第151号
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ノーベル賞と日本人(5)日本人初の受賞は天才少年の湯川秀樹

2019年 4月11日

馬場錬成

馬場錬成:特定非営利活動法人21世紀構想研究会理事長、科学ジャーナリスト

略歴

東京理科大学理学部卒。読売新聞社入社。1994年から論説委員。2000年11月退社。東京理科大学知財専門職大学院教授、内閣府総合科学技術会議、文部科学省、経済産業省、農水省などの各種専門委員、国立研究開発法人・科学技術振興機構(JST)・ 中国総合研究交流センター長、文部科学省・小学生用食育学習教材作成委員、JST 中国総合研究交流センター(CRCC)上席フェローなどを歴任。
現在、特定非営利活動法人21世紀構想研究会理事長、全国学校給食甲子園事務局長として学校給食と食育の普及活動に取り組んでいる。
著書に、「大丈夫か 日本のもの作り」(プレジデント社)、「大丈夫か 日本の特許戦略」(同)、「大丈夫か 日本の産業競争力」(同)「知的財産権入門」(法学書院)、「中国ニセモノ商品」( 中公新書ラクレ)、「ノーベル賞の100年」(中公新書)、「物理学校」(同)、「変貌する中国知財現場」(日刊工業新聞社)、「大村智2億人を病魔から守った化学者」(中央公論新社)、「『スイカ』の 原理を創った男 特許をめぐる松下昭の闘いの軌跡」(日本評論社)、「知財立国が危ない」(日本経済新聞出版社)、「大村智物語」(中央公論新社)ほか多数。

 日本人が最初にノーベル賞を受賞したのは1949年で、太平洋戦争の敗戦から4年後であった。米軍の空襲で破壊された町中は廃墟の山であり、食べるものもろくになく庶民は生きることに必死だった。

 そこへ日本人として初めて、京都大学教授の湯川秀樹がノーベル賞を受賞したニュースが飛び込んできた。42歳の若さだった。アジア人としてはインドの作家、ラビンドラナート・タゴール、物理学者のチャンドラセカール・ラマンに次ぐ3人目の受賞者となった

 日本国民はこのとき初めてノーベル賞が世界で最も価値ある賞であることを知った。そして理論物理学という難解な分野で受賞したことに誇りを持つようになり、日本人の自信にもつながった。

 湯川は京都で生まれ、大阪に一時住んだことがあるが人生のほとんどは京都で過ごした。5歳のころ祖父から中国人の書いた漢文の素読を強いられた。祖父が読む漢文を意味も分からずに口真似して読むのだが、だんだんと慣れ親しみ、大人になってから書物を読むことに何の抵抗もなかったという。

 湯川がノーベル賞受賞者になり有名になると、よく揮毫を頼まれた。そのときには漢文の素読の体験からか、中国戦国時代の思想家、荘子の「秋水」の最後の一句からとった「知魚樂」を書いた。

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受賞した当時の湯川秀樹

高校生のとき英語で量子論を読む

 中学に進学したが目立たない少年であり、無口でものを言わない少年だった。父親からは、「何を考えているか分からん」と言われたこともあった。

 しかし湯川は少年時代から秀才で鳴らし、中学を4年で終え、飛び級で三高(現京都大学)に進学した。1924年、高校2年生のころから物理学の文献を求めて、丸善京都支店の洋書コーナーに通い、数学と物理学の本棚の前で長く足をとめることが多くなった。

 そこで出会ったのがフリッツ・ライへの「量子論」である。ドイツ語からの英語訳本だった。湯川は後年、後輩に向かって「高等学校の物理の学力では完全に理解することは困難だった。分からないことがあればこそ、ライへの書物は面白かった。それまで読んだどの小説よりも面白かった」と語っている。

 この本で湯川は、マックスプランクが1900年に唱えた量子仮説から、1913年のボーアによる原子構造とそれに関係する原子と分子、さらに光のスペクトルの分光学などを独力で学んだ。

中間子の存在を予言して量子論を発展させる

 原子核は、半径が約1×10のマイナス14乗メートルという極微小の粒子であり、陽子と中性子から構成されている。陽子はプラスの電気を持っているので、互いに電気的に反発する作用をする。中性子は中性なので電気的には力を作用しない。それにもかかわらず、核子が固く凝集しているのは何か別の「核力」が存在しているからに違いない。

 そう考えた湯川は、その核力をもつ粒子を中間子と呼び、この中間子を陽子や中性子がキャッチボールをやり取りするように投げあって固く結合していると考えた。

 湯川の中間子理論は、ハイゼンベルグ、アインシュタイン、チャドウィックなど量子力学を創始した錚々たる先駆者の業績から考え出されたものであり、量子力学の黎明期に考え出された画期的な理論だった。

 半径が約1×10のマイナス14乗メートルという極微小の世界で計算すると、中間子の質量は電子の約200倍になると湯川ははじき出した。中間子とは、質量が陽子と電子の中間になることから湯川が付けたものである。

 1934年(昭和9年)、湯川は大阪と東京で開催された日本数学物理学会で発表し、翌35年、「素粒子の相互作用について Ⅰ」として英文の学術誌にも発表した。しかし、湯川論文に対しては反応が鈍く、この年の1月に中間子論を紹介する短報をイギリスの「ネイチャー」に投稿したが、掲載を拒否されている。

 ところが1937年、アメリカ・カリフォルニア工科大のアンダーソン、ネッダーマイヤーらが、霧箱の中に残した宇宙線の飛跡の中に、電子の約200倍の質量を持つ粒子を発見し、湯川理論はにわかに注目を集めることになった。

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湯川秀樹「創造への飛躍」(講談社学芸文庫)講談社
〔画像公開終了〕

次々と受賞者として推薦された湯川

 湯川が最初にノーベル賞受賞候補者として推薦を受けたのは、1940年である。ノーベル賞選考委員会は、湯川の予言した中間子について、詳細に検証し報告書を書いていることがその後明らかになる。

 第二次世界大戦のあおりで1940年から42年までノーベル物理学賞は受賞者なしという空白を招く。41年からは太平洋戦争が始まり、日本は世界の科学界から孤立する。しかし湯川の業績を正当に評価したのは、電子の波動性を発見して1929年にノーベル物理学賞を受賞したフランスのド・ブロイである。彼は43、44年と2年続けて湯川をノーベル賞受賞者として推薦する。

 戦後になってからも、湯川は45、46、48年と相次いで外国の著名な理論物理学者らから推薦を受け、彼の業績への評価はますます高まることになる。この評価に決定打を与えたのが、イギリスのパウエルである。宇宙線の中に中間子を発見して湯川予言の正しさを実証したのである。

 パウエルは、宇宙の彼方から高エネルギーで地球に飛来する宇宙線の中に、湯川の予言する中間子があるに違いないと考えた。そこで厚い写真乾板を作り、高地の天文観測所に一週間放置し、現像して写真乾板の上に残る粒子の飛跡を調べる手法を考えた。彼は世界中の高地で未知の粒子を求めて実験を繰り返し、1947年ついに飛跡を発見する。

 さらに翌48年には、カリフォルニア大のローレンスらがサイクロトロンという加速器を使って湯川中間子を作り出そうと試みる。パウエルらの発見にヒントを得たローレンスは、サイクロトロンから生まれる飛跡を調べた。果たせるかな、ここでも目指す粒子を発見した。宇宙線だけでなく加速器によっても人工的に中間子を作り出すことに成功し、湯川の予言は間違いないものと認知されることになる。

 翌49年、湯川をノーベル賞受賞者として推薦した研究者は、11人にのぼった。このうち締め切りに間に合わなかったために、1人は翌年に回されている。推薦者10人のうち6人はマサチューセッツ工科大の物理学者だったが、コロイドの基礎的研究で1926年に、ノーベル化学賞を受賞したスウェーデンのスヴェードベリのような大物も推薦した。

 ノーベル物理学賞委員会は、6人が担当して詳細に検討した結果、5人が湯川の単独授賞に賛成し、1人は実験物理学で中間子の存在を実証した研究者と湯川の共同授賞にするべきとして反対した。しかし、王立スウェーデン科学アカデミーの総会では、委員会の推薦通りに湯川の単独授賞を決定した。

晩年は核廃絶運動に加わる

 湯川は、太平洋戦争の終了間際に、日本海軍を中心とする原爆開発のプロジェクトチームに入れられるが、このプロジェクトが本格的に動き出す前に終戦を迎えた。その後湯川は、反核運動に積極的に加わり、核兵器廃絶を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言にも共同宣言者として名前を連ねている。

 さらに57年には核廃絶を掲げる科学者らが参加する第一回パグウォッシュ会議に出席して、核のない世界を訴えた。

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