【21-28】【近代編21】銭三強~核兵器開発の責任者
2021年10月29日
林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長
<学歴>
昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業
<略歴>
平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)
はじめに
今回は、両弾一星政策で、原爆と水爆の核兵器開発を総括した銭三強を取り上げる。両弾一星政策は、毛沢東や周恩来らの発案の下、軍人出身の政治家である聶栄臻 (じょうえいしん)が総括指揮を執り、ミサイルと人工衛星は銭学森 、核兵器は銭三強がそれぞれ主導している。
父親は早稲田大学留学者で著名な言語学者
銭三強の父親である銭玄同は、著名な言語学者であり教育者であった。銭玄同は、銭三強が生まれる前の1906年に早稲田大学に留学し、教育学を学んでいる。日本留学中に、清朝打倒を目指す政治結社「中国同盟会」の会員となり、魯迅らと交わった。辛亥革命(1911年~1912年)の直前に帰国し、革命後は郷里の浙江省で教育行政に従事した後、1913年に北京に移り北京高等師範学校(現北京師範大学)の教師となった。その後、北京大学の教授となり文字改革を掲げる「新文化運動」の中心人物として活躍した。
生い立ちと教育
銭三強は1913年に浙江省紹興に生まれ、生後すぐに北京高等師範学校の教師となった父に従って北京に移った。蔡元培が校長を務めた孔徳中学に通った後、1929年に父が教授を務める北京大学理学部の予科に入った。1932年に予科を卒業した後、同じく北京にある清華大学に移った。同校では、呉有訓 の核物理を中心とする近代物理学に関心を持った。清華大学を1936年に卒業した銭三強は、北平研究院物理研究所に入り、著名な物理学者で所長の厳済慈の助理員(助手)となって、分子スペクトルを研究した。
フランスへの留学
1937年に盧溝橋事件が勃発し日本軍が北京を占領したため、所長の厳済慈は銭三強にフランスへの留学を勧めた。厳済慈も1923年から1937年までフランスに留学していたのである。
銭三強は、パリのソルボンヌ大学に入り、キュリー夫人の娘で前々年の1935年にノーベル賞を受賞していたイレーヌ・ジョリオ・キュリーとその夫のフレデリック・ジョリオ・キュリーの指導を受けて、アルファー線の研究を行った。そして、「アルファー線とプロトンの衝突」と題した論文を完成し、これにより1940年に博士号を獲得した。
妻・何沢慧
銭三強は、その後もパリに留まり、キュリー研究所で研究を継続していたが、1946年に何沢慧(かたくけい)と結婚する。何沢慧は、実業家である何澄の娘として、1914年に江蘇省蘇州に生まれた。父親の何澄は1901年に日本に留学し、新宿にあった東京振武学校を経て、陸軍士官学校を卒業して帰国し軍人となったが、何沢慧が生まれた頃は軍務を離れ蘇州で織布工場を経営していた。何沢慧は、清華大学で銭三強と同級生であり、1937年に銭三強と同様に清華大学を卒業し、ドイツのベルリン工科大学に留学し、1940年に博士号を取得した。その後、ベルリンやハイデルベルグなどで研究を続行していた。
帰国後、原子力研究所設立に奔走
1948年に、銭三強は妻の何沢慧や長女の銭祖玄とともに中国に帰国した。帰国後は、夫妻の清華大学時代の恩師・呉有訓とともに原子力研究を行う研究所の設立に奔走し、新中国建国後に設立された中国科学院近代物理研究所(現在の中国原子能科学研究院)の副所長となった。所長は呉有訓であり、夫人の何沢慧も研究員となった。その後、呉有訓が中国科学院副院長に昇格したため、銭三強は1951年から同研究所の所長となり、以降文革終了後の1978年まで務めている。
フランスからの帰国の途上にある銭三強、何沢慧と長女の銭祖玄
両弾一星政策 核兵器開発の責任者に
1956年頃、聶栄臻らは毛沢東や周恩来らの同意を得て、両弾(原水爆とミサイル)の開発に乗り出す。その後ソ連の協力を取り付け、人工衛星の開発を付け加えた両弾一星政策を実施していった。
銭三強は、1956年に設置された原子力工業と核兵器開発を所管する「第三機械工業部(後に第二機械工業部と改名)」の技術責任者(副部長)となった。1958年にロシアからの援助により開始された研究用の原子炉建設に夫人の何沢慧や部下の鄧稼先 とともに参加し、原爆開発のための技術的な研究を進めた。
フルシチョフのスターリン批判を受けて中ソ対立が始まり、ソ連の両弾一星政策への協力が徐々に縮小され、1960年には完全停止となり、派遣されていた技術者も帰国してしまった。この状況にあっても銭三強らは、中国独力での核兵器開発を続行した。
1964年10月16日、新疆ウイグル自治区のロプノール砂漠において、初の原爆実験が無事に成功した。ちなみに、10月16日は銭三強の誕生日であり、原爆実験の成功は実質的に銭三強への51歳の誕生日プレゼントとなった。
文化大革命の勃発と水爆の開発
銭三強らは続いて水素爆弾の設計作業に従事したが、1965年末に文化大革命が始まった。文革では既存の教育や研究組織が批判と破壊の対象となったため、周恩来は両弾一星政策を担当する研究所の資材や人員を革命派の比較的手が出しにくい人民解放軍に移転させた。また周恩来は、紅衛兵らの暴力から知識人らを守るため、文革初期の1966年8月に「保護すべき幹部リスト」を作成し、毛沢東の同意を得て保護に努めた。このように、周恩来の度重なる庇護の下で両弾一星政策は着実に進められ、銭三強らの努力の甲斐あって、1967年6月にロプノールで初の水爆実験が成功した。
このような功績を挙げた銭三強・何沢慧夫妻であるが、その後も革命派から「反動学術権威」のレッテルを張られ批判と迫害を受け、1969年の冬に陝西省合陽の「五・七幹部学校」で農業労働に従事させられた。五・七幹部学校とは、中国共産党や政府機関の幹部を農村に下放し、生産労働に参加させて革命意識を高めるために設けられた農場であり、1966年5月7日付で毛沢東が林彪にあてた手紙での指示(五・七指示)の精神に基づくことから、このように呼ばれた。
中国科学院学部制度の改革
文革の終了後1977年に、銭三強は中国科学院の副院長に就任した。銭三強は、中国科学院の学部(現在の院士)の改善に乗り出した。銭三強は、学部制度が発足した1955年に学部委員になっていたが、学部委員の老齢化に危機感を抱いたのである。10年にわたって続いた文革のため新しい学部委員が任命されず、学部委員の平均年齢が73歳まで上昇していた。銭三強は、事務局に命じて新委員の増員を図り、1980年には280名以上の委員を新たに任命し、平均年齢を65歳まで引き下げた。
晩年
銭三強は、その後も中国科学技術協会副会長、中国物理学会会長、中国原子力学会名誉会長などを歴任したが、1992年に病を得て79歳で亡くなった。1999年には、新中国建国50周年を機に両弾一星政策に貢献した科学者・技術者23名が「両弾一星功勲奨章」を叙勲され、銭三強もその一人として追叙されている。
長い間苦楽を共にした夫人の何沢慧であるが、結婚後も物理学の研究を続行し、中国科学院原子能研究所副所長や高エネルギー物理研究所副所長などを務めている。特に宇宙線の研究に没頭し、高地チベットに観測施設を設置している。1980年には、中国科学院学部委員(院士)に当選している。1992年に夫銭三強を看取った後も宇宙線の研究を続け、2011年に97歳で亡くなっている。
参考資料
- 中国科学院60周年HP 銭三強」
- 「銭三強 - 簡介」」
- 「那年今日丨中国的"原子弾之父" 銭三強誕生」」
- 王鴻生「領軍科学家: 銭三強 銭学森 趙九章」中国科学技術出版社,2012年
- 人民網HP「著名物理学家 何沢慧 逝世」」