林幸秀の中国科学技術群像
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【21-30】【近代編23】竺可楨~卓越した気象学者として中国科学院を牽引

2021年11月22日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、卓越した気象学者として中国の学術の発展に寄与し、新中国建国後は中国科学院の発展を牽引した竺可楨(じくかてい)を取り上げる。

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竺可楨

生い立ちと米国留学

 竺可楨は、1890年に浙江省紹興の商人の家に生まれた。小学校を修了の後、15歳で上海澄衷学校に入学し、復旦公学(現在の復旦大学)を経て1909年に河北省の唐山路鉱学堂(現在の西南交通大学)に入学して土木工学を学んだ。在学中にちょうど開始されたばかりの庚款(こうかん)留学生制度に応募して合格し、1911年に第2回の留学生として米国に渡り、1913年にイリノイ大学農学部を卒業し、さらにハーバード大学に移って勉学を続けた。この頃米国に滞在する中国人留学生の間で、科学者の結社「中国科学会」が組織され、竺可楨も参加している。1918年にはハーバード大学から気象学の博士号を取得した。

中国に帰国

 1918年に帰国の後、武昌高等師範学校(現武漢大学)、南京高等師範学校(現南京大学)、南開大学などで地学や気象学の教鞭を取った後、1928年から中央研究院の蔡元培 院長の招聘に応じて南京に設置された気象研究所の初代所長となり、中国全土における気象観測網の整備に努めた。

 1936年には浙江大学の学長に就任したが、日中戦争の勃発に伴い同大学があった杭州に日本軍が迫ったため大学の移動を決断し、江西省を経て貴州省遵義市に移り、そこで日本軍の敗戦を迎えた。

最初の妻は中国初の女性飛行士

 竺可楨は、米国からの帰国直後の1919年に上海で、張俠魂(ちょうきょうこん)と結婚している。張俠魂は、1897年に湖南省で生まれており、竺可楨の7歳年下である。張俠魂は、1916年に北京の航空訓練学校で女性で初めてとなる試験飛行に挑戦し、見事に成功させた人物である。竺可楨と張俠魂は結婚後仲睦まじく5人の子供を設けたが、日中戦争のために浙江大学が疎開していた江西省で1938年に赤痢のために亡くなっている。子供も亡くなっており、竺可楨にとっては大変な悲劇であったろう。

 その後、竺可楨は知人の紹介で陳汲と知り合い、1939年に四川省の峨眉山金頂で結婚している。

新中国建国後、中国科学院の幹部に

 1945年に日本が敗戦となり撤退する中で、1946年に竺可楨は浙江大学の杭州への復帰の指揮を執った。

 中国共産党と国民党の内戦が終了し、国民党が台湾に逃れた際に国民党政権より台湾へ招聘されたが、これを断り、新中国建国直前の1949年8月に開催された中国人民政治協商会議に参加し、自然科学の発展を盛り込んだ「共同綱領」制定に貢献している。新中国建国式典に参加し、その直後に中央研究院などを吸収して発足した中国科学院の副院長に就任し、郭沫若 院長を補佐した。

 1955年に中国科学院に学部制度(現在の院士制度)が導入されると、竺可楨は初代の生物学地理学部の主任となっている。

晩年

 竺可楨が70代後半となったときに、文化大革命が勃発したが、周恩来総理の計らいにより、直接的な暴力や批判を受けたり家宅捜索を受けたりすることはなく、中国科学院副院長としての業務を続行することが可能であった。しかし中国科学院の大部分の幹部や有力研究者は文革の被害を被り業務遂行が不可能となったため、竺可楨はもう一人の副院長であった呉有訓 と一緒に、対外科学技術協力などを細々と続行した。

 竺可楨は文革中の1974年に84歳で北京で死去した。

科学技術的業績

 竺可楨の最大の功績は、中国全土を対象とした気象学の確立とそれを実践する観測網の整備であろう。ハーバード大学で博士号を取得して帰国するや、東南アジアの台風と天気型、歴史的な気候変動などに関して論文や著作を次々に発表し、また中国気象学会の設立にも貢献した。学術的な知識に基づき、中国全土に地上及び高層観測の可能な気象台を次々と設置し、天気予報や気象予報を可能とするよう尽力した。この気象観測網の設置は、竺可楨の生涯の課題であり、帰国後から晩年の中国科学院の副院長の時代まで、様々な形で尽力している。ただしこの時代は、日本軍の侵略、国共内戦、文化大革命といった破壊を伴う事件が次々と発生した時期であり、竺可楨の苦労は並大抵のものではなかったろう。晩年の1964年に竺可楨は、「我が国の気候の特徴と食料生産との関係について」という論文を発表し、日光、温度、降雨が食料生産に与える影響を分析し、中国大陸における農業政策の効率を高める方策を提案した。毛沢東共産党主席は、この論文を高く評価したという。

 竺可楨は、持続的な経済発展という現代的な課題について、世界でもそれほど注目されていなかった時期から発言していたことでも知られる。彼は、世界の経済発展の歴史的過程から考えて、資源、人口、環境と経済発展の両立の重要性を強調し、中国においてもこの様な考え方に立って研究すべきであると強調していた。

 竺可楨は、教育分野でも大きな功績を残した。13年間にわたり学長を務めた浙江大学で見ると、竺可楨の学長就任時は文理、工、農の3学部に過ぎなかった規模を、教育、法学、医学を設置して総合大学に成長させている。また、学生数も500人程度の規模から2千人規模にまで拡大させており、浙江大学の卒業生は新中国の高級専門人材となって各分野で活躍した。2000年に浙江大学は、竺可楨元学長の功績を称え、文、理、工の学域融合を目指す竺可楨学院を創設している。

参考資料