【22-01】【近代編28】李四光~中国の資源開発に貢献
2022年01月13日
林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長
<学歴>
昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業
<略歴>
平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)
はじめに
今回は、中国における地質学研究の基礎を築き、新中国となってからも国家の発展に必要な国内資源開発に貢献した李四光を取り上げる。李四光は日本にも留学している。
李四光
生い立ち
李四光は、清朝末期の1889年に湖北省黄岡で私塾を経営するモンゴル系の家に生まれた。本名は李仲揆(りちゅうき)であったが、数え年14歳の1902年に武昌(現在の武漢市武昌区)に行き、高等小学校を受験した。受験の際の手続きで、氏名欄を年齢欄と間違え「十四」と書いてしまった。直ぐに気がついたため、まず「十」に少し足して「李」に変え、「四」は残し、さらにその後ろに「光」の字を入れて、李四光とした。以降、本名の代わりに「李四光」と名乗るようになった。
日本留学
1904年に日本への公費留学試験に合格し、東京にあった宏文学院に入学した。宏文学院は、清朝政府が派遣留学生の教育を日本政府に依頼したことにより設置された学校で、初代校長の嘉納治五郎が民家を借りて日本語や数学・理科・体操などの教科を教えた。作家魯迅もこの学院で2年間学んだ。李四光はこの時期に、孫文らにより東京で結成された政治結社で、清朝打倒を目指す革命運動を担った中国同盟会に参加している。
李四光は宏文学院を卒業した後、1907年に大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)に入学した。同校では舶用機械工学を専攻し、1910年に卒業している。
英国への留学
1911年に辛亥革命が成功すると、李四光は臨時政府に出仕し実業部長(産業大臣)となった。しかし、独裁的な政治家である袁世凱が実権を握ると、これに反発して下野した。
政治情勢に絶望した李四光は、1913年に再度留学を決意し英国に渡った。英国ではバーミンガム大学に入学し、まず採鉱学を学んだが、その後地質学に転向した。1919年に、同大学から地質学で修士号を取得した。
北京大学教授として帰国し、地質学者として活躍
李四光が英国に滞在中、中国で袁世凱が死去したことから国内政情も落ち着きを取り戻し、すでにこのコーナーで取り上げた蔡元培 が1916年に北京大学学長に就任した。蔡元培学長は、直ちに陳独秀、胡適(こせき)らの著名文化人を教授として招聘した。英国にいた李四光も蔡元培学長より招聘を受け、1920年に同大学の教授として帰国し、地質学の主任となった。
1922年には、同志と語らい中国地質学会を創設し、初代の副会長に就任している。李四光は、1923年に古生代に全盛期を迎えた有孔虫フリズナによる化石の鑑定方法を提案し、これにより1931年に英国バーミンガム大学より博士号を授与されている。
1928年には、上海に設立された中央研究院地質研究所(現中国科学院地質・地球物理研究所)の所長に就任した。同研究所は1933年に南京に移転したが、1937年の日中戦争開始以降大陸西部に疎開し、李四光も移転を余儀なくされた。
中国大陸の第四紀研究
このころ李四光が精力的に取り組んだ研究が、中国大陸における第四紀の地質学研究である。第四紀とは、46億年にのぼる地球の歴史の中で、約260万年から現在を含む最も新しい時代を指す。この時代の自然環境の実態と今日の環境実態との変遷をたどる事により、我々の置かれている自然環境を客観的に把握できる。
李四光は、廬山、貴州高原、河東、湘西などを現地調査し、中国の氷河に関する論文を1940年代に次々と発表して、中国の第四紀地質学の研究に重要な一章を加えた。
また、李四光は、ドイツの気象学者アルフレート・ヴェーゲナーが1912年に提唱した大陸移動説に関心を持ち、力学的な観点から地殻構造と地殻変動を研究し、中国において地質力学という概念を確立している。
中国科学院の初代副院長に就任
中華人民共和国が建国されると、李四光は郭沫若 中国科学院院長の下で4名の副院長の一人に任命された。他の3名の中には、すでにこのコーナーで取り上げた竺可楨 (じくかてい)もいた。1952年には、李四光は国務院の地質部長(地質大臣)に任命されている。
新中国の国家プロジェクトに貢献
1956年頃、聶栄臻 (じょうえいしん)らは毛沢東や周恩来らの同意を得て、両弾(原水爆とミサイル)の開発に乗り出した。この際に必要となったのが、核兵器の材料となるウランの確保である。李四光は、英国で入手した放射線測定器を用いてウラン探鉱に重要な役割を果たした。李四光は、地質構造の理論的な研究と現地での放射能測定を結合させなければならないと強調し、国内の大型ウラン鉱床発見に成功した。このウラン鉱は、その後の中国の原子爆弾と水素爆弾の開発に大きな貢献をした。
さらに新中国建国当時のエネルギー源は石炭が中心であったが、世界的には石油に移行しつつあった。それまでの外国の研究者による仮説では、中国大陸での原油分布は極めて貧困なものであるとの結論であったが、李四光は自ら中国大陸の地殻変動現象を丁寧に分析し、中国国内にも原油採掘可能な地点が存在すると主張した。そして、毛沢東ら共産党幹部にその理論を訴え、資金を得て華北平原などで大規模な原油探査を始め、1950年代後半から60年代にかけて大慶油田、勝利油田、華北油田などの大油田を相次いで発見した。この発見は、新中国の経済発展に大きく貢献している。
晩年
数々の業績を踏まえ、李四光は1969年に中国共産党中央委員に任命された。1971年、李四光は病を得て、82歳でこの世を去った。
参考資料
- 于建坤「李四光」 吉林文史出版社、2012年
- 科学網HP 「李四光:大地之子 光耀四方」
- 李四光地質科学賞基金会HP「李四光簡介」
- 名人簡歴HP「李四光」