部局が再編となったのを機として、担当がミサイル開発から人工衛星開発に転換される。当時の人工衛星開発の責任者は、中国科学院衛星設計院(「651設計院」)院長の趙九章 であった。

 孫家棟は、趙九章らとともに中国初の人工衛星「東方紅1号」の開発を進めたが、打ち上げ時期が見えてきた1968年10月に、趙九章は革命派の残虐な仕打ちに耐えかねて毒をあおいで自殺した。孫家棟らはこの悲劇を乗り越えて、1970年4月に長征1型ロケットによる東方紅1号の打ち上げに成功した。

趙九章の「遺言」を受けて様々な人工衛星開発を主導

 東方紅1号の打ち上げ成功の後、孫家棟は趙九章の「遺言」とも言うべき仕事を進めていく。趙九章は、1966年に開かれた中国科学院の衛星計画構想委員会で、中国の衛星シリーズの将来構想を発表していた。これは、初期は東方紅1号を含め科学観測を中心とした科学衛星の開発に注力し、その成果を元に情報収集、通信、気象、測地、測位などの応用衛星に発展させ、さらにその応用衛星の成果を元に有人宇宙飛行に発展させるというものである。

 孫家棟らは、軍事的な情報収集を目的とする中国初の回収式衛星「FSW-0」の開発を進め、1975年打ち上げを成功させた。また、通信技術試験衛星「東方紅2号」を1984年に打ち上げている。こういった実績を踏まえ、気象衛星の風雲シリーズ、地球資源探査衛星の資源シリーズ、航行測位衛星の北斗シリーズなど次々に応用衛星が中国で打ち上げられたが、これらのプロジェクトを総括したのが孫家棟である。

 このような成果を受けて、孫家棟は1992年に中国科学院院士に選出され、1999年には「両弾一星功勲奨章」を授与されている。

嫦娥計画を指揮

 2003年、孫家棟は、探月工程総設計士に任命された。探月工程とは月探査のことであり、「嫦娥計画」とも呼ばれる中国最初の宇宙科学ビッグプロジェクトである。嫦娥は、中国の神話に出てくる月にちなむ女神である。

 嫦娥計画の開始に当たり、孫家棟は、全体を三つの段階に分けて達成する考え方を示した。第一段階では、人工衛星を月に軌道に投入し、月を周回することにより月の表面を観測する。第二段階では、人工衛星に探査機を搭載し、月の表面に探査機を着陸させて探査を行ったり、月表面のサンプルを地球に持ち帰る。第三段階では、有人による月面着陸と滞在を目指す。孫家棟は、このうち第一段階の指揮を自ら執り、2007年の「嫦娥1号」の打ち上げ、2010年の「嫦娥2号」の打ち上げを成功させた。

 孫家棟は、2009年に中国の科学技術者への最高栄誉である「国家最高科学技術賞」を受賞し、その頃に公的な職は引退したが、孫家棟の引退後も嫦娥計画は着々と進められ、2013年に「嫦娥3号」に搭載した月面車「玉兔」の月着陸成功、2019年の「嫦娥4号」による月裏側への着陸成功を成し遂げている。

参考資料

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