林幸秀の中国科学技術群像
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【21-27】【近代編20】呉有訓~多くの優れた物理学者を育成

2021年10月27日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、物理学者の呉有訓を取り上げる。呉有訓は米国のシカゴ大学に留学し、アーサー・コンプトン教授の下で「コンプトン効果」の実証に取り組み、コンプトンのノーベル賞受賞に貢献した後、中国に帰国し、清華大学理学院長として数々の優れた物理学者を育てている。

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呉有訓

生い立ちと教育

 呉有訓は1897年に、中国の南部、長江南岸に広がる江西省高安(宜春市)に生まれた。当時の清朝は、1895年に日清戦争で敗れ西欧列強の侵略がさらに進んだ時期であり、呉有訓の生まれた翌年には、光緒帝が戊戌の変法を起こすが、西太后のクーデターにより実権を失い混迷した時代であった。

 呉有訓は、故郷の江西省高安や江西省の省都南昌の中学校に学び、辛亥革命後の1916年に江西省の北に位置する江蘇省南京に出て、南京高等師範学校(現在の南京大学)の理化学部に入学した。第一回の庚款(こうかん)留学生として米国に留学しハーバード大学から博士号を取得した胡剛復が、呉有訓入学後の1918年に同師範学校の物理教師に赴任してきた。呉有訓は胡剛復から教えを受けて米国留学の夢を持つと共に、X線に対する知識を深めた。

恩師のノーベル賞受賞に貢献

 恩師胡剛復の後押しもあり、呉有訓は南京高等師範学校在学中に江西省の官費留学生試験に合格し、1922年に米国シカゴ大学物理学科に留学した。

 シカゴ大学ではアーサー・コンプトン教授に師事した。アーサー・コンプトンは、プリンストン大学で博士号を取得の後、英国のケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所に留学し、米国に戻って中西部のセントルイスにあるワシントン大学教授および物理学科長に就任した。ワシントン大学在任中の1922年、X線を物体に照射した際に発生する散乱X線の波長が元のX線の波長より長くなる現象である「コンプトン効果」を発見した。このコンプトン効果は、X線(電磁波)が粒子性を持つことを示すものであったが、当時の学界では容易に受け入れられず、激しい科学論争が始まった。

 コンプトンは、その後1923年にシカゴ大学の教授に転勤したが、そのコンプトンに師事したのが、中国から留学した呉有訓であった。呉有訓は、恩師の説を証明するために他の同僚と共に実験を繰り返し、学界においてコンプトン効果の正しさが確立することに貢献した。この発見によりコンプトンは、1927年にノーベル物理学賞を受賞している。

帰国後は教職に

 シカゴ大学から博士号を取得した呉有訓は1926年に帰国し、江西大学(現在の南昌大学)、国立中央大学(現在の南京大学)を経て、1928年に清華大学の教授となり、理学院長(理学部長)と物理学科の主任を兼務した。

 1936年には、ドイツの国立科学アカデミー・レオポルディーナの会員に推挙され、西欧のアカデミーにおける最初の中国人会員となった。

 1937年日中戦争が勃発し、日本軍は同年7月末までに北京と天津を占領した。北京市内が日本軍に占領されたため、清華大学は北京大学や天津にあった南開大学とともに内陸部の雲南省昆明に向けて移動し、1938年5月「国立西南連合大学」を雲南省昆明に開校した。呉有訓は、同大学の理学院長として梅貽琦 (ばいいき)清華大学校務委員会主任らを助け、疎開地での教育実施に尽力した。この苦難の時期に、後述するように著名な物理学者を多く育てている。

中国科学院で活躍

 日本軍が敗戦した1945年には、母校である中央大学(現在の南京大学)学長に就任したが、その後国共内戦を経て中華人民共和国建国に際しては、人民政治協商会議に無党派代表として参加した。

 新中国が成立すると、呉有訓は中国科学院の近代物理研究所(現在の中国原子能科学研究院)の所長となり、また1955年に中国科学院の学部制度(現在の院士制度)が創設された際には、物理学数学化学部の主任に就任した。

 1959年、中国科学院の副院長となっていた呉有訓は、翌1960年に同院代表団団長として東欧7か国の大学や企業を3か月にわたり訪問し、協力関係の構築に尽力している。また同じ年、呉有訓は英国の王立学会の招聘に応じ、同院代表団団長として同学会創立三百周年式典に参加した。

 その後、中国物理学会会長、中国科学技術協会副主席などを歴任した後、1977年に北京でなくなっている。享年80歳であった。

優れた物理学者を輩出

 呉有訓は、コンプトン博士のノーベル賞受賞に貢献するという科学的な業績もあるが、中国の科学技術への圧倒的な貢献は、多くの教え子の中から優れた物理学者を輩出したことであろう。清華大学、国立西南連合大学で長い間、理学院長や物理学主任を務め、また、自らの留学を含めて海外経験が豊富であることから、多くの有望な若手が触発されたと考えられる。

 呉有訓は、基本理念と論理性を重視する、理論だけでなく実験も重視する、国際的な物理学の進捗状況を的確に把握するなどの教育方針を採り、数々の優れた物理学者を育てた。

これらの中には、銭三強、鄧稼先 、趙九章 、黄昆らがいるが、とりわけ有名な教え子は楊振寧 と李政道 である。この両名は、呉有訓と同様、シカゴ大学に留学しており、その後ノーベル賞受賞に輝いている。

参考資料