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【20-03】幻の残留日誌─中国に渡った1943年から帰国するまでの10年間─(その4)

2020年2月20日

橋村武司

橋村 武司(はしむら たけし)
龍騰グループ 代表、天水会 会長、NPO法人 科学技術者フォーラム 元理事

略歴

1932年5月生、長崎県出身 1953年 中国より引揚げる
1960年3月 中央大学工学部電気工学科卒
大学卒業後、シチズン時計(株)に入社、水晶時計、事務機器、健康機器の研究開発を歴任
1984年 ㈱アマダに入社、レーザ加工機の研究・開発、中国進出計画に参画
1994年 タカネ電機(株)深圳地区で委託加工工場を立上げ
1995~1997年 JODC専門家(通産省補助):北京清華大学精儀系でセンサ技術を指導、国内では特許流通アソシエイト:地域産業振興を促進
2000~2009年 北京八達嶺鎮で防風固沙の植樹活動を北京地理学会と共同活動、中国技協節能建築技術工作委員会 外事顧問として、省エネ・環境問題に参画
現在、龍騰グループで日中人材交流、技術移転、文化交流で活動中
論文 「計測用時計について」(日本時計学会誌、No. 72、1974年(共著))
『センサ技術調査報告』(日本ロボット学会、共編)

その3よりつづき)

7、帰国の噂から瀋陽へ

 1949年夏のことですが、この軍靴紡麻工場にいたとき、突如帰国の話が持ち上がりました。私はすぐに母の所に行って、こんな帰国の話が出ているが知っているかと尋ねると、そんな話は聞いたことがないと言うのです。ところが、工場の人たちは、すでに全員が移動することになっているというのです。移動するのは他に目的があるわけではない、ただ日本に帰るためであるというのです。一日でも早く帰国し勉強したかった私は、自分だけ一人先に日本に帰るからといって、母と水杯をして別れました。そして、工場の人たちと一緒に、私は牡丹江からハルピンへ出、長春を経て瀋陽まで行きました。

 ところが、瀋陽に行ってみると、私たちは日本に帰るのではないことを告げられました。後の中日友好協会の秘書長をされた趙安博さんがこの時私たちの前に現れて、「皆さんは日本に帰るのではありません」といって、それぞれが身の振り方を考えるようにと申し渡されたのです。

 いまだにこの話はどういうことであったのか分かりません。しかし、後になって考えてみますと、中国側にとってはこの工場がもはや不要になってきていたのではないかと思われます。当初は、敗戦で北の方から着の身着のまま逃れてきた人たちを、救済するためにこの工場を作ったはずです。しかし、そうした混乱期も脱して、物資もかなりに出回るようになると、こうした工場は中国にとっても反ってお荷物になってきたのではないかという気がします。

 趙安博さんは、私たちの身の振り方の一つとして炭鉱に行くことを勧めました。青年部の多くの人は炭鉱行きに傾きましたが、私自身もここで炭鉱に行く決心をしました。炭鉱に行けば米の飯が食べられるというのが最大の魅力でした。指導員の三宅さんが、「君はお母さんが牡丹江にいるのだから、牡丹江に帰ったほうがいいのではないか」と勧めてくれましたが、私は水杯まで交わして別れてきている手前、おめおめと牡丹江に帰るような気には到底なれませんでした。

 かくして、青年部の男の人たちはみんな鶴岡炭鉱に行くことになりました。少年部の一部の人も私たちにくっ付いて炭鉱に来た者もいました。

 これは1949年の秋のことで、私は17歳になっていました。10月1日には中華人民共和国が成立し、国内はもうかなり落ち着いていました。もちろん、まだ貧しかったですけれども。

8、鶴崗炭坑

 鶴崗炭鉱に来て、たしかに米の飯が食べられました。食べ物が豊富で食べ放題でした。ご承知のように、共産主義社会では労働者が主人公ですから、待遇は最高で、なかでも炭鉱夫のような激しい労働に従事する者は特に優遇されたようです。

 それから、賃金の平等も徹底していました。僕らは15人ぐらいのグループで働いていましたが、仕事の内容に関係なく賃金は一律でした。

 炭鉱夫は私にとっては初体験の仕事ですから、まあ面白いといえば面白いですが、危険と隣りあわせの仕事でいつも恐怖感が伴いました。鶴崗炭鉱は斜鉱なので、ワイアで引張ったトロッコで入っていくのですが、これで入っていくときには膝ががたがた震えていました。

 一番底まで入って行ったことはなかったですが、なんでも底までは二千メートルあり、先はもうソ連領であるということでした。私は戦闘の体験はありませんが、死と直面したときの感情をこのとき味わって、兵隊さんも同じだろうなと思いました。

 入坑した数日は新人教育でしたが、石炭を採ってしまった後の廃坑で後片付けをしながら、炭鉱に慣れ、トロッコを運ぶ要領を覚えるのが目的でした。

 入坑3日目、この新人教育中に、私にとっては生涯忘れられない事故が起こりました。二人一組で石を運んでいたときのこと、途中で相棒が何の声もかけず手を放してしまいました。全加重が私にかかり、私は重さに耐えられず、石を落としてしまいました。このとき咄嗟に手を引いたつもりでしたが、手袋を脱いでみると、左手人差指の爪はなく、骨が露出していました。人差指の先がトロッコのレールと石の間に挟まれたようでした。一瞬の出来事でしたが、神経をやられてしまったのか、手先はしびれていましたが、痛さはまったくありませんでした。

 軍隊上がりのリーダーが素早くタオルで止血してくれ、手首の動脈を押さえて、そのまま病院に直行しました。医師の判断では、坑内には毒ガスがあって傷が腐敗するので、すぐ切断しなければならないということでした。寝台に寝かされて顔に白い布を掛けられ、手術はすぐに始まりました。このとき麻酔を打たれた記憶はありません。のこぎりで骨をごりごりと切る音が聞えましたが、痛みはほとんど感じませんでした。そばで日本人の看護婦さんが「可哀そうに、可哀そうに」と言って泣いていました。

 それにしても、一緒に石を運んだ相棒は、手を放すまえに何かの前があった筈ですから、どうして一声掛けてくれなかったのかと、あとあとまで恨めしく思いました。その人は私より2、3歳上でしたが、痩せていて見るからに非力な感じのする人でした。私はこの出来事を体験して、パートナーを選ぶということは大事だなあと思うようになりました。

 しかしこの事故に遭った直後の私は、一面"助かった!これで入坑しなくてもいい"と思ったことも事実です。また、勲章でももらったように、"これで一人前になれた"と思ったものでした。

 それから50年以上経ちましたが、指先を失ったことで、私はなにか身体のバランスが少し悪いのではないかという感じがしています。また、指が使えないことで、非常に不便を感じることがあります。卑近な例がパソコンです。ブラインド・タッチをやりたいのですが、それができません。楽器類はすべてダメです。怪我をする前はギターを弾きましたが、それができなくなったことはショックでした。

 今でも不思議なのは、指の先が痛いのです。冬の寒いときとか梅雨時などに、無いはずの指先が痛むのですね。

 鶴崗炭鉱で働いている人たちの間で、「青年突撃隊」という組織ができていました。これは政治指導員によって組織されていたようですが、仕事の上でも彼ら突撃隊のメンバーが率先してリードしていました。私より3つ4つ上の人たちでしたが、私も早く彼らのようになりたいものだと思いました。怪我をして傷の癒えるのを待っている間は、佐賀県出身で突撃隊員の松尾さんにお世話になりました。

 私が一番目標にしていたのは、朝倉さんという義勇隊出身の突撃隊員でした。無口な人でしたが、行動果敢な人で、別のグループのリーダーでした。この人は、後年落盤事故で亡くなられたということでした。

 当初私は、突撃隊というのはてっきり思想教育の仕組みだと思っていましたが、そうではなかったです。たとえば、映画をいっしょに見に行ったり、食べ物をご馳走してもらったり、といったようなことが印象にのこっていて、何かを吹き込まれたというような記憶はあまりありませんですね。突撃隊のリーダーは大塚有章さんでしたが、この頃は毛利さんと言っていました。

9、鶴崗炭坑(続)

 一ヶ月もすると傷も癒えて、まだ痛みはありましたが、私は現場に復帰しました。鶴崗炭鉱では、1グループ15名が1日3日交替制で作業していましたから、炭鉱は年中休みなく動いていました。

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写真:鶴崗炭坑当時の橋村(17歳)

 私たちのグループのリーダーは佐々木さんという元陸軍の下士官だった人で、なかなか統率力のある人でした。私にとって一番勉強になったのは、佐々木さんと私がペアを組んで、発破を仕掛ける作業に携わったことです。鶴崗炭鉱はいわゆる「斜鉱」でしたから、斜層に沿って下の方から発破を装填して火を点けて行くという採掘方法をとっていました。斜鉱ではこのように下から崩していったほうが効率がいいのです。そして、最後の装填を終えるとパッと逃げていくのですが、もたもたしていると最初に仕掛けた発破が爆破してしまいますので、非常に危険な仕事でした。私はまだ少年でしたからさして気に止めなかったけれども、この作業はあまりやり手がいなかったようでした。

 あるとき、出口を飛び出す直前に下の方の発破が爆発したことがありました。そのときは、佐々木さんが私の後ろから咄嗟にかぶさってくれて助かりました。この仕事で危ない目に遭ったのは一度だけです。しかし、私たちのいた東山でもこの事故に遭った人がいました。この方は、石炭の砕粒が身体に喰いこんでしまい、目も見えなくなりましたから、惨めでしたね。命は取り留めて日本にも帰国しましたが、いつもハーモニカを吹いていました。

 事故とは常に表裏一体の職場でしたから、事故の話は毎日のように聞えてきました。意外と危険であったのは、石炭を坑道口から地上までトロッコで運び上げる作業です。斜層になっているのでワイヤを用いてウィンチで引揚げるのですが、そのワイヤが外れたり切れたりする事故がありました。牽引のワイヤが切れて二千メートルの底まで落ち、犠牲になった人もいました。また、信号のやりかたが悪くて、急に止まったり急に動き出して事故につながることがありました。信号といっても当時のことですから、ちゃんとした設備があるわけではなく、裸線が引いてあって、それに釘のようなものでちょんちょんと触って合図を送っているようなやり方でしたから、危険極まりないものでした。この危険な作業に携わっている人たちを「ドンコ」と呼んでいましたが、「青年突撃隊」のなかの精悍な面構えをした人たちがこの仕事に就いていました。

 炭鉱で働いていた人たちにはいろんな人がいました。元軍人だとか、元満映にいた人だとか、何をやっていたか分らない人だとかさまざまでしたが、一人元ヤクザであったような刺青をした体格のいい小父さんがいました。この人が私をいろいろ教育してくれました。炭鉱は私にとっては、またとない「人生道場」でした。

 ここで学んだことの一つは、なんでも自分でやらなければいけない、ということでした。掘り出した石炭を坑道口までトロッコで運ぶ作業は、1人で1台のトロッコを押して行くわけですが、大体3分おきぐらいに次々と出てゆくのです。ところが、このトロッコはときどき脱線するんですね。石炭を入れたトロッコの重さは約1トンあるのですが、誰も助けてくれませんから、脱線を自分で復旧させないといけないのです。まごまごしていると、後続のトロッコに追突されてしまいますので、脱線したトロッコの床下に丸太を差込み、肩に担いでレールに乗せる要領を覚えました。しかし、坑道は木で支えてあって、小さく狭く、何時もミシミシ音がし、水も漏れていましたから、非常に怖かったですね。

 危険を伴った激しい労働の職場ですから、遊び、息抜きは必要だったのでしょう。私も花札などを教わってやっていましたが、一番楽しみであったのは映画を見ることでした。映画館は東山にはありませんから、鶴崗の町の中心にある映画館まで1時間ぐらいかけて歩いて行っていました。ソ連映画がほとんどでしたが、カラー映画が出始めたころでした。

 僕らの住んでいたのは、昔の労働者の長屋だったです。まん中に通路があって、両側に棚床ベッドが並んでいるわけですが、窓はガラスなどありませんから、ムシロのようなものをぶら下げていました。寒かったですね。トイレなど、当然ちゃんとしたものなどありませんから、外でやるわけですが、冬など大のほうは凍って山になっていました。

 そんな所でしたが、食べ物だけは素晴らしかったです。白いご飯がちゃんと食べられ、味噌汁もつきました。

 ちょうど私がいるときに、新しい宿舎の建築が始まりました。映画館も常設されており、二三人で一部屋に寝泊りするような構造になっている、それは立派なものでした。こんなところに住めたらどんなに楽しいだろうと思いましたが、私はとうとうそこには入れないで、牡丹江に帰ってしまいました。

 私が鶴崗にいる間に、毛利(大塚有章)さんが来たことがありました。大勢の労働者を前にして演説をされましたが、私は一番後ろのほうで聞いていましたけれども、そのときの話の内容も毛利さんのお顔も忘れてしまいました。

 鶴崗で私にとって忘れがたいことは、お袋が私を迎えに来たことです。文通はできていましたから、恐らく私は自分が怪我をしたことを手紙で書いたのだと思います。お袋が来る前に、三井さんの部下の人が偵察に来て、傷の具合がどうかとか下見をされ、その報告を聞いてからお袋がやってきました。彼女はまったく中国語がしゃべれませんので、牡丹江から鶴崗まで250余kmの汽車の旅をよく一人で来たものだと思います。

 このときも突撃隊の松尾さんが何かとよく世話をしてくださいました。僕ら母子に芋の飴煮をご馳走してくれましたが、あの美味しさは忘れられませんね。

 しかし、私にとってはお袋と別れるのは、なんといっても辛かったです。牡丹江に帰って行くとき、小さな背に白いリュックを背負ったお袋の後姿を見ていると、涙が止めどもなく落ちてきて、私は駅の改札口まで見送りに行くことができませんでした。

その5へつづく)


本稿は橋村武司『幻の残留日誌(梦幻的残留日记)─中国に渡った1943年から帰国するまでの10年間─』(2019年、非売品)を著者の許諾を得て転載したものである。

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