【19-06】雪舟入明と「浙派」美術の東伝
2019年4月24日
安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 副教授
2001.9--2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9--2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系
東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9--2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系
文化人類学専攻 博士コース
2010.9--2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8--2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在上海交通大学人文学院の副教授として勤務
雪舟(1420年~1506年?)は日本の美術史において「画聖」と仰がれ、水墨画の開祖として尊ばれている。美術史家の岡倉天心は著書『東洋の理想』で雪舟の絵画を高く評価し、「画壇で最高の作品」と称えている。雪舟の画中に見られる自由さ、洒脱さ、そして軽快さは禅宗の思想における重要な特徴であり、「余すところなく表現するその筆墨から、彼の気迫と大自然のすべてを存分に楽しんでいることが伺える」[1]のである。
雪舟の本名は等楊で、出家前の姓は小田で、号は米元山主、扶桑、紫陽、雪谷軒などがあり、1420年に備中(現在の岡山県西部)赤濱(現在の総社市)の武家に生まれた。12歳のときに同地の禅寺、宝福寺に出家して僧となり、後にその類まれな絵の才能で師匠に評価され、「画僧」の身分で京都の相国寺に入り、春林周藤住職に師事して禅の修行を積んだ。当時の相国寺は日本の禅宗五山の最高位に位置し、漢学を尊ぶ気風が濃く、僧侶たちは中国の経典や芸術を熱心に研鑽していた。雪舟は相国寺において、かつて朝鮮半島に渡って絵を学んだ著名な画僧で、室町幕府の御用画家であった天章周文(1423年~1463年に活躍)に絵を学んだ。天章周文の画風は荘厳で、構図は緻密で、詩画の両方を重視した。雪舟の絵の基礎は周文によって育てられたが、それも彼の画風の一面にすぎない。雪舟の絵画に見られるような、かつて誰も成し得なかった個人主義の風格は事実上、明における中国画壇との密接な交流や切磋琢磨の中で、徐々に築かれたものである。
図1 雪舟 破墨山水図 紙本墨画 148.6×32.7 cm
室町時代 明応4年(1495年)
東京国立博物館蔵[2]
1467年、(応仁元年,明・成化3年)に雪舟は弟子の秋月を連れて戦国大名の大内政弘を船主とする勘合船「寺丸号」で明に渡航した。雪舟の正式な身分は朝貢使節であった。甲冑や刀剣、屏風、一万斤の硫黄を満載した3隻の日本船は寧波港に寄港した。雪舟はこの地に3ヶ月間留まり、寧波の天童寺に滞在した。天童寺は中国東南部沿海の長い歴史のある禅寺で、中日文化交流と仏教交流の窓口でもあった。宋元両代にかけて中国に渡った日本人僧侶の栄西や道元、日本に渡った中国人僧侶の蘭渓道隆、無学祖元らも天童寺に滞在し、禅宗を学んだ。雪舟はまさにその天童寺で「禅班第一座」の称号を得ており、これは栄西禅師以来、日本人僧侶が中国で与えられた最高の礼遇であったと言えよう。帰国後、雪舟は『慧可断臂図』など、その作品の中でたびたび「四明天童第一座」と署名している。雪舟が76歳のときに弟子の宗渊のために描いた「煙雨山水図」にも、「四明天童第一座老境七十六翁雪舟書」という署名がある。この作品の上端には218字にも及ぶ自題も記されており、雪舟の中国滞在中の遊歴と研鑽について研究する重要な資料となっている。
1467年末、雪舟一行は京杭大運河を渡って北上した。『明実録』の記載によれば、朝貢使節団は同年12月2日に明朝の首都、北京に到着している。翌年の元旦に雪舟は紫禁城に朝貢し、明の憲宗(成化帝、在位1464年~1487年)が外国使節団のために開催した元旦の宴席に参加している。中国滞在の3年間で雪舟は朝廷と在野の数多くの山水画・人物画の巨匠を訪ねたが、雪舟の絵画技法やその業績は、上は皇帝・大臣から下は宮廷画院の絵師まで皆に絶賛された。雪舟は礼部尚書の姚夔によって礼部院の壁画創作に招聘された。壁画が完成すると、明憲宗はこれを「国の至宝」と称賛した上に、その後は詔令を下さない限りみだりに人のために創作してはならないと命じた。
一方、明朝宮廷でこの上ない栄誉を受けた雪舟は「明の画壇に高名の師なし」と失望していた。南宋の山水画の巨匠たちの写意や風格によって長らく影響を受けた雪舟は、当時の中国北方の画壇で流行していた作風は宋元代の画家を超えるものではないと敏感に察知していた。雪舟が明に滞在した数年の間、朝廷が推奨していたのは宋元代の文人画に見られる「清新・高雅」なスタイルであって、「豪快・粗放」を特色とする浙派とはまったく異なる風格だったのである。
芸術的な風格の継承と関係して自然に形成された画派である「浙派」(せっぱ)は、明代の成化年間から正徳年間の宮廷芸術を主流としている。浙派は明確な組織や地域的な境界を持つ流派ではなく、開祖とされる戴進(1388年~1462年)が浙江省銭塘の出身であるために浙派と呼ばれた。浙派は15世紀半ば以降に衰退に転じ、下り坂の期間が約100年続いた。総じて見れば、浙派の振興は明王朝の建国、政権基盤の強化、そして新たな権威の確立と大きな関係がある。そして、直観的視点から見れば、浙派美術の特徴は、筆致は粗放に向かい、高く険しい山水を斧劈皴(ふへきしゅん)の手法で表現している(図2)。この技法的特徴は、明王朝の建国初期の剛健で素朴な芸術的風格と朝廷の勇壮な趣向が互いにかみ合ったものである。浙派の代表作家は、明代初期の庄瑾、李在、戴進や明代中期の呉偉、張路、鍾欽礼、汪肇、蒋嵩[3]である。雪舟が北京に滞在した数年間は、浙派の画風がまさに主流の美術界においてその地位を上昇させ、確立させた期間にあたる。
図2 戴進 春遊晩帰図(局部)絹本浅設色
167.9×83.1cm 台北故宮博物院[4]
北京滞在中に雪舟が師事したのは、成化年間の宮廷画家長を務めた(張)有声や李在である。研究者の間では張有声の身分についてまだ見解が確立されていないが、李在が歴史に残る画家であることに疑いはない。李在は福建省莆田の出身で、浙派の開祖とされる戴進とほぼ同時代の宣徳年間に活躍した山水画と人物画に長けた画院の画家であり、『米氏雲山図』、『萓花図』が後世に伝えられる。東京国立博物館収蔵の雪舟『破墨山水図』(1495年、上掲図1)の題辞と跋文(ばつぶん)に「余曽入大宋国,北渉大江,経斉魯郊,至于洛,求画師。雖然,揮染清抜者稀也。于茲長(張)有声并李在二人時得名,相随伝設色旨兼破墨法」とあり、その画風の師伝の由来についてはっきりと説明されている[5]。
明代初期に「正統派」と認められた浙派も、明末清初になると逆に悪俗であり、「邪学」であるとされ、非難の的となった。この「正統」から「邪悪」に至るまでのプロセスは大変ドラマチックである。浙派後期の画家(汪肇、蒋嵩、張路、鄭文林ら)から画風は勇壮・豪放となり、南宋の院体画の精緻で細かい筆法を模倣した早期のころと違い、このころには大雑把で粗放な筆使いに変わっていた。絵画形式も空洞化・格式化に向かい、浙派の最盛期の頃の内柔外剛かつ動中に静あるような画風も明代末期の作品からは徐々に失われ、粗野かつ気ままな中身のない筆致となり、絵画の持つ芸術性も生命力も衰退に向かった(図3)。そのような中、最終的に浙派の地位を奪ったのは江南一帯(特に蘇州松江地区)の文人画であった。政治の中心から遠く離れた江南地方の名士や文人、職人によって長らく息をひそめていた宋元代の文人画の風格が復興し、沈周、文徴明、唐寅、仇英を代表とする「呉派」の台頭によって浙派の活動にピリオドが打たれたのである。
図3 鄭文林(1522年~1566年に活躍)
壷天聚楽図 紙本水墨29.2×374.4cm,Metropolitan Museum of Art[6]
ここで興味深いのは、浙派は明末清初には衰退に向かっていたものの、逆に室町時代の日本では大いに歓迎され、日本での方が中国よりも高く評価されたことである。室町幕府の武士階級の目には浙派は貴族主義的な画風に映り、明代の人々の復古的なムードを表現するとともに宋代の院体画を模倣し、高貴な「宋風」に追随する努力が行われているように見えた。室町幕府の将軍をはじめとする武士階級は金銭を惜しまずに芸術品を購入し、芸術家を資金的に援助した。このことは、浙派が早期のころに金陵城(現在の南京)の権威階級から支援を受けていた歴史と意外なほどの一致を見せる。
浙派の東伝のプロセスにおいて、雪舟が果たした役割は当然ながら大きく、その功績は無視できない。1469年秋、雪舟は3年間の遣明使としての生活を終え、明州から船に乗って博多港で下船し、故郷の周防国に戻った後に豊後国(現在の大分県)に移り、名利を捨てて創作に専念する。中国からの帰国後、雪舟の創作は朝廷と在野の双方から推奨され、作品の評判はきわめて高かったが、貴族からの招きを固辞して山林田野で老後を過ごすことを願った。室町幕府の将軍、足利義政が自身の宮殿のための作画を依頼した際も、雪舟は僧侶の身分を理由にやんわりと断り、自分の代わりに狩野正信を推薦したという。浙派に対する雪舟自身の全体的な評価は低く、明の画師は偉大なる宋元代の山水画家たちに比肩しないと考えていたが、客観的に見れば、雪舟は成化年間の宮廷画師との交流によって浙派の絵画技法や芸術的風格を大いに吸収しており、それは次の4つの特徴に表れている。
第一に、その絶妙な構成である。緻密で華麗な狩野派の絵画と比べ、雪舟の山水画では対象がまばらに配置され、余白が多く、空白の中から空間の深遠さと情緒を見る者に体感させることを目的としている。このような空間構成や景観配置の手法は、宋元代以降の水墨山水画家が特に強調したものである。
第二に、色使いが簡素で洗練されている。鮮やかな色は少ししか用いず、墨の濃淡によって色彩を表現し、素朴で浮世離れした美を表現している。
第三に、筆使いが豪放で、墨の色で余すところなく表現している。雪舟は粗放な筆使いに長じており、筆致に雄々しい力強さがあり、一気呵成に描く。これは、浙派の典型的な技法である。
第四に、「風景こそ最大の師」とする現実主義である。雪舟は中国滞在中に各地を遍歴し、名山や大河などの景勝の地で写生を行い、自然景観から創作のインスピレーションを得た。
100年にわたり日本の画壇を支配した宋元代の水墨山水画は、雪舟の宣伝によってさらに盛んになった。また、宋元代の絵画における「風景こそ最大の師」という理論によって、室町時代の芸術には宗教画以外に新たに清らかな自然を描く山水画という道が開かれることとなった。なかでも、禅宗の雰囲気を持つ破墨山水画や扇面山水画は、今なお日本の古典美術の重要な様式である。
[1] 岡倉天心『東洋的理想(東洋の理想)』、閻小妹訳,北京:商務印書館,2018年,第94頁。
[2] 画像出典:東京国立博物館画像検索「山水図(破墨山水図)」https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0012374
[3] 石守謙:「浙派画風與貴族品味」『風格與世変:中国絵画十論』,北京:北京大学出版社,2008年,第117-224頁。
[4] 画像出典:https://theme.npm.edu.tw/selection/Article.aspx?sNo=04000998
[5] 板倉聖哲:「明代前期画壇與雪舟」,浙江省博物館編:『明代浙派絵画国際学術研討会論文集』,杭州:浙江人民美術出版社,2012年,第286-287頁。
[6] 画像出典:https://www.metmuseum.org/art/collection/search/51643