【20-08】阿南史代氏が「円仁ロード」を辿る
2020年 8月13日 『和華』編集部(取材・文)
米国に生まれ、日本と中国、米国という3つの故郷を持つ歴史研究家の阿南・ヴァージニア・史代女史。学生時代に出会った慈覚大師円仁を長年にわたり研究し、円仁が入唐求法した7,500キロの道を踏破した。さらに「円仁グリーンロード」という植樹活動を20年近く続けている。
陝西省朝邑鎮金龍寺塔。槐樹二本の植樹。2016年
日中米、異色の経歴を持つ国際人
1976年、当時住んでいたパキスタンから一時帰国するときに北京と上海に寄ったのが、初めて中国大陸の土を踏んだ瞬間だった。文化大革命の影響で、北京で外国人が行ける場所は天壇や万里の長城、北京動物園など五カ所に限られていた。そのすべてに子供たちと一緒に行った。
中国に興味を抱くようになったきっかけは、大学教授だった父親が6ヵ月ほどアジアで仕事をしたときにくれたお土産だった。そこからアジアに興味を持ち、大学時代は中国史や中国の文化・文学を学んだ。台湾の大学院に留学して中国語を学び、そのときに日本の外交官阿南惟茂氏(後に駐中国大使)と出会った。その後、日本で結婚して日本国籍を取得する。
1983年から3年半北京に住んだ。また、1990年代に2年半を北京で過ごす。さらに2001年~2006年の5年間と、度々北京に長期滞在する機会があった。台湾も含めれば中国での生活は12年に及び、それ以外に短期でもしばしば中国を訪れ、1986年までにはすべての省に行ったという。
一番多く旅をしたのは山西省。なぜかというと古い物がたくさん残っているからだそうだ。自然の中に歴史を感じられるのが美しいと思う。たとえば昔は寺院があったところに今は何もなくなっているが、千年前の木がそのまま残っている。それを見て昔に思いを馳せる。いつもカメラを3つ持って旅をしていたという阿南女史は、地元の人々との交流について次のように話した。「庶民(中国語で老百姓)というのは正直で、各地にさまざまな物語があります。中国人は独自のユーモアのセンスがあり、臨機応変で『突然』が好き。だから今でも、中国の友人は前から約束せずに急に会うことになっても集まりやすいですね」
『入唐求法巡礼行記』に惹かれ、円仁と出会う
阿南女史は大学生のときに図書館にあったハーバード大学教授のエドウィン・O・ライシャワー氏による英語版『入唐求法巡礼行記』を読んだ。最後の遣唐使の隋員として唐へ渡った円仁は、9年間以上の中国滞在中、ほぼ毎日漢文で日記を書き続けていた。4巻7万字におよぶこの日記こそ『入唐求法巡礼行記』である。当時は自分が中国に行けるとは夢にも思わず、本の中の地図を見ながら興味を抱いた。『円仁日記』を読み、その強い精神に感銘を受け、そのとき以来、円仁のたどった途を訪ねてみたいと強く願うようになった。『円仁日記』には当時の中国の社会・経済・政治・文化・仏教だけでなく一般庶民の生活の様子も詳細に記録されており、当時の社会状況や仏教弾圧の様子も正確に伝えられている。
そのため現代の私たちにとっても貴重な教訓となると阿南女史は話す。円仁は仏教において日本に何があり、何がないかを知っており、仏法をより深く理解するためにどうしても中国に渡り、天台宗の高僧たちを訪ねたいと考えた。遣唐使に僧として参加することになったときには30の質問を準備していたという。当時すでに40を過ぎ、「高僧」だったという円仁は「偉すぎて」天台山に行く許可がおりず、日記のなかでも「ビザなし残留」状態で苦労した様子やとにかくどこでも許可を得る苦労があったことを書いている。許可がおりるのを待つ間に、寺院の様子や当時中国で起きていた出来事、揚州で何を勉強した、何を見たなど、詳細に記録している。
左:河北省保定市博物館で開かれた「阿南史代写真展」。2008年
右:阿南史代氏ご自宅にて。円仁日記と円仁画像。
円仁入唐求法の道を辿り、「円仁グリーンロード」を始める
1983年から中国に住み始めた阿南女史は、円仁の途を辿ることを志す。一般の村々には許可がないので行けなかったが、長安(西安)・揚州・開封など大きな街には何度も足を運んだ。計画を立てて本格的に円仁ロードを巡り始めたのは90年代から。日記をもとに足跡を辿り、自らジープを運転しながら巡っていった。当時の思いを書き綴った日記を読みながら、円仁が立っていた場所で1200年を超て同じ風景を見ていると思うと、とても感激した。というのも円仁はこの村は親切、この村は意地が悪いなど、非常に詳しく書いているため、同じ道を辿りながらそのようなことも思い出されるのである。
また、2002年からは「円仁グリーンロード」という円仁記念植樹の活動も始めた。円仁が亡くなるときに「廟はいらないので一本の木を植えてほしい」と言い残したことから、円仁の旅を記念するとともに当時の現地の人々の温かい支援に謝意を表すことを目的として、2002年5月に初めて五台山でカラマツの木18本を植えた。基本的には地元の人が勧めるものを植えるが、日本関係なので桜、お寺などでは松、銀杏、柏樹、槐樹など長生きするもの、花がきれいな桂花や瓊樹、ムクロジなどを植えた。住民たちは、1200年前の円仁日記に自分たちの村あるいは寺院の名前が記載されていることを、とても誇りにしていたそうだ。
この円仁ロードは、具体的には中国では江蘇省、山東省、河北省、山西省、陝西省、河南省、安徽省。そして日本では、生まれた地であり、出家した栃木県、正式な僧侶になった比叡山、仏法を広めた東北地方である。円仁は遣唐使の隋員として大阪から出て船で九州へ向かい、五島列島から中国へ渡った。そして帰りは太宰府に6ヵ月滞在して比叡山に戻った。この理由でこれらが非常に重要な地なのである。
山東省莒州浮来山。阿南夫妻とコノテガシワ。2018年
左:円仁木像。栃木県壬生寺円仁堂内
右:入唐求法巡礼行記」唐滞在を記録した日記
2007年、遣唐使1300周年記念のときには阿南女史一行は鑑真丸で神戸から上海へ行き、バスツアーで植樹を行ない、途中で中国現地の学生や僧侶たちなど、参加者がどんどん増えていった。そして山東省青島から船で帰国した。近年中国の友人たちと日本でも栃木県などの4箇所で植樹を行って来た。2002から2019年の間に、中国47箇所、日本4箇所、合わせて51箇所で記念植樹を行った。場所を決めるために事前に下見をし、植えるときには地元の人達に円仁について説明し、お礼を伝えた。
左:江蘇省海州百子庵
右:山西省五台山尊勝寺
左:河南省正定臨済寺
右:山東省赤山法華寺
左:山形県立石寺
右:栃木県大慈寺。慈覚大師堂前ムクロジの樹一本の植樹
五台山日の出"五色の彩雲"1986年
相互尊重こそが円仁が残した貴重な精神的財産
阿南女史から見れば、円仁の旅は異なる背景を持つ人々の間の相互尊重について重要なメッセージを残している。円仁は国際都市の揚州に7カ月滞在したが、当時の揚州にアラビア人、ペルシャ人、朝鮮半島の人々もいた。円仁はその間、現地の人々や中国の高僧たちと親しく交流した。又、長安では円仁の5年間の滞在中、インド僧からサンスクリットを学び、各地で世話になった新羅人との交友等、「地球市民」円仁の面目躍如たるものが伺われる。
『入唐求法巡礼行記』は現代中国を旅するガイドブックとしても十分通用するほど、場所や距離に関して極めて正確である。阿南女史は自ら中国の現在の七つの省を通る円仁の道を訪ねた。彼女にとって、円仁の道を歩くことは、円仁や唐の歴史・地理を学ぶだけでなく、円仁の決意と好奇心に深い感銘を覚えることである。
円仁は仏法を求めて歩く旅人であり、紀行文の筆者であり、何よりも使命感を持ったひとりの人間だった。そして円仁ロードは単に道そのものではなく、もっと大切なことを教えてくれた。それは、人との出会いという人間的体験、そして社会や自然の風景を描きながら法を求めて歩く事自体が人生を正しく認識し、真理を理解しようとする宗教的体験であるということだ。
円仁慈覚大師とその日記は、今やそれにふさわしい注目を集めつつあり、日本、中国の間の友好と相互尊重を自ら体現した円仁に一層の光が当てられることを期待していると阿南女史は語った。
左:五台山西台に登った際のジープ
右:五台山竹林寺参道
左:山東省醴泉寺谷
右:山西省金剛庵と尼僧達
阿南ヴァージニア史代(あなみ ふみよ)
米国生まれ。1970年に日本国籍を取得。東アジア歴史・地理学でハワイ大学修士号。台湾に留学。1983年以来、3度にわたって計12年間、中国に滞在。2006~2018年、テンプル大学ジャパンで中国史を教える。国立京都国際会館および東京・西町インターナショナル・スクール評議員。著書:『円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』(ランダムハウス講談社.2007)、『古き北京との出会い:樹と石と水の物語』(五洲伝播出版社.2004)その他多数。
(写真提供/阿南史代)
※本稿は『和華』第25号(2020年4月)より転載したものである。
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