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【20-02】幻の残留日誌─中国に渡った1943年から帰国するまでの10年間─(その3)

2020年1月31日

橋村武司

橋村 武司(はしむら たけし)
龍騰グループ 代表、天水会 会長、NPO法人 科学技術者フォーラム 元理事

略歴

1932年5月生、長崎県出身 1953年 中国より引揚げる
1960年3月 中央大学工学部電気工学科卒
大学卒業後、シチズン時計(株)に入社、水晶時計、事務機器、健康機器の研究開発を歴任
1984年 ㈱アマダに入社、レーザ加工機の研究・開発、中国進出計画に参画
1994年 タカネ電機(株)深圳地区で委託加工工場を立上げ
1995~1997年 JODC専門家(通産省補助):北京清華大学精儀系でセンサ技術を指導、国内では特許流通アソシエイト:地域産業振興を促進
2000~2009年 北京八達嶺鎮で防風固沙の植樹活動を北京地理学会と共同活動、中国技協節能建築技術工作委員会 外事顧問として、省エネ・環境問題に参画
現在、龍騰グループで日中人材交流、技術移転、文化交流で活動中
論文 「計測用時計について」(日本時計学会誌、No. 72、1974年(共著))
『センサ技術調査報告』(日本ロボット学会、共編)

その2よりつづき)

5、林口から牡丹江へ

 林口で一応落ちつきはしましたね。終戦直後の混乱からは抜け出したという感じがしました。私にとっては、やっと勉強できるような環境にもなりましたし。

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写真:橋村氏の母・アキさん(1947年、牡丹江)。

 林口に半年ばかりいて、47年の春牡丹江へ移りました。ここでは2階建ての元看護婦寮に入りました。我々一家6人に与えられたのは、約10畳ばかりの広さの部屋でした。寒いところですから、ペチカ――床ではなく壁式のオンドル――で暖をとっていました。

 ここでは、鉄道職員の有志の人たちが夜学を開いてくれました。小学校はちゃんとあって、専任の先生がいましたが、中学以上はなかったです。有志の先生たちは、昼間は勤めをもっていますから、仕事が終って夜僕らのために講義をしてくれました。生徒は10名ぐらいいました。

 技術者である先生たちは、自分の専門のことを教えてくれました。機関車関係のことをやっている人は機関車の仕組みを、電気関係の人は電気のことを、というふうに自分の職に応じて講義をしてくれましたが、これは面白かったですね。普通の学校の講義とちがって、実際に仕事でやっていることを話してくれるのですから。機関車など一番面白かったです。実際に試乗させてもらえましたので感動しながら保全を行いました。

 夜は、こうして夜学があったのですが、昼間はなにもすることがないのです。ペチカで燃すための薪を割ったり、友達と床下に隠れてマホルカ(煙草)を吸ったりしていましたが、そんなことしかすることがないのですね。それで私は、これからはもう自分で勉強しようと決心しました。

 幸い、数学、物理、化学など理工系の本が多少ありましたので、それらを読んで独学を始めました。これはかなり長く続きましたが、数学などこの独学によってすべてマスターできたものと思っていました。数学は代数、三角(サイン、コサイン)と幾何だけだと思っていたのですね。数学に微分や積分があるということを知ってショックを受けたのは、天水の高校に行ってからでした。

 物理は公式を丸暗記しました。一番困ったのは化学でした。あれは実験の学問ですから。それでもアルコールランプからはじまって、いくつもの小さな溶液を揃えたりして実験を行ないました。もちろん、あまり危険な実験はできませんでしたが。こうした実験をした一つの目的は、インクを作ることでした。隣にいたお医者さんが先生代わりになっていろいろ指導してくれました。私が当時書いていた「残留日誌」はみなこのインクを使って書いたものです。

 47年には日本人の間でも夜の「学習会」が始まっていました。これは中国共産党の主導によるもので、中国語で「坦白運動」といっていましたが、お互い同士相互の批判と自分の犯した誤りを告白する自己批判の会でした。私はまだ鉄道の職員ではありませんから、その対象にはならなかったですが、これは強烈でした。一番気の毒だったのは、機関区の人で、私たちに授業をしてくれていたSさんでした。この人が壇上に座らされて、私たちからみると"吊るし上げ"としか思えないようなことをされていました。批判される理由を聞いていても理由があるとは思えないようなものでした。ところが、Sさんは自己批判を迫られ、最後は"愛の鉄拳"だなどといって制裁を加えられていました。Sさんは大学を出た人で教養もあり素晴らしい人でした。このように壇上に上げられて自己批判を強要された人が何人かいました。

 これは、延安からやってきたと思われる日本人の指導員であったTさんが指導していたようです。鉄道の宿舎のなかにも何人か共産党員になったと思われる人がいましたが、表立った活動はしていませんでした。

 当時の教育方法は、八路軍のやり方を踏襲したものでしょうが、歌で覚えさせるやり方をとっていました。革命歌であるとか毛沢東を讃える歌であるとか、それらを覚えることによって思想を身に着けさせようとしていました。八路軍では例の「三大規律・八項注意」も歌で覚えさせていましたから。

 もう一つは、演劇活動が盛んに行なわれていました。牡丹江にいるときには、僕らも子役として演劇活動に動員されました。私も『蟹工船』とか貫一・お宮の『金色夜叉』に出されました。『金色夜叉』などは、ストーリーを変えて、資本家と労働者の対立・矛盾に化粧変えされていました。脚本に得意な人がいて、そういうシナリオを書いていたようです。

 歌にしても演劇にしても、書物の上で教えるのではなく、身体で覚えるような方法で教育していくというのは、うまいやり方だと思いますね。

 牡丹江の郊外には、中国共産党が新たしく作った航空学校がありましたが、ここには元関東軍の航空隊の人たち300人近くが教官として生活していました。航空隊の部隊長は林弥一郎さんという方ですが、林さんたちの部隊は、終戦後の混乱した満洲をさ迷っているとき、瀋陽の近くで八路軍の東北地区の総司令官であった林彪と総書記・彭真から中国空軍創設への協力を求められ、それを承諾したのでした。そして、新たに作られた航空学校で中国の青年たちの飛行訓練に携わっていたのです。

 この元航空隊の人たちと鉄道関係の人たちとがときどき交流会を開き、野球の親善試合をやったり、歌や演劇の交流会を持ちました。航空隊の人たちは若く体格もよく元気溌剌として、僕らの周りの大人と全然ちがう感じがしました。この人たちに会って話をするのはとても楽しみで、一種憧れに似た感情を抱きました。当時は知りませんでしたが、筒井重雄さん[1]もそのなかにいらっしゃったわけです。

 こうした交流会も、中国共産党が我々を思想改造しようとする教育の一環であったと思います。牡丹江の地でこうしてすでに新中国の教育の洗礼を受けましたから、後日天水の中国人の中学に行ってからも特に違和感を感じませんでした。

 この頃、僕ら若者は数名が一緒になって、朝4時頃起きてよく朝市に野菜の買出しに行きました。日本人は集団生活をしていたのですが、中国語が解らないため、中国人が売りに来るのを待って野菜その他を買っていたのです。しかし、それだけではどうにも量が足りないので、僕らが市場で仕入れてきて、それを各家庭に買ってもらうということにしたのです。買ってきたものを売ると、その間にわずかですが利ざやが生じましたが、その金でマーボー豆腐に似た熱いスープを啜るのが僕らの楽しみでした。

 しかし、これにはちょっとした危険が伴いました。私たちの住んでいたすぐ近くに八路軍の駐屯している兵営がありましたが、そこには一日中門衛が立っていました。僕らは朝暗いうちにごそごそ動き出すわけですから、門衛が「誰か!」と誰何するのです。銃を持っていますから、答えないと危険です。それで、一番最初に覚えた中国語は「リーベンレン(日本人)」という言葉でした。――これでお分かりのように、私たちは中国に住みながら、満州ではそれまで中国語を一切使うことなく生活してきていたのです。

 僕らは数人で行動していましたが、ハルピン中学の2年先輩でいろんな知識のある千野さんがいつも僕らをリードしてくれていました。千野さんの家は鉄道の関係者ではなかったのですが、どういうわけか同じ宿舎に住んでいて、餅を搗いてはそれを売って生計を立てていました。

 千野さんの発案で、短波ラジオを使って日本からのラジオ放送を聴こうということになって、いろいろ試みましたが、雑音が多すぎて殆んど聴き取れないのです。それで、それぞれが聴いてきたものを持ち寄って、こういうことをしゃべっていたのではないか等と推測したりしていました。

 僕らが一番知りたかったのは、当時日本で流行っている歌の歌詞とメロディーでした。NHKの放送劇「鐘の鳴る丘」の主題歌「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台――」[2]なども、その時懸命になって聴こうとした歌でした。

 しかしなんといっても、僕らの感情にぴったりであったのは「異国の丘」ですね――「今日も暮れゆく異国の丘に、友よ辛かろ切なかろ、我慢だ待ってろ嵐が過ぎりゃ、帰る日も来る春も来る」[3]というのは、まったく僕らの境遇だなと思いました。

 こういうことを通じて分かってきたことは、ああ日本も戦時中と変わったな、ということでした。「りんごの歌」など聴いたときは特にそう思いました。歌というものは情報を持っているのですね。

6、工場で働く

 私が一番最初に働いたところは紡績工場でした。その工場は大連にあった工場をそっくり持ってきたということでした。ですから、機械がばらばらになってこちらに届いているわけです。僕らのやるべきことは、先ず移動の間に風雨に当たってできた錆を落とすことで、そしてきれいになった機械を組み立ててちゃんと動くようにするのが仕事でした。

 糸を紡ぐのは女性がやりましたので、僕らは機械のメンテナンスをやりました。こうした機械のことは夜学で勉強していましたから、それが役立ちました。

 その次に、カマス工場で働きました。むかし米を入れたりする袋がありましたでしょう、あの袋造りです。原料は最初ワラでしたが、しばらくして草に変わりました。

 この二つの工場の体験で、ハタ織の仕組みが大体分かりました。これらの仕事をしながら、私は必ず機械が自分に合うような改造を試みました。というのも、自分のペースと機械のスピードが合わないのです。若かったですから、手順を覚えるとどんどん先に進もうとするのですが、機械が追いついてこないのです。そこで、機械をどうしたら速く動かせるかということを考えました。カマスの仕事は出来高払いでしたから、多く作れば作るほど給料も増えました。しかし、ここにはそれほど長くいませんでした。

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写真:第四軍靴工場時代(1949年6月)。左から橋村、田中稔治、内河季司

 次は、第四軍靴紡麻工場で働きました。八路軍の兵士は布靴(プーシエ)を履いていましたが、その材料になる麻縄を作るところでした。僕らの仲間の一人が先にここに入っていて、来ないかということで、この工場で働くことになりましたが、結果的にここには一年以上いることになりました。

 この工場には、青年部と少年部と婦人部とがあり、私は青年部に入れてもらい、工場の近くの宿舎に寝泊りしていました。私より小さい子は少年部でしたが、少年部の子供たちは基本的には仕事に就きませんでした。青年部とお母さんたちの婦人部が仕事をしましたが、その全体を統括していたのが、河野さんという指導員でした。

 この工場でも、機械の改造をしました。やはり、どうみても機械と人のスピードが合わないのです。私が速く踏んで廻すものですから、機械がガンガン回ってしまって縒(よ)りが掛かりすぎるのです。つまり、手のほうが間に合わないのです。そこで私は逆に発想しました。こちらをもっとゆっくり廻してやればよい。そうすれば、こちらの手の呼吸が間に合うと。そうしましたら、縒りもちゃんとできるようになりました。その結果、生産量は2倍になりました。

 生産量を上げたことで、私は「労働模範」にもなりました。このときは工場長から中国料理のフルコースをご馳走になりました。一つの円テーブルに12、3人いて、テーブルが3つほどありましたが、日本人は私一人でした。中国語は解りませんし、出てきた料理を私はひたすら食べました。フルコースは初めてでしたが、数えていたら20皿ぐらいは出たでしょうか。ところが、始めに食べ過ぎてしまっているので、後から出てきたものが食べられないのです。中国料理は美味しいものは後から出てくるということをこの時知りました。

 私はどうもこの種の仕事がこの当時から好きであったようです。ですから、ベルトをかけて廻すプーリンなんかも、木を丸く切り抜き、焼きゴテを当ててちゃんとベルトが通るように溝を自分で作っていました。径を変えれば当然スピードも変わりますから、自分に合った径を計算して、日曜日家に帰って製作しました。

 こういうことをやっているうちに、食っていくことについては自信のようなものができました。この時期はまた背丈がぐんぐん伸びた時期でした。だから、穿いてるズボンがすぐちんちくりんになってしまうのです。そのたびにお袋がぼやきながら先を足していってくれるのですが、色が違うものですからすぐ分かるのです。食べ物はよくなかったですが、この頃一番成長しました。だから、鶴岡炭鉱に行く前にはほとんど一人前の体格好になっていました。

(その4へつづく)


[1] 筒井重雄氏へのインタビュー「元陸軍空軍パイロットが辿った日本人捕虜としての軌跡」(連載第7回)http://www.ohproject.com/ivlist/02/13.html参照。

[2]「鐘の鳴る丘」(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而)より引用

[3]「異国の丘」(作詞:増田幸治、補詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)より引用


本稿は橋村武司『幻の残留日誌(梦幻的残留日记)─中国に渡った1943年から帰国するまでの10年間─』(2019年、非売品)を著者の許諾を得て転載したものである。

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