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【20-02】源義経の北行伝説:蝦夷地、満州、モンゴルへの旅と伝説

2020年1月14日

安琪

安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 副教授

2001.9--2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9--2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系
東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9--2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系
文化人類学専攻 博士コース
2010.9--2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8--2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在上海交通大学人文学院の副教授として勤務

 源義経(1159年~1189年)は日本の戦国史で非常に有名な人物である。義経は平安時代(794年~1185年)後期の人物で、河内源氏の源義朝の九男であり、又の名を九郎という。父の源義朝が平治の乱(1159年)で亡くなったため、幼い義経(牛若丸と呼ばれた)は京都の鞍馬山寺に預けられて出家した。少年時代には奥州に身を寄せ、藤原秀衡の庇護を受けた。義経には、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝という有名な兄がいる。成年後の義経は兄の頼朝と肩を並べて戦い、兵を挙げて平家を討伐したが、たびたび戦功をあげた義経は徐々に頼朝のねたみを買うようになった。源平合戦の間、源頼朝には身辺に派遣された御家人から義経の傲慢や身勝手さを訴える讒言がたびたび寄せられたために、兄弟仲はさらに悪くなった。その結果、1189年の衣川の戦いにおいて、義経は奥州平泉の地で自刃に追いやられた。

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図1 源義経画像(中尊寺金色院蔵)[1]

 興味深いのは、衣川の戦いからわずか7か月後には「義経」を名乗る者が現れ、室町時代(1338年~1573年)に入ると義経に関する多くの「不死伝説」が登場したことだ。最も古い伝説は『御伽草子』の「御曹子島渡」(おんぞうししまわたり)である。この物語によれば、兄が兵を挙げて平家を討伐する前に、若き義経はすでに藤原秀衡から「北方の『渡島』(現在の北海道)には『包平大王』がいて、『大日の法』という兵書を所有している」ことを聞き知っていた。義経は衣川の戦いの後に四国土佐の湊(みなと)を出発し、蝦夷地を経由して千島の喜見城に至り、包平大王の娘と結ばれて夫婦になったという[2]

 江戸時代(1603年~1868年)に入ると、多くの作品に「義経北行伝説」が登場するようになった。たとえば、寛文10年(1670年)の『本朝通鑑』の「俗伝」では、源義経は1189年の衣川の戦いでは幸いにも難を逃れて一路北に向かって蝦夷地に逃げたとされ、その子孫は蝦夷地で繁栄したことが記されている。江戸時代の朱子学の碩学、林羅山は『本朝通鑑』続編の「後鳥羽天皇」において、「衣川で義経は死なず脱出して蝦夷へ渡り子孫を残している」と記している[3]

 絵画の世界では、源義経はたびたび北方の蝦夷人の人物像と共に登場している。たとえば、函館市立博物館に収蔵される安永4年(1775年)の「アイヌ風俗絵馬」(図2)では、蝦夷人の男女5人が武士にひざまずいて拝み、酒や食べ物を捧げている。武士は甲冑を身に付け、毛皮でできた敷物の上に座り、その前に酒や食べ物が並べられている。この武士こそ源義経である[4]。江戸時代の「蝦夷絵」を概観すると、源義経と蝦夷人が同じ絵に収まっているものが多く発見され、当時の典型的な構図の一つになっていたとも考えられる。

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図2 アイヌ風俗絵馬 (安永4年,1775年奉納)市立函館博物館所蔵

 歴史学者の菊池勇夫によれば、この「俗伝」が『本朝通鑑』に収められた頃は、ちょうど北方の蝦夷地で暴動事件が頻繁に発生していた。この穏やかではない北方の辺境に対し、徳川幕府は統治と支配の欲望をますます強めていった。その後の文学の中で、源義経が「北行」して蝦夷地を放浪したという逸話の登場はますます増え、時代の流れと共に枝葉末節も多く加えられるようになり、「蝦夷逃亡説」も徐々に「蝦夷討伐説」へと変遷を遂げた。つまり、もともとは戦に失敗して辺境への逃亡を余儀なくされた失意の源義経も、文学の世界では徐々に「辺境を開化し、辺境の民を教え導いた」英雄の源義経へと置き換わったのである。たとえば、新井白石は『蝦夷志』の中で当時流行した言い伝えとして、「義経は北海道の蝦夷人が進行した神のオキクルミである」ことを記している。

「俗尤も神を敬うも、而も祠壇を設けず、其の飲食に祭る所の者は、源の廷尉義経なり。東部に廷尉居止の墟有り、士人最も勇を好み、夷中皆な之れを畏る」。(夷俗は凡そ飲食には乃ち之れを祝いて「オキクルミ」と曰う。之れを問えば則ち判官なりと曰う。判官は蓋し其の謂わゆる「オキクルミ」か、夷中廷尉と称する所の言なり。)

 金田一京助の『アイヌ文化志』によれば、オキクルミは北海道の蝦夷人の口承神話に登場する国土創造の神であり、北海道沙流郡平取町に降臨し、その神の奇跡と功労は、魔神を撃退したことと、耕作や大船の造り方、角鮫の捉え方、毒矢を使った狩猟の方法を教えたことであると伝えられる。伝説の中でオキクルミ神が降臨したという日高地方には義経の蝦夷征伐に関する伝説が特に多く、この歴史人物に関する物質的・文化的遺物も非常に多く残されている。阿部敏夫著『北海道義経伝説序説』の集計によれば、北海道には源義経とその伝説に関係する場所が100ヵ所以上あり、その例としては義経山、義経岩、義経神社などがあるが、その多くは道南と日本海側一帯に集中している[5]

 1770年の『源氏大草紙』でも源義経の「亡命の旅」が書き換えられ、義経は蝦夷地に行った後、さらに遠くの韃靼(すなわち中国)に渡ったとされている。ここでは、当初の「源義経の蝦夷征伐説」を原型として、源義経の活動の舞台は中国大陸にまで拡大されている。

 19世紀中期、長崎のオランダ商館に勤務したドイツ人医師シーボルト(Philip F. von Siebold,1796-1866)の著作『日本』においても当時、非常に流行した「義経=ジンギスカン説」が記載され、この見解を証明する多くの例が挙げられている。それには、たとえばチンギス・ハーンが使ったとされる白色の軍旗、長弓や、モンゴルの貴族の多くの習慣は当時の日本の宮廷文化から受け継がれたものであること等がある。この他、モンゴル高原でチンギス・ハーンの勢力が突如として台頭した時期(1190年前後)が、義経が死んだとされる1189年と近いということは、義経は衣川の戦いの後、北方の蝦夷地を経てモンゴル高原に入った可能性が高いという見方もある。1882年、伊藤博文内閣の頃にロンドンに派遣されていた外交官、末松謙澄はシーボルトの『日本』を参考にケンブリッジ大学の卒業論文として『偉大ナ征服者成吉思汗ハ日本ノ英雄義経ト同一人物也』(The Identity of the Great Conqueror Genghis Khan with the Japanese Hero Yoshitsune)を書き上げた。新説を唱えたこの論文は1885年に内田弥八によって邦訳されて『義経再興記』として出版された。

 この『義経再興記』はある人物に影響を与えた。その人物こそ、後に「アイヌの救世主」と呼ばれた小谷部全一郎(1868年~1941年)である。小谷部は大正時代にアメリカのハーバード大学とイェール大学に留学して博士学位を取得し、後に洗礼を受けて牧師となり、北海道に移住してアイヌの支援事業に心血を注ぎ、社団法人「北海道土人救護会」を創設した。北海道在住期間、彼は同地に広く伝わっていた「オキクルミは源義経である」という伝説を聞いて強い関心を持つようになった。後に、小谷部は日本陸軍の通訳官の身分で満州とモンゴルに赴いて実地調査を行い、1924年に『成吉思汗ハ源義経也』を出版した。同書の見解は、「源義経は1189年に自刃しておらず、海を渡って蝦夷人の住む樺太島に渡り、モンゴルを経由し、最終的に英明な君主、チンギス・ハーンになった」というものである。この推論の根拠は次のとおりであった。

  1. 「源義経」は日本語の音読で「ゲンギケイ」と読み、「成吉思汗」の日本語の音読「ジンギス」と非常に似ている。
  2. モンゴル族の紋章と源氏の家紋である「笹竜胆」(ささりんどう)は外観が非常に似ている。
  3. モンゴル族も源氏も数字の「9」を崇拝している。
  4. 将兵は相撲に長じている。右ひざを折りひざまずくのが君臣の礼である[6]

 さらに奇異なのは、同書ではチンギス・ハーンと日本の武士階級や相撲との関係を論証するだけでなく、偽書を引用し、清朝の統治者も源氏の後代と認めている点である。同書によれば、『金史別本』という書物に、中国の金朝(1115年~1234年)の頃に「源義経」という名の大将が存在したことが記されている。また、清朝(1644年~1911年)はまさに金朝の政治遺産を直接受け継いでおり、満州の貴族も自らを源義経の後代と認めている。たとえば、乾隆帝は『古今図書集成』中の『図書輯勘録』の自序において「朕の姓は源なり、義経の後裔なり。源義経の出自は清和(天皇)なり、故に国号は清なり」と記している。しかし実際は、『金史別本』は偽書であり、まったく信用できない。それに、清代の文献には乾隆帝によるこのような話は残されていない。清朝史研究者の研究によれば、「大清」という国号の由来は中国語の「清潔」や「清浄」といった概念とはまったく関係がなく、満州語のDaicing(Daicin)という言葉が重訳されたもので、「勇士」を意味する[7]

『成吉思汗ハ源義経也』に集められたこれらの音声学や民俗学に基づく根拠の信頼性に議論の余地があることは、現在のわれわれには想像に難くない。しかし、このような推敲に耐えられないような説が広く言い伝えられたばかりでなく、繰り返し引用され、転載されたのはなぜだろうか。出版された年代から見れば、1920年代は日本が海外に領土を積極的に拡張した時期で、モンゴル―満州の貴族は日本の武士と祖先を同じくしたという「東亜同源」に基づく学術的見解は、「満蒙の征服」を目指す当時の政治情勢や国家政策に迎合したものであり、出版されるやいなやベストセラーになったことは疑いがない。しかしながら、当時の学界の主流はこの見解に大反対であった。雑誌『中央史壇』は「成吉思汗は源義経にあらず」という臨時増刊を出版し、考古学、民俗学、東洋史学、言語学の専門家による文章を集めて反論を行い、中島利一郎や金田一京助、島津久基らが小谷部の見解を厳しい論調で全面否定した。しかし、『成吉思汗ハ源義経也』の社会的影響力は学会の主流から反論を受けてもなお弱まることはなく、1900年代半ばになっても相変わらず売れ行きが良く、注目すべき文化現象となった。1958年、推理小説雑誌『宝石』に連載された高木彬光の小説『成吉思汗の秘密』においても、踏襲されたのは「義経は北に渡り韃靼に入った」という旧来の考え方だった。

 構造主義(structuralism)の視点からこの問題を見るとすれば、「北行して蝦夷地に入る」または「北行して韃靼に入る」という2つの伝説の深層には、いずれも似た叙述構造が隠されている。それは、「高い文明を持つ国からやってきた英雄的人物が辺境の『野蛮』な地域を訪れ、現地の人々から神、首領または祖先として崇められる」というものである。この構造は、人類の文化的接触における非常に普遍的な現象であり、洋の東西を問わず大量の例が存在する。たとえば、イギリスのキャプテン・クック(Captain Cook)が1779年に船隊を率いてハワイを訪れた際に1年に1回降臨するとして原住民に崇められた神のロノ(Lono)と間違えられたこと[8]や、中国西南地方で流行した諸葛孔明にまつわる伝説、華南地方で流行した伏波将軍の伝説、司馬遷の『史記·呉太伯世家』に登場する「太伯奔呉」[9]のいずれにおいても、中央王朝から王子や将軍、大臣が辺境を訪れ、最終的には辺境の教育者になったという伝説が伝えられている。興味深いのは、この種の伝説中の主役は往々にして悲しみの色彩を帯びた失意の英雄であり、高貴な家柄の出身だが、奸臣からの迫害によって無実の罪を着せられ、または戦争に負けて遠く辺境に逃れていることだ。源義経の北行伝説も、この叙述構造に由来することは明らかだ。この種の構造は中央と辺境が相互に影響し合った結果であり、辺境は中央の先進的文化を吸収している。文明の発達した地域の歴史の記憶に「失意の英雄」伝説を見つけることは、それを辺境の歴史の一部にすることを意味する。また、中央も「英雄は北行し、蛮族を開化する」という物語を通じて、暴力による血なまぐさい辺境の開拓と植民行為に合理性と必要性を探し求めていた。これこそが、源義経の北行伝説の根本的な成因である。


[1] 出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Minamoto_no_Yoshitsune.jpg

[2] 王煜焜「成吉思汗與悲劇英雄源義経-兼論日本的領土拡張與民間伝説」『北方民族大学学報』哲学社会科学版,2013,(2):41-48.

[3] 同上。

[4] 春木晶子「市立函館博物館所蔵〈アイヌ 風俗絵馬〉について」、『市立函館博物館研究紀要』2015年,22-26ページ。

[5] 阿部敏夫『北海道義経伝説序説』,東京,響文社,2002年。

[6] 小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』,東京,富山房,1924年,22ページ、270ページ。

[7] 鮑明「大清国号詞源詞義考釈」,『興京到盛京:努尓哈赤崛起軌迹探源』,傅波主編,瀋陽,遼寧民族出版社,2008年,202ページ。

[8] Marshall Sahlins, How "Native" Think: About Captain Cook for Example, Chicago, University of Chicago Press, 1995.

[9] 王明珂『華夏辺縁』,杭州,浙江人民出版社,2013年,187ページ。