【19-23】白鳥芳郎と日本のヤオ族研究(瑶学)
2019年12月2日
安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 副教授
2001.9--2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9--2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系
東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9--2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系
文化人類学専攻 博士コース
2010.9--2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8--2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在上海交通大学人文学院の副教授として勤務
一.中国のヤオ族と日本のヤオ族研究
「ヤオ族」(瑶族)は中国の55少数民族のひとつで、華南地区に最も広く分布する少数民族であり、広西チワン族自治区、湖南省、広東省、雲南省、貴州省、江西省の5省・自治区にはヤオ族の集住地区がある(特に、広西チワン族自治区に多い)。2010年現在、中国に住むヤオ族の人口は約28万人である。ヤオ族の言語はシナ・チベット語族(Sino-Tibetan)のミャオ・ヤオ語族とチワン・トン語族に属し、この民族はミャオ族、トン族、チワン族と共通する血縁の祖先をもつと推断される。
ヤオ族は中国の歴史において、「移動に長ける」ことで知られる。紀元前後ごろに「武陵蛮」、「五渓蛮」と呼ばれていたヤオ族の先住民族は現在の華中地区の長沙と武陵の一帯に住み、数世紀にわたる継続的な移動を経て東から西へと向かい、華南地区に徐々に分布し、東南アジア各国にまで広がるようになった。
歴史文献中のヤオ族に関する記載は前漢時代(BC 202-8)に始まり、南北朝(420-589)以降に徐々に増え、華南地区の民族に対する中央王朝の理解が深まるのに従い、清代(1644-1911)に入るとヤオ族に関する専門書が登場するようになった。19世紀末から20世紀前半にかけて、東アジアにまたがるこの独特な民族は研究界から注目を集めるようになり、ヤオ族研究(瑶学)の専門家が多く登場し、研究成果が発表された。この時期のヤオ族研究は主にベトナムとラオス国内のヤオ族に集中し、「瑶学」は欧米人研究者の努力によって国際的な学問分野へと成長した。その代表的な研究には、フランス人研究者Jacques Lemoine著『Yao Ceremonial Paintings』[1]および『華南瑶族』、オランダ人研究者Barend J. Ter Haar著『A New Interpretation of the Yao Charters』[2]、アメリカ人研究者Michel Strickmann著『The Tao among the Yao: Taoism and the Sinification of South China』[3]、Eli Alberts著『A History of Daoism and the Yao People of South China』[4]、ドイツ人研究者Thomas Hollmann,Michael Friedrich,Lucia Obiらが編集した何巻にもわたるドイツ語の著書『ヤオ族手稿』等がある。
日本は世界のヤオ族研究の要地であり、その成果には相当の特色がある。日本のヤオ族研究について「学術史」の視座から見れば、白鳥芳郎(1918-1998)を代表とする「ヤオ学研究者」たちに伝わり、受け継がれたのは鳥居龍蔵(1870-1953)が切り開いた中国辺境民族研究の思想である。鳥居龍蔵は東アジア少数民族研究の開拓者で、いわば「開祖」のような人物である。厳格な学風と鋭い直観を合わせ持つこの優れた人類学者は、生涯をかけて東アジア各民族の系譜と相互関係の追究に力を尽くし、特に大陸の辺縁地帯と文明の狭間地帯(台湾、中国東北地区、ヒマラヤ山麓等)の集団に着目した。20世紀初頭、日本の研究界が注目したのは華北地区を主とする「満蒙史」と「支那史」で、華南地区と西南地区は重視されなかった。鳥居龍蔵以前の日本の研究界では中国の西南民族について真の意味でのフィールドワークを行った者は存在せず、わずかな研究も歴史文献の分析と解読の域にとどまっていた。白鳥芳郎は、日本のヤオ族研究の最初の巨匠と言える。
二.白鳥芳郎
1918年、白鳥芳郎は東洋史学の名門に生まれた。祖父の白鳥庫吉(1865-1942)は日本民族学会(現在の日本文化人類学会)の初代理事長を務め、満洲・蒙古・朝鮮を研究した東洋史学界の権威であった。父の白鳥清も東洋史の専門家であった。家庭環境から薫陶を受けた白鳥芳郎は「家業」を受け継ぐことを決め、東洋史学の研究を手がけた。1939年に東京帝国大学文学部東洋史学科に入り、北東アジア史を専攻した。しかし、史学を学んでいる間に華北の満蒙研究から華南の東南アジア少数民族へと徐々に関心が移り、中国南部の古代民族である「越族」(百越)と漢の時代における南方民族に対する帝国の統治をテーマに卒業論文を完成させ、これによって日本の歴史研究界で華南民族史の系統的研究を手がける第一人者となった。ここで注意すべきは、白鳥芳郎のいう「華南」と現在の「華南」の概念にはやや違いがあることであり、彼のいう華南には中国の雲南省と広西チワン族自治区を中心として、南はインドシナ半島まで広がる広大な地域が含まれる。
国際的な政治環境の影響により、第二次世界大戦の終戦から長い間、白鳥芳郎には中国西南部でフィールドワークを行う機会に恵まれず、漢代の滇(テン)国(雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国)や唐代の南詔国、宋代の大理国の故地の研究を手がけた。それらは基本的に歴史文献にのみ依拠するもので[5]、残念なことだったと言わざるを得ない。この中で、タイ北西部の複雑な民族分布が白鳥芳郎の関心の対象となっていった。この地域では平原と山地が交錯し、ミャオ族、ヤオ族、ナシ族、リス族等の10数種の民族が集住し、彼らは中国の雲南省、広西チワン族自治区の民族と複雑で長い歴史関係があった。1969年、白鳥芳郎は上智大学で「西北タイ歴史・文化調査団」を組織し、団長を務めた。調査団のメンバーには江上波夫、竹村卓二、八幡一郎、常見純一ら10数名の研究者がいた。調査団は日本の文部省から援助を受け、同年11月から1974年2月の間にタイ西北部のチェンマイ県、チェンライ県、ナーン県等で「チャオプラヤー川上流地区の山地民族と平地民族の交錯過程」をテーマにフィールドワークを行った。彼らは民族の歴史文献にフィールドワークを結びつけ、この地区における民族の形態や歴史、宗教、風俗・習慣、社会組織、経済生活等、各分野の多様性について注目し、充実した最新の現地資料を入手した。これには、5万枚あまりの写真や10万字以上になる漢文古籍も含まれる。
タイ滞在中に、白鳥芳郎は完全なまま保存されていたヤオ族の貴重な書物を大量に購入し、複製した。漢字で記載されたこれらの歴史資料は非常に充実した内容を含み、これには祖先を祭る儀式から成人儀礼、冠婚葬祭の儀式において使われる祈祷文や霊魂の召喚、魔除け、病の治療の際に使われた呪文、さらには文字を学ぶ際の教科書も含まれていた[6] 。このうち、『評皇券牒』、『家先単』、『招魂書』、『超度書』、『金銀状書』、『游梅山書』、『開壇書』、『叫天書』、『安墳墓書』、『洪恩赦書』、『女人唱歌』等のヤオ族の民間文献と宗教経典11種類によって、ヤオ族の起源や移動、宗教の研究に極めて貴重な資料がもたらされた。1975年、この成果は講談社から『徭人文書』(ヤオ族漢文資料彙編)として出版された。山地民族の詳細な調査レポート『東南アジア山地民族誌』も1978年に講談社から出版され、調査団のメンバーは4章にわたる内容をそれぞれ手分けして執筆した。その内容は、ヤオ族の移動経路や山地の交通道路と自然環境、経済生活、社会組織や礼儀に及んだ。同書の序文に江上波夫教授が書いたように、タイの山地民族に対する上智大学の調査は日本の東南アジア民族史研究において画期的な出来事であった。白鳥芳郎教授は東南アジア、中国南部のヤオ族研究の分野で残した誇るべき業績によって国際社会で高い評判を築き、日本のヤオ学研究の発展にも大きく貢献した。1982年には紫綬褒章を授与された。
よく知られるようにヤオ族は頻繁に移動を行ってきた民族であり、中国の華南地区がインドシナ半島の多くの国々と長い国境線を共有することから、ヤオ族は「越境民族」として有名になった。それでは、ヤオ族の移動経路は一体どのようなものだったのだろうか。ヤオ族は「移動」を特徴とするその生活様式に、どのように自らを適応させていったのだろうか。また、彼らはどのように自らの民族的な位置と国家の中での位置を認識していたのだろうか。これらの問題は長らくヤオ族研究の中核をなす問題のひとつであり続けており、白鳥芳郎らヤオ学研究者がひたすら模索し続けたテーマでもある。
まず、具体的な移動経路はどんなものだったのだろうか。海蘭訳『従<評皇券牒>看瑶人的分布槃瓠伝説』(白鳥芳郎著『東南アジア山地民族誌―ヤオとその隣接諸種族』の抄訳)において、白鳥芳郎は「華南と東南アジアにまたがる地区の人種集団は複雑で、歴史の記録も入り乱れていることから、中国の古代文献に頼るだけでは移動経路の解明は不可能である」とし、「このため、民族学のフィールドワークの手法による研究が必須である」と考えた。そこで、彼はタイのボーシリアム村のヤオ族集落の起源を調べるために戸別調査を行ったところ、ヤオ族の移動経路はボーシリアム村の山地集落の形成のみならず、タイ北部に住むその他のヤオ族の移動経路とも関係性があることがわかった。彼は調査データに基づいてボーシリアム村の山地集落に移動してきた住民の移動経路とタイ西北部に住むヤオ族の移動経路を書き出し、最終的に「タイ北部のヤオ族のほとんどはラオスから移動してきた」という結論を導いた。白鳥芳郎は、ヤオ族の移動に関するもう1編の重要な文章『山之路』においても、フィールドワークと『評皇券牒』や『山関簿』等の伝統的な文献の研究を組み合わせる手法によって、タイ西北山地におけるヤオ族の移動経路を明らかにした。それは、南京から出発し、広東省・広西チワン族自治区を経てベトナムとラオスに入り、最終的にタイに到達したというものであった。
次に、ヤオ族を絶えず移動に向かわせた根本的な原因はなんだったのだろうか。1960年代以前、ヤオ族は「過山徭」(「山々を超えるヤオ族の民」の意)と呼ばれ、その由来についてかつて流行した解釈は、「ヤオ族は長きにわたって強力な民族(主に漢族)から威圧されてきたため、移動し、逃亡せざるをえなかった」というものであった。しかし、白鳥芳郎は古籍文献にまた別の答えを発見した。それは、清朝の国力が最も盛んな時期に編纂された『乾隆朝皇清職貢図』巻四に収録された「慶遠府過山徭人」の中にある次の記載によるものであった。「慶遠府属徭人,向隶土司,雍正七年改土帰流,遂入版籍,供賦役,其過山徭人,僻処山巓,以焚山種植為業,地力漸薄,輒他徙,故以過山為名」(慶遠府のヤオ族はかつて「土司」(中央王朝により任命され、少数民族地区を管理する少数民族の頭領のこと)に隷属した。清雍正7年(1729)、官府は土司を正式に罷免し、政府が定期的に派遣する「流官」が少数民族地区を管理することに改めた。そこで、慶遠府は中央王朝の領域に組み入れられ、税金として食糧や金銭を納めることになった。この地区の『過山徭人』は辺鄙な山頂に住み、長期にわたり焼畑式の農業に従事していたが、この種の農業は土地をやせ細らせる原因となっていた。このため、納税が必要な状況が発生すると、『過山徭』には別の場所に移動する必要が生じたことから、『過山』と命名された)。
つまり、移動を繰り返したのには、たびたび発生した民族紛争や強力な民族によるヤオ族への圧力以外にも、もっと根本的な原因があったことがわかる。それは、ヤオ族が従事した特殊な農業によって土地資源が損なわれたために、彼らはより居住に適した場所を求めざるを得なかったからだ。白鳥芳郎がタイで収集した南宋正忠景定元年(1260)の漢文古籍『評皇券牒』(つまり『過山榜』)こそが、中央の官府がヤオ族に対して、湘南(湖南省南部)と桂北(広西チワン族自治区北部)での居住を許可して発行した遷徙特許状[7] であり、彼らに移動の途中で自由に山地を開墾することを許可するものであった。『券牒』の文頭には「評皇券牒過山防身永遠」題字も記され、「どの地に赴いても、この特許状が『防身護衛』の役割を果たす」ことを意味した。『評皇券牒』に含まれる「開天辟地」の神話や「竜犬盤瓠為盤瑶祖先」の神話、「盤王願」の儀式、ヤオ族の主流傍系である「盤瑶」の12傍系の移動経路と分布地域等の多くの記載は、今日なお華南地区のヤオ族に伝わる節句や民俗活動、神話、口述伝統を実証するものである。
図1. 清代『皇清職貢図』巻四「慶遠府過山徭婦」[8]
越境民族の身分認識と国家アイデンティティーは、人類学研究者の関心を引き続ける重要なテーマである。筆者は雲南省シーサンパンナ・タイ族自治州勐臘(もうろう)県の傣(タイ)族(雲南省に住むタイ族系ルー族)居住区でフィールドワークを行った際に、傣族村民が数十年前の非常に興味深い「越境の物語」について語るのを聞いた。たとえば、勐臘南部とミャンマー北境は互いに国境を接しており、勐臘の村落に住む多くの傣族村民にはミャンマーに暮らす親戚や家庭がいた。1970年代、中国内地では話題に出るだけで人々の顔色が変わった「海外関係」や「出国(外国へ行く)」という事象もこの地域では日常茶飯事で、親戚の家に遊びに行くことも、うっかりすれば国境を越えて外国に行くことであったが、村民たちは自分たちが「外国に行っている」とは全く認識しなかった。白鳥芳郎著の『山之路』においても、タイのヤオ族にもこれに似たような、極めて淡白な国家アイデンティティーが存在することに触れられている。彼の結論は、「山地の住人たちには国境という概念がない」[9]というものだった。当然ながら、20世紀後半に民族国家の観念が強化されるにつれ、この淡白な国家アイデンティティーも今でははっきりとした帰属感によって取って代わられ、少なくとも中国国内においては、現在のヤオ族は自分の民族的身分と国家的身分をかなり明確に認識している。
[1] Jacques Lemoine, Yao Ceremonial Paintings,Bangkok(Thailand): White Lotus Co. Ltd. 1982; Jacques Lemoine. The Yao of South China: Recent International Studies, Paris: Pangu, 1991.
[2] Barend J. ter Haar. "A New Interpretation of the Yao Charters", in Paul van der Velde and Alex McKa (eds.) New Developments in Asian Studies, London: Kegan Paul International,1998.
[3] Michel Strickmann. "The Tao among the Yao: Taoism and the Sinification of South China", 酒井忠夫先生古稀祝賀記念の会編『歴史における民衆と文化:酒井忠夫先生古稀祝賀記念論集』,東京:国書刊行会,1982.
[4] Eli Alberts. A History of Daoism and the Yao People of South China, New York: Cambria Press, 2006.
[5] 白鳥芳郎:『石寨山文化の担い手 中国西南部にみられるスキタイ系文化の影響』(翻訳:『石寨山文化的担承者----中国西南地区所見斯基泰文化的影響』、『民族研究訳叢』(一),朱昌桂訳,第43-44頁)。
[6] 白鳥芳郎:「ヤオ族の文書と祭祀儀礼--西北タイ山地民族調査より」、『東南アジア―歴史と文化―』1974年4号に掲載。邱力生による中国語訳は『民族訳叢』1985年第8期、第49-54頁に掲載。
[7] 白鳥芳郎編:『東南アジア山地民族誌』第二章,黄来鈞訳,昆明:雲南省歴史研究所東南亜研究室,1980年。
[8] 出典:http://gmzm.org/gudaizihua/%E7%9A%87%E6%B8%85%E8%81%8C%E8%B4%A1%E5%9B%BE/index.asp?page=252
[9] 白鳥芳郎:『山之路』,樊少驥訳,『貴州民族研究』,1982年第2期,第95-102頁。