【22-08】【近代編33】張孝騫~西欧流の内科学の創始者
2022年03月30日
林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長
<学歴>
昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業
<略歴>
平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)
はじめに
今回は、米国に留学して医学を学び、帰国後に近代内科学の基礎を築いた張孝騫(ちょうこうけん)を取り上げる。
生い立ちと教育
張孝騫は、1897年に、湖南省長沙で教師の家庭に生まれた。小さい時には中国の工業化に貢献しようとして工学部を目指して数学や英語を熱心に勉強していたが、清朝末期から辛亥革命後の混乱の中で、「人民の窮状は貧困と病苦に由来しており、とりわけ病苦を無くさないと中国は発展しない」という祖父の言葉を聞いて、医師を目指すこととした。
地元長沙の中学校を卒業し、長沙で1914年に設立されたばかりの湘雅医学専門学校(現在の中南大学医学院)にトップの成績で入学した。湘雅医学専門学校については、湯飛凡 の記事ですでに取り上げた様に、湖南省と米国イェール大学が共同で設立した医学校で、初代の校長はイェール大学で医学博士号を取得して帰国した顔福慶であった。ちなみに湯飛凡と張孝騫は、同じ年に同じ湖南省で生まれており、また同じ1914年に湘雅医学専門学校に入学している。
張孝騫は24歳となった1921年に、学業と論文でトップの成績で同専門学校を卒業し、イェール大学のあるコネチカット州から医学博士号を授与された。
訪米と協和医院勤務
湘雅医学専門学校を卒業した張孝騫は、同校の医師として勤務した後、1924年に北京にある協和医院に転勤した。協和医院は、兄弟組織である協和医学院と同様、米国のロックフェラー財団の協力により設立されており、協和医院は病院で協和医学院は高等教育機関である。このコーナーで取り上げた林巧稚 も、協和医院の産婦人科医師として長年勤務している。
張孝騫は1926年に米国に赴き、メリーランド州にあるジョンズ・ホプキンズ大学医学部で1年間研修医として勤務している。1930年には、協和医院において消化器内科の設置に尽力し、また1932年からは協和医学院の副教授として教鞭を執っている。1933年に再度米国に赴き、カリフォルニア州のスタンフォード大学医科大学院で胃酸分泌の研究を行った。1934年に帰国後、再び協和医院に勤務し内科消化専門グループの主管となった。
日中戦争で疎開
1937年に盧溝橋事件により日中戦争が勃発し、北京は日本軍に占領されるが、協和医院は米国の協力で設置された病院であったため、一種の治外法権の扱いを受けて日本軍の占領を免れた。しかし、日中戦争による日本軍戦病兵の治療を強要されたこともあって、張孝騫は北京を離れ、湖南省長沙に戻って母校の湘雅医学院の院長(学長)となった。1938年夏、日本軍がさらに中国内部に侵入し長沙に迫ったため、張孝騫は同医学院を貴州省貴陽や重慶などに疎開させた。
日本が敗れて撤退した後、張孝騫は湘雅医学院を湖南省に戻したが、1948年には同医学院の院長を辞めて北京の協和医学院・協和医院に戻り、内科教授と内科主任を務めた。1949年の中華人民共和国建国後も、協和医学院・協和医院の職務を続行し、1962年には協和医学院の副校長となった。
文化大革命での迫害
1966年から始まった文化大革命で、張孝騫は汚名を着せられ侮辱を迫害を受けることになる。紅衛兵達は協和医学院に来て、70歳に近い張孝騫を引きずり出して「反動学術権威」や「スパイ」であると罵った上で、それを認めろとして張孝騫を鞭で乱打した。このため、張孝騫は眼鏡を割られ、額は血だらけになった。その後も、張孝騫に対する執拗な迫害が続いたが、1972年に周恩来が張孝騫を安全な場所に匿うことに成功した。
晩年
文革終了後の1978年に、81歳の張孝騫は中国医学科学院の副院長に任命された。1980年には、再度米国とカナダを視察訪問している。1987年に張孝騫は、肺がんにより長年勤めた北京協和医院で亡くなっている。享年90歳であった。
科学技術上の功績
張孝騫の功績は、医学臨床研究と医学教育の二つの側面がある。
医学臨床研究では消化器内科を主領域として、まず血漿中のタンパク質濃度と糖尿病との関連、甲状腺機能異常、腎臓病などを研究した。また、胃の分泌機能、アメーバ赤痢、潰瘍性結腸炎、結核性腹膜炎、消化器潰瘍などの研究を行い、多くの学術的な論文を発表している。中国内科学の創始者と言われるゆえんである。
また、長年北京の協和医学院、湖南省長沙の湘雅医学院の教授や校長などとして、後進の指導に当たっている。中国の医学教育界には、「南湘雅、北協和」という言葉がある。これは、大陸の南に位置する湘雅医学院と北に位置する協和医学院を、中国の医学教育機関の双璧として称えたものであり、張孝騫はそのいずれの機関でも重要な役割を果たした。
張孝騫は、医者の養成には十分な時間としっかりした設備が必要であり、短期間や貧弱な設備での促成は良くないとの観点に立ち、少人数での教育、長期間の教育、基礎課程の重視などを自らの教育現場で実践していった。この教育手法は、彼が長年勤めた協和医学院がモデルとなり、現在の天津医学院、北京大学医学部などに受け継がれている。
参考資料
- 人民网HP 「張孝騫:世有良醫,天下之福」
- 新華網HP 「張孝騫的遺産」
- 张孝骞画传编辑委员会「张孝骞画传」中国协和医科大学出版社、2007年
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