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【20-05】幻の残留日誌─中国に渡った1943年から帰国するまでの10年間─(その5)

2020年3月23日

橋村武司

橋村 武司(はしむら たけし)
龍騰グループ 代表、天水会 会長、NPO法人 科学技術者フォーラム 元理事

略歴

1932年5月生、長崎県出身 1953年 中国より引揚げる
1960年3月 中央大学工学部電気工学科卒
大学卒業後、シチズン時計(株)に入社、水晶時計、事務機器、健康機器の研究開発を歴任
1984年 ㈱アマダに入社、レーザ加工機の研究・開発、中国進出計画に参画
1994年 タカネ電機(株)深圳地区で委託加工工場を立上げ
1995~1997年 JODC専門家(通産省補助):北京清華大学精儀系でセンサ技術を指導、国内では特許流通アソシエイト:地域産業振興を促進
2000~2009年 北京八達嶺鎮で防風固沙の植樹活動を北京地理学会と共同活動、中国技協節能建築技術工作委員会 外事顧問として、省エネ・環境問題に参画
現在、龍騰グループで日中人材交流、技術移転、文化交流で活動中
論文 「計測用時計について」(日本時計学会誌、No. 72、1974年(共著))
『センサ技術調査報告』(日本ロボット学会、共編)

その4よりつづき)

10、牡丹江に帰る

 母が迎えに来たこともあって、結局私はまた牡丹江へ帰ることにしました。これは1949年の冬のことで、中華人民共和国が成立して間もない頃のことです。私は17歳になっていましたが、当時の写真を見てもそこそこの体格になっていたと思います。鶴崗では大人に混じって危険な仕事もなんとか一人前にやってきたので、牡丹江へ戻ったときはなんだか凱旋したような気分でした。地下での危険な仕事ができたのだから、太陽の下なら何でもできる、世の中に怖いものなど無いといった高揚感を覚えながら、私はロシア式綿入れ上着に半長靴を履いて"颯爽と"牡丹江へ帰ってきました。

 前からの友だちは皆温かく私を迎えてくれました。そんななかで、浦塘(うらとも)君という友人がハルピンにある中国人の学校に行っているという話を聞いて非常に羨ましく思いました。この間私はなにも勉強してなかったので、一種焦りに似たようなものを感じたのですね。(浦塘君とはその後天水にも一緒に行きましたが、彼はそのときにはもう流暢に中国語をしゃべっていました。天水では、彼の勧めで私も中国人の中学校に行くことにしたのです。)

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写真:1950年1月、牡丹江にて。左より千野敏夫、橋村(18歳)、篠原宏

 篠原君という友人は、父親が反動分子と批判されて吊るし上げの対象になってしまい、彼が父親の代わりに働いて家族を養っていました。これは気の毒でした。

 三井さんはこの後チャムスへ移住しましたので、母も私も一緒に移りました。

 私は特にやることがありませんから、独学に邁進しました。なかでも、数学の勉強を一生懸命やりました。代数、三角、幾何とあるなかで、私は特に幾何が好きでした。ご承知のように、幾何というのは、補助線をどう引くかで解答に結びつくという面がありますね。それが面白かったです。松花江の近くの雑貨屋で『幾何のあたま』という本を見つけたときは嬉しさに小躍りしたことをはっきり記憶しています。あのあたりでは本なんかほとんどありませんでしたから。この本は当時の旧制高校の入試問題集でしたが、そのなかには海兵や有名高校の問題が出ており、それらに果敢に挑戦しました。(この本は大事にして日本まで持ち帰りました。)

 周囲に先生が全くいなかったわけではありません。三浦先生とか、早稲田の建築を出た小池さん、北大出の広鰭(ひろはた)さんにはいろいろ教わりました。しかし、大学出の方はほんの数人しかいませんでした。

11、天水へ

 1950年10月のことですが、日本人の鉄道関係の団体は全員集結して南下するという決定が伝えられました。私たちの団は天津に行くことになり、別の団は、一つは北京に行き、もう一つは山東省の済南に行くことになりました。

 このときは、病人を残してくるわけにはいかないので、重症患者も何もかも連れての旅になりました。だから、そういう病人を抱えている家族は大変でしたね。私がお手伝いした家族のご主人は、どういう病名かわかりませんが、放っておくと舌が縮まって喉を塞いでしまうという病気でした。それをさせないために、家族の誰かが割り箸を口に入れて外から引張っているわけです。ところが、本人は苦しいから歯で噛んでしまうのです。奥さんはしょっちゅう噛まれていまして、それは酷い状態でしたね。

 私たちが行った天津は、海の近くでもありますから、皆てっきりこれで日本に帰るものだと思ってしまったのです。このときすでに朝鮮戦争がはじまっていましたが、私たちのなかの評論家的な物知りは、「朝鮮戦争がはじまって、我々が中国にいることは国際法上問題になるから、この際日本人は国に帰してくれるのだ」という解釈をしていました。たしかに、戦争が終わって何年もたつのに、中国に残っているというのは、国際法上もおかしいのですね。ポツダム宣言は、日本の兵士についてでしたが、戦争終結後はすみやかに国に帰って平和な生活を営むべしと謳っているわけですからね。そういうところから考えて、我々は日本に帰してもらえるのだ、というわけです。それで、みんなその気になり、親父連中は、日本に帰るんだということで大分

騒いでいました。天津には半月近くいたように思います。

 私たちは結局日本に帰ることができず、天水に行くことになったのですが、なぜ東北を引き払って西方の涯のようなところへ行くことになったか、いまだにはっきりしたことは分かりません。1950年6月に起きた朝鮮戦争に日本人を巻き込みたくない。また、戦後5年も経っていながら、日本人がなおも東北に残留しているという事実を外に知られたくない。こういう中国側の配慮と事情があったのではないかと言われたりもしましたが、私たちとしては、むしろ新線建設に協力を要請されたと理解しています。

 ともかく、汽車に乗って西のほうに向いましたが、どこへ行くのか分かりません。かれこれ3日ぐらい乗っていました。天津から開封、洛陽、西安へと汽車の旅が続きました。西安の辺りまで行くと、もう何もないところを走っているのです。山がはるか彼方にちょこっと見えるくらいです。西安に着いたときは、街を取り囲むあの城壁には驚きました。厚さは10メートルではきかないですね。夜でしたから、見物はできませんでしたが、屋台で食べた餃子が美味しかったです。

 西安から宝鶏に行きましたが、ここまでが本線で、その先は実験線であったようです。ですから、宝鶏から先はふつうの客車が走れないので、貨物列車に乗り換えて行きました。有蓋車ではありましたが、コンテナのような汽車で宝鶏から天水に向って走りはじめましたが、途中で脱線してしまいました。僕らが乗っていたのは後ろから2両目でしたが、脱線して数百メートルも枕木の上を走っていました。さすがに私の義父はよく分かっていますから、すぐ立ち上がって対処していました。彼はすぐに入口にハシゴを置きました。これは、扉が開いても落っこちないようにしたのですね。そういうところは流石ですよ。そうして、脱線したことが、ようやく運転士に通じたようで、列車は停止したのですが、止まって見てびっくりしました。列車は連結器だけで繋がっていて、40度近く傾いてしまっていたのです。しかも、右も左も崖でした。左側は河で、右側は深い谷でしたから、連結器がはずれていたら一巻の終りでしたね。

 こんなハプニングがありましたが、なんとか天水の近くの社棠鎮(しゃとうちん)に到着しました。ここで半月ばかり過ごして北道阜(ペイダオフ)に入りました。この北道阜が今天水駅となっています。天水は城壁に囲まれた街で、北道阜からさらに車で30分くらいかかりました。三国時代からの古い街で、昔から交通の要衝でもあったそうですが、なかなか趣のあるいい街でした。私たちの住まいは旅館をあてがわれ、最初は安楽旅館に入り、後に甘谷旅館に移りました。

 驚いたことに、ここでは水を買うのです。飲み水に使う水は、泉から湧き出す清水を荷馬車に積んで売りに来ていました。洗濯などに使う水は、黄色く濁った河の水を買って、それを一晩放置してその上澄みを使っていました。

 私たちが行った当時は、天水までしか鉄道が通っていませんでした。蒋介石はこの先の鉄道を敷こうとしたそうですが、難工事で当時の技術ではできなかったということです。実際、蒋介石はこの天水までやって来たそうで、彼が降り立ったという飛行場もありました。

 そういう事情もあって、新中国になってから建設計画が持ち上がったとき、日本人の技術者が指名されたのではないかと思います。もちろん、日本人の技術者だけでなく、中国人の技術者も集められました。そういう点で、この建設は国策といっていいビッグ・プロジェクトであったと言えます。

 鉄道建設の最大の目的は、玉門油田で出る石油を沿海に運び出すためであると、後になって聞きました。そのために、先ず天水から蘭州まで354キロの天蘭線を敷設するのが、今回の目標であったのです。

 この一帯は、3千メートル級の山々が連なる秦嶺(しんれい)山脈と祁連(きれん)山脈に挟まれた山岳地帯で、鉄道は渭水(いすい)と隴山(ろうざん)山地を通り、地形は複雑ですから、鉄道敷設は難工事の連続であったようです。記録によりますと、カーブが378箇所、橋梁が1013箇所、トンネルが54箇所に及んだということです。あの物のない時代によくやったものだと思います。建設作業はずっと突貫工事が続いていたのでしょう、私の義父なんかもほとんど家にいませんでした。

その6へつづく)


本稿は橋村武司『幻の残留日誌(梦幻的残留日记)─中国に渡った1943年から帰国するまでの10年間─』(2019年、非売品)を著者の許諾を得て転載したものである。

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