【22-04】【近代編30】周恩来~科学技術の方向性を示し科学者を護り抜く
2022年02月22日
林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長
<学歴>
昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業
<略歴>
平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)
はじめに
今回は、新中国の偉大な政治家である周恩来を取り上げる。周恩来は、建国以来死去するまで国務院総理として外交を含めた中国全体の行政を取り仕切ったが、科学技術の振興にも偉大な足跡を残している。
周恩来の生涯
周恩来の業績は、政治、外交などあらゆる分野で突出した業績を誇っている。まず、周恩来の略歴を簡単にここで紹介する。
周恩来は、1898年に江蘇省の淮南市に生まれた。淮南市は、南京の約100キロメートル北に位置する。辛亥革命後の1913年に天津の南開学校に入学し、同校を優秀な成績で卒業後、1917年に日本に留学した。東京で日本語を学習するも希望の学校に入れず、母校の南開学校が大学部を設置すると聞き、1919年に天津に戻って新設の南開大学に入学した。帰国直後に北京で五・四運動が起き、周恩来は同運動のリーダーとなり頭角を表したが、翌年逮捕されてしまう。
釈放後、周恩来は再び留学することを決意しフランスのパリに渡った。パリでは中国共産党フランス支部を組織し、ヨーロッパ総支部が作られるとその書記となった。留学仲間には、鄧小平や朱徳などがいた。
1924年、周恩来は帰国し、第一次国共合作を成立させた孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部副主任となった。ちなみに同校の校長は蒋介石であった。1931年、江西省の瑞金に中華ソビエト共和国臨時中央政府が樹立されると瑞金に入り、長征に参加した。1936年に西安事件が起きると周恩来は蒋介石を説得し、一致して日本軍に対抗することを約束させた。1937年に日中戦争が始まると、周恩来は共産党の代表として重慶に駐在し、蒋介石との統一戦線の維持に努めた。
1949年、国共内戦に勝利した共産党が中華人民共和国を建国すると、蒋介石は毛沢東主席を補佐する政務院(後の国務院)総理として、新中国の行政全般を取り仕切った。
建国後の9年間、周恩来は外交部長(外務大臣)を兼務し、米ソ冷戦の狭間で積極的外交を展開した。1971年には周恩来の外交手腕もあってアルバニア決議が国連総会で可決され、中華人民共和国は国連に加盟した。翌1972年、米国ニクソン大統領訪中と日本の田中首相訪中が実現し、米国や日本との復交に進んでいった。
国内では、1958年の大躍進政策の失敗により大量の餓死者を出したことから、劉少奇、鄧小平らが経済調整を行うが、これに対抗するため1966年に毛沢東は文化大革命を発動させた。周恩来は毛沢東に忠実に従い、革命派と行動をともにしつつも、紅衛兵などの極端な暴虐を抑える役割を果たした。しかし、革命派が実権を掌握すると周恩来の政治的な影響力は弱体化した。転機となったのが1971年の林彪事件であった。林彪は毛沢東の後継者とされ、ナンバー2であったが、毛の暗殺を計画したが失敗し、ソ連に逃亡する途中に搭乗機がモンゴルで墜落し死亡した。これが契機となって鄧小平が復権し、一部幹部の名誉が回復された。周恩来は鄧小平と協力して文革の混乱を収拾しようとした。しかしその後も、周恩来は江青ら四人組との激しい権力闘争を強いられたが、最後まで毛沢東に信任され実権を握り続けた。
1972年に膀胱がんが発見されるも、休むことなく職務を続けた。1974年6月に病院に入院し、病室でなおも執務を続けたが、ついに1976年1月、周恩来は死去した。享年77歳であった。遺骸は本人の希望により火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布された。
周恩来
四つの近代化の提唱
さて、周恩来が科学技術発展に貢献した点であるが、最も重要なのは「四つの近代化(中国語では四个现代化)」を提唱したことであると筆者は考えている。
ただ、最初に四つの近代化が言及されたのは中華人民共和国建国直前である。1949年9月、中国人民政治協議会議の第1回総会において、新中国の暫定憲法の役割を果たす「共同綱領」が採択された。この共同綱領第43条に、「工業、農業と国防の建設に役立つ自然科学の発展に努める。科学の発見と発明を奨励し、科学的知識を普及させる」と規定されており、これが四つの近代化の原型である。
周恩来が最初に四つの近代化に言及するのは、新中国建国後の1954年に開催された全国人民代表大会であり、国務院総理として政府活動報告を行い、経済の後進性と貧困を排除し革命を達成させるために、「工業、農業、交通輸送業、国防に関する四つの近代化」を提唱した。また1958年に開催された中国共産党の宣伝工作会議で、「産業、農業と科学・文化の近代化」を提唱した。しかしこれらの提案は、大躍進政策などの政治的経済的な混迷のため実施されることはなかった。
大躍進政策の失敗後、劉少奇や鄧小平が政治的経済的な調整を進め、1964年に開催された全国人民代表大会で、周恩来は国務院総理として政府活動報告を行い、「農業、産業、国防、科学技術の近代化を完全に実現し、中国の経済を世界の先頭に立たせ、強力な社会主義国を構築する」という四つの近代化路線を再度主張した。しかしこの際も、1966年から開始された文化大革命の影響を受けて、実施されることはなかった。
文革中の林彪事件後、鄧小平を復活させるなど政治的な基盤を強化した周恩来首相は、1975年の全国人民代表大会で政府活動報告を行い、「今世紀内に農業、工業、国防、科学技術の全面的な近代化を実現し、中国の国民経済を世界の前列に立たせる」と提唱した。しかしこれも、四人組の反撃により実施されることはなかった。
すでに述べたように、周恩来はその後病に冒され、1976年1月に死去する。そして、周恩来が訴え続けた四つの近代化を政策として実施したのは、文革終了後の1977年7月に復活した鄧小平であった。鄧小平は、1978年3月に全国科学大会で演説し、「農業、工業、国防、科学技術の近代化を実現し、我が国を近代的強国とすることは、我が国人民の歴史的使命である」と強調した。四つの近代化は、その後1982年に制定された新憲法(82憲法)に明記されている。
革命思想で軽視されがちであった科学と科学者を護り抜く
周恩来の科学技術へのもう一つの重要な貢献が、革命派に根強く存在した「知識人蔑視」による迫害から、科学者を護ろうとしたことである。
毛沢東率いる中国共産党支配の新中国では、建国当初から科学やそれを支える研究者・科学者などの知識人を重視せず、むしろ邪魔者扱いすることが多かった。そして、社会が混乱すると科学が軽視され、知識人が弾劾されることが繰り返された。
特に激しかったのは、「百花斉放百家争鳴」の混乱後の反右派闘争と、大躍進政策の混乱後の文化大革命である。双方とも、革命の主体は農民と労働者であり、科学を振り回す知識人は地主や資本家などととともに打倒すべき対象とされた。要領良く立ち回り被害を最小限にとどめた知識人もいたが、実直であり融通の利かない知識人は革命派(特に文革時代の紅衛兵)の迫害の対象となり、命を落としたり身体や心に傷害を受けたものが多く出ている。
周恩来は、若くして革命運動に身を投じているため必ずしも知識人に分類されないが、日本とフランスに留学経験があるからであろう、科学や知識人に深い敬愛の心を有していたと考えられる。また周恩来は、後の鄧小平と同様に極めて合理的・実利的な人物であり、科学の発展や知識人の協力なしに経済や国防の進展が望めないことを肌で感じていたと思われる。
周恩来の力が遺憾なく発揮されたのが、文化大革命中の知識人保護である。この時期の中国全体の大きな政策目標は、原水爆とミサイルさらには人工衛星を開発する「両弾一星政策」を完成させることにより米国やソ連に対抗することであったが、その両弾一星政策ですら革命派の批判対象となった。そこで周恩来は、両弾一星政策を担当する研究所の資材や人員を、革命派の比較的手が出しにくい人民解放軍に移転させた。また、紅衛兵らの暴力から知識人らを守るため、文革初期の1966年8月に「保護すべき幹部リスト」を作成し、毛沢東の同意を得て保護に努めた。周恩来の度重なる庇護の下で両弾一星政策は着実に進められ、1967年に水爆実験が成功し、1970年には人工衛星「東方紅1号」が打ち上げられた。
しかし、周恩来の努力もむなしく、自殺したり傷ついたりした知識人や、下放による強制労働についた知識人もいた。このコーナーで取り上げた趙九章 は自殺し、銭三強 は下放の憂き目に遭っている。また知識人ではないが、周恩来の養女で女優の孫維世は毛沢東の妻で四人組の一人江青の激しい憎悪の対象となり、北京獄中で拷問を受けて死亡している。
周恩来と松村謙三
すでにこのコーナーで取り上げた郭沫若 の記事で述べたが、松村謙三元文部大臣・衆議院議員は日中の国交回復に尽力した政治家であり、私の郷里の富山県福光町(現南砺市)出身である。松村謙三は、1959年に周恩来の招きにより第1回目の訪中を果たし、その後全体で5度にわたって訪中して覚書貿易促進などにより国交回復を目指した。その縁で1983年に、福光町と周恩来の原籍(祖先の地)である浙江省紹興が友好都市となった。紹興は紹興酒や魯迅の生家で有名な地であり、人口は約500万人と大都会である。一方の福光町は人口約3万人の小さな町である。友好都市提携は、松村謙三の遺徳と私は考えている。
参考資料
- ・矢吹晋「毛沢東と周恩来」 講談社現代新書、1991年
- ・高橋強、川崎高志「周恩来-人民の宰相」 第三文明社、2019年
- ・人民中国HP 「周恩来総理と中日関係(中)生誕110周年にあたって」