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書籍紹介:『中国のライフサイエンス研究』(ライフサイエンス振興財団、2020年4月)

書籍イメージ

書籍名:中国のライフサイエンス研究

  • 著 者: 林 幸秀
  • 発 行: ライフサイエンス振興財団
  • ISBN: 978-4-88038-062-9
  • 定 価: 1,200円+税
  • 頁 数: 198
  • 判 型: 四六
  • 発行日: 2020年4月1日

書評:中国のライフサイエンス研究

小岩井忠道(中国総合研究・さくらサイエンスセンター)

 「清華大学、北京大学が1,2位占める 英教育誌のアジア大学ランキング」「国際特許出願数で中国初の1位」「高被引用論文著者数でも中国2位に浮上」「国際共著論文でも米中2強時代に」「注目研究領域でも中国の先導顕著に」「中国の評価引き続き上昇 英教育誌アジア大学ランキング」「高被引用論文数中国2位 日本は9位に低下」「中国の躍進続く 英教育誌の大学評判ランキング」―。

 ここ3年ほどの間に当「サイエンスポータルチャイナ」に載っただけでも、最新のものから順にこのような見出しの記事が見つかる。経済力だけでなく科学技術・学術分野でも日本は中国に追い抜かれ、差は広まる一方。そう感じる読者は多いのではないだろうか。一方、ノーベル賞をはじめとする名高い国際賞の受賞者に中国人はあまりいないことが気になる人も多いだろう。実際、中国は日本の56年前までの姿と同様の状況にあるともいえる。ノーベル賞受賞者が湯川秀樹博士一人のみだった...。

 ライフサイエンス研究分野では、2018年末に南方科技大学の賀建奎副教授によってゲノム編集された双子の女子が誕生したという国際的に大きな関心を呼んだ出来事がある。人の受精卵にゲノム編集という新しい手法を適用した目的は、父親由来のエイズウイルス感染にかかわる遺伝子を取り除くこととされた。中国国内だけでなく海外からも批判が集中、賀氏は大学の職を失っただけでなく、昨年12月30日、大学が所在する深圳市の裁判所から営利目的による医療行為罪として懲役3年の実刑、罰金300万元という判決を受けている。

 本書は、中国がライフサイエンス研究分野でも急速な躍進を遂げてきた経緯と背景を詳述するだけでなく、ノーベル賞をはじめとする著名な国際賞の受賞者数では欧米主要国や日本に及ばない理由も掘り下げている。さらにゲノム編集ベビー誕生についても、特異な研究者による常軌を逸した行為というだけでは片づけられない面を持つことを指摘するなど、最近の中国国内のトピックスについて現地調査結果もまじえて詳細かつわかりやすく解説している。

 筆者の林幸秀氏は、文部科学省科学技術・学術政策局長時代の2003年に中国の科学技術力に注目したのがきっかけとなり、退官後の2008年から中国の科学技術を対象とする調査研究活動に力を注いでいる。これまで科学技術振興機構研究開発戦略センターの研究会主査や上席フェローとして中国の科学技術に関する多くの調査報告書をまとめ、著書も出版している。今回、2017年から理事長兼上席研究フェローを務めるライフサイエンス振興財団の業務としてライフサイエンス研究に絞った調査研究を実施した結果をまとめ、出版した。調査研究は林氏自身による北京、深圳での関連施設訪問や関係者のヒヤリングを含む。

 前述のゲノム編集ベビー誕生については、臨床試験実施に関する中国政府の規則に違反していることや、「父親がエイズウイルス(HIV)陽性であるため生まれてくる子への感染を回避するため」という目的も「体外受精という他の方法もあり、ゲノム編集までやる必要はない」と明確に批判している。昨年12月には賀博士の研究論文を査読した米カリフォルニア大学バークレー校の研究者が「HIVに耐性を持たせるという本来の目的を達成してないばかりか、意図したものでない遺伝子変異をもたらした可能性がある」と指摘しているなど、欧米の研究者からの批判の声も多数紹介している。

 一方、「もし研究が米国で行われていたら、通常の良識ある科学者なら政府の関連部局に連絡しただろうが、外国、特に中国にはさまざまな価値観や不透明な規則があるため積極的な行動は難しかったかもしれない」という米ウィスコンシン大学の生命倫理学者の声も紹介している。賀博士に対する有罪判決では、2人が妊娠し、3人のゲノム編集赤ちゃんが生まれたとされたが、これらの子供たちの健康状態について賀博士からも中国政府からも説明はない。こうした経緯を紹介した上で著者は、ゲノム編集が本当になされたかどうかを含めて「第三者による確認が重要」と指摘している。

 ゲノム編集ベビー誕生について書かれた章「ライフサイエンス研究の最近のトピックス」には、このほか興味深い最近の動向が明らかにされている。文部科学省の佐藤真輔ライフサイエンス担当分析官からも資料や情報の提供を受けたという。中でも興味深いのは、欧米では倫理的な観点から研究が制約されている霊長類を用いた脳研究が中国で急速に発展しつつある、という現状。雲南省昆明市、広東省深圳市、広州市、浙江省杭州市、江蘇省蘇州市などに霊長類の飼育施設や研究施設ができている。マカクザルを中心に飼育中の霊長類は数十万匹。欧米に比べると価格も安くさらに倫理的な理由による研究規制も厳しくない。遺伝子組み換えやゲノム編集の技術を用いてサルのゲノム改変をした。こうした研究報告の大部分は中国で実施されている、という。

 脳のメカニズム解明や自閉症など精神疾患の研究をヒトに近い霊長類で行うメリットは大きいため、中国の研究者とノースカロライナ大学やマサチューセッツ工科大学の研究者たちによる共同研究も盛んになっている。「欧米の優秀な研究者が続々と中国に移動し、霊長類を用いた研究が中国で行われるようになる」。著者は、現在まだ優位にある欧米の脳研究も、中国から急激な迫撃を受ける恐れがある、と注意喚起している。

 最後にライフサイエンス研究分野に限らず、長年中国の研究開発動向を調査研究し続けてきた著者ならではのいくつかの興味深い指摘を紹介する。

「ライフサイエンス研究が国全体の研究費に占める比率は、米国や日本と比べてそれほど高くない。しかし、力のある有名研究者に重点的に配分されている結果、中国の有力研究者は日本の有力研究者よりはるかに資金力に優れている」

「欧米や日本と比べ半周遅れで研究開発が始まったために、思い切って世界最先端の研究機器を導入できている。生きた状態のたんぱく質を観察できる『クライオ電子顕微鏡』は1台数億円と非常に高価なため日本には数台しかない。中国科学院生物物理研究所を訪問したら3台も置かれていた。中国全体では数十台と世界一多い」

「国内に生息している動物や植物は、世界中の他のどの国よりも多様。将来のライフサイエンス研究を支える大きな財産となる」

「課題としてまず挙げなければならないのは、他の科学技術分野でも見られるオリジナリティの不足。一つ一つオリジナリティを出していくという点では、まだ欧米などの一流大学や研究機関に及ばない」

「人海戦術的に強引に研究開発を進めればイノベーションを達成できると考えていると思われる節があるが、欧米や日本では直線的に研究開発を進めても達成できなかった苦い経験をいくつも有している。巨大な研究開発費を投入しても全く実用化されなかったり、最終的に果実を他国の企業に奪われたりした例は枚挙にいとまがない。中国もこうしたイノベーションの罠を十分に認識すべきであろう」

 中国のライフサイエンス研究の現状、今後の発展を見極めるのは容易ではない。引き続き注視し続ける必要がある、ということのようだ。