【19-20】伊能嘉矩の台湾島調査と原住民研究
2019年10月31日
安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 副教授
2001.9--2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9--2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系
東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9--2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系
文化人類学専攻 博士コース
2010.9--2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8--2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在上海交通大学人文学院の副教授として勤務
伊能嘉矩(いのう かのり、1867年5月9日[1]1925年9月30日)は明治時代の傑出した人類学者である(図1)。南部藩国支藩遠野南部氏の城下町(現在の岩手県遠野市東館町)の学者の家庭に生まれ、両祖父はともに漢学と武術に秀でた学者であった。嘉矩は一族の年長者から深く影響を受け、少年時代には祖父の指導を受けながら四書五経を朗誦した。その人格形成と研究姿勢の根幹は家庭によって育まれたものであった。1885年3月、当時18歳の伊能嘉矩は東京に一時期遊学し、岩手に戻って岩手師範学校で学んだが、同校の厳格な管理や規範に不満を抱き、1889年3月に再び東京に赴いた。上京当初は成達書院で漢学と歴史を学び、同年9月初旬からは友人の推薦を受けて東京毎日新聞社に入社し、編集を担当した。その後、わずか数年の間に東京毎日新聞、教育評論、教育報知、大日本教育新聞の記者を務めた。
図1.伊能嘉矩[2]
1893年(明治26年)10月に伊能嘉矩は東京人類学会に入り、東京帝国大学の人類学教授で「日本の人類学の父」と称えられる理学博士の坪井正五郎に師事して人類学を学んだ。若き伊能嘉矩はまもなく周囲を驚かせるほどの学才を発揮し、翌年5月には『東京人類学会雑誌』に故郷である遠野の民俗学に関する文章「奥州地方に於いて尊信せらるゝオシラ神に就いて」を発表し、日本東北地方の民間信仰を紹介した。坪井正五郎の指導の下で、嘉矩は自らの研究分野を文化人類学領域から独立した「民俗学」に定めるようになった。そしてこの年の冬から、嘉矩は同じく坪井正五郎の門下で人類学を学んでいた鳥居龍蔵と共に人類学講習会を催し、毎週土曜日に定期的に講座を開き、人類学の知識を広めた。
1895年(明治28年)4月、嘉矩は北海道の原住民からアイヌ語を、朝鮮支那語協会で中国官話を学び始めた。鳥居龍蔵と共に人類学講習会を開催したこの頃はまさに日清戦争の時代にあたり、同年11月、嘉矩は陸軍省雇員として「愛国丸」に乗って台湾に渡り、台湾総督府民政局に務めた。
同年、嘉矩は「陳余之赤志、敬告先達諸君子」(わが純粋な志を先達諸君子に申し上げる)と題する陳情書を当局に送り、自らが台湾の「蕃人」(原住民)について調査を行う決意に至った経緯を明らかにし、教育計画を制定する政府の支援役を務めた。この文章で嘉矩はかつて「蝦夷地」を探検した最上徳内や間宮林蔵ら民族学の先達について触れ、系統的な原住民調査は国の施政・教育の前提であると説いた。台湾総督府に着任した後、嘉矩は田代安定とともに台湾人類学会を設立し、師である坪井正五郎が確立した人類学の調査手法に基づき、先達による北海道の踏査という偉業を見習い、台湾という新たな植民地の全面的な研究に着手した。同学会には生物学、心理学、民俗学、言語学、地理歴史、宗教の6つの分科会がおかれた。
1900年7月29日、嘉矩は地理、歴史、民俗調査を記録した随筆『南遊日乗』の最初のページにおいて、後世に大きな影響を与える「踏査三原則」を発表した。その内容は次のとおりである。
「第一、疾病其の他如何なる事故あるも其の日の査察にかかる事実は其の日之を整理すべし。第二、科学的査察の目的を達するの秘訣は注意周到の四字に在り。後に之を記述するに臨み細緻と雖も不明又は疑ひの点あるは注意不周到の罪なり。第三、周到なる注意を以て査察せる結果は周到なる筆を以て記述すべし」。
植民地時代初期、日本政府は台湾原住民と中国本土の漢人社会の構造を深く理解するためにいくつかの専門的な学術団体を設立した。その目的は、当局に一次資料を提供することにあった。1898年に設立された「蕃情研究会」と1900年に設立された「台湾慣習研究会」の双方において、伊能嘉矩は中心的人物として活躍した。嘉矩は総督府の下に設置された「台湾土語講習所」で講師の吉野俊明、藤田舎次郎と台湾人の陳文卿から閩南語を学び、原住民からタイヤル語を学んだ。彼は原住民の生活に溶け込む努力をし、民俗的な物品を収集し、原住民の狩猟や農耕等の生活技術を観察し、地域信仰や道徳体系、地域社会の禁忌を理解した。そしてその最初の数年にわたる台湾原住民と漢人の社会・風俗に関する研究成果を「台湾通信」という題名で『東京人類学会雑誌』に連載した。総じて見れば、嘉矩の人類学調査には鮮明な現実的目標があった。それは、新たな植民地における民衆構造や経済状況、社会的組織の状況を全面的に理解することによって、原住民の教化や植民地の開拓に関する日本政府の政策決定に資することであった。
伊能嘉矩の生きた時代はまさに欧米の学術界でダーウィンの進化論がブームとなった時期に重なった。このため、彼が力を尽くした台湾の人類学・民族誌においても、進化論の影響を受けた明らかな痕跡が表れている。嘉矩は台湾の各エスニックグループの文化的な進化の程度を区分し、その文化的特質を単純から複雑という段階で比較し、台湾の各エスニックグループの発展段階に序列をつけた。1897年(明治30年)5月30日から12月1日の台湾島一周旅行の後、伊能嘉矩は日記形式による視察報告『巡台日乗』を出版し、調査結果を記した「復命書」については1900年に『台湾蕃人事情』というタイトルにより東京で出版された。これは、日本植民時代の最も早期の台湾民族誌に関する著作となった。伊能嘉矩は本書の中で「首狩り」(head hunting)の習俗を例に挙げて原住民の各エスニックグループの文明の進化程度には明らかな差があることを指摘し、「一部のエスニックグループの『進化』程度は現地の漢民族とはすでに全く差がなく、例えば平地に住む『平埔族』は進化程度では最も『文明的』な段階にあり、漢民族と優劣の差がないレベルに至っている。しかし、古くからの『首狩り』の習俗を保つエスニックグループも一部に存在し、その例には北部山区に分布するアタイヤル族がある。その原因は、彼らが漢民族の社会階層とは地域的に隔離されたために『先進的』文化に染まらなかったためである」とした。そこで彼は、「首狩り」の習俗が残されるエスニックグループの居住地に学校を設立して教育を施すべきと提言した。これも、伊能嘉矩の原住民研究に見られる鮮明な現実的配慮である。
伊能嘉矩が台湾の淡北と宜蘭の両地を調査した文章も、「台湾通信」というタイトルで『東京人類学会雑誌』に掲載されている。これらは紀行文としての美しい文体で記されながら古代の漢籍が往々にして引用され、彼が生きた時代に観察された事実との比較が行われている。「台湾通信」では祭祖から歌舞、宴飲、婚姻、葬儀に至るまでのさまざまな儀式や、物質文化遺産としての建築、衣服・装飾品、玩具、楽器、武器、刑具、そして非物質文化遺産としての言語、神話、習俗などについて、平埔族の貴重な記録が事細やかに記録されている[3]。1898年の彼の話によれば、「ある特定の民族を研究するには、歴史的記録のあるものに関してはその記録に基づき、記録のないものに関しては遺物に基づき、遺物の残っていないものに関しては口承(oral tradition)に基づかなければならない」。それから100年経った現在でも、この言葉に優れた見解が含まれていることに我々は賛嘆の念を禁じ得ない。
原住民の分類が伊能嘉矩による台湾の人種調査の第一歩であったことに疑問の余地はない。台湾人類学会の設立後に発表された同会の「暫行規則」において彼は当時広く用いられていた民族の分類方法を提示した。それは、「台湾人」を大まかに「支那人」、「生番」、「熟番」の3つの集団に分けるというものだった。彼の見方ではこの分類方法は大まかなもので、一般化されたものに過ぎず、古代中国の「華夷之別」(華夷思想)の伝統に基づいて台湾の民族を命名しようとしたものであり、政治的意義の上での一種の行政概念としてしかとらえることはできず、エスニックグループの科学的な分類といえるものではない。1897年に彼が行った192日間の台湾全島の視察において、伊能嘉矩は台北近郊以外の地区の山間地と海岸に住むエスニックグループに近い距離で接触することができた。1898年4月彼は台北で開催された「蕃情研究会」において「臺灣に於ける各蕃族の開化の程度」というテーマの学術発表を行い、1897年に収集した資料に基づいて台湾島全体のまったく新しい原住民分類体系を提示した。それは、台湾原住民を4群、8族、21部に分けるというものであった。
伊能嘉矩の時代においては、科学的人種主義(Scientific Racism)の影響により人類学分野では「人種の五分法」が流行していた。それは、体質的特徴(特に頭蓋骨の形態)に従って人類をコーカシア(白色人種、Caucasian)、エチオピカ(黒色人種、Ethiopian)、アメリカナ(赤色人種、Indian)、マライカ(茶色人種、Malay)、モンゴリカ(黄色人種、Mongolian)の5つのグループに分けるというものだ。伊能嘉矩は台湾原住民をマライカに分類し、その体質的特徴や風俗の違い、思想の進化程度、言語の違い、歴史的叙述の5つの原則をよりどころとしてある種の特別な性質を共有する原住民を同じ種類に分類し、さらに共有する遠近・親疎関係によって血縁の遠近を確定した。そして、民族の自称と他称に基づき、伊能嘉矩は原住民をアタイヤル族(Ataiyal)、アミ族(Amis)、ブヌン族(Vonum)、ツオウ族(Tsoo)、ツァリセン族(Tsarisen、現在のルカイ族)、パイワン族(Spayowan)、プユマ族(Puyuma)、平埔族(Peipo)の8民族に分け、平埔族をさらに10民族(マカタオ、シラヤ、ロア、バブザ、アリクン、バブラン、パゼッヘ、タオカス、ケタガラン、クバラン)に分類した。伊能の民族分類譜系は他の同僚にあたる研究者の研究成果も参考にしている。例えば田代安定と鳥居龍蔵による東部台湾の調査を参照した上に、彼らの研究を整理・統合して自身の理論体系に組み込んでいる。このように綿密で全面性があり、かつ、画期的な仕事によって、伊能嘉矩は後世において「台湾原住民分類の第一人者」と呼ばれるようになった。
1898年12月から翌年末まで伊能嘉矩は日本に帰国し、1899年前半は東京帝国大学人類学教室にて師の坪井正五郎に協力し、翌年(1900年)のパリ万国博覧会に出展する展示品の整理に加わった。伊能嘉矩は台湾で「蕃情研究会」の調査委員を務めていた頃に「原住民標本展覧会」を企画した経験があるため、パリ万国博覧会の企画も彼に任された。彼は画家を呼び、台湾の各エスニックグループを写した写真を参考に絵を描かせ、浮世絵的な作風の強い「台湾蕃人肖像」に仕立て上げてもらってパリ万国博覧会に送った。この絵は大きなセンセーションを巻き起こした。
図2. 「台湾蕃人肖像」の参考とした写真「臺灣嶋蕃族」[4]
1899年12月(明治32年)、伊能嘉矩は民政局殖産局の所属となり再び台湾の地を踏んだが、1906年(明治39年)1月、高齢の祖父の面倒を見るために伊能嘉矩は台湾の一切の職務を退いて故郷に戻った。こうして彼は台湾を離れたが、後半生の仕事のテーマもこの忘れ難い土地を離れることはなかった。台湾総督府も彼の画期的な仕事を非常に重視し、同年9月には『台湾総督府理蕃沿革志』の編集責任を委託し、翌年2月にも「臨時台湾旧慣調査会蕃情調査部」の業務を依頼した。そして5年後に、伊能嘉矩は『台湾総督府理蕃志稿』を完成させた[5]。彼は遠野の自宅に台湾館を設置し、自身が台湾で収集した物品や歴史文献、調査ノートを収蔵し、展示した。伊能嘉矩の逝去後の1928年に遠野台湾館で収蔵されていた手稿、図書、民俗器物は台北帝国大学(台湾大学の前身)によって購入され、同大学はそれらを専門に収蔵するための「伊能嘉矩文庫」を設立した。また、彼の弟子であった板沢武雄と民俗学の大家である柳田國男の奔走によって遺著となった『台湾文化志』(全3巻)が逝去の3年後に刊行された。伊能嘉矩の仕事から浮かび上がるのは、明治維新後期に日本が海外に領地を求めて勢力を拡大しようとする中で、現実的な知識と実証に基づく科学的な精神を融合させようとした姿である。彼の手で確立された台湾の民族分類と調査方法によって今なお後世の研究者たちは恩恵を受け続けており、その影響は様々な面に表れている。
図3.伊能文庫台湾館の一角[6]
[1] 新暦では6月11日。
[2] 出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:In%C5%8D_Kanori.jpg
[3] 伊能嘉矩:『平埔族調査旅行:伊能嘉矩<臺灣通信>選集』、台北:遠流出版公司、2012年。
[4] 出典:国立国会図書館デジタルコレクション石川源一郎 編『台湾名所写真帖』コマ番号48
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767093
[5] 陳偉智:『伊能嘉矩:台湾歴史民族志的展開(伊能嘉矩:台湾歴史民族志の展開)』、台北:台湾大学出版中心、2014年。
[6] 出典:台湾大学図書館 重返田野─伊能嘉矩與台湾文化再発現
http://www.lib.ntu.edu.tw/events/2018_inokanori/build.html。