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【19-24】五台山南麓巡礼の道  山西省

2019年12月9日

阿南ヴァージニア史代

阿南ヴァージニア史代

米国生まれ。東アジア歴史・地理学でハワイ大学修士号。台湾に留学。70年日本国籍取得。1983年以来、3度にわたって計12年間、中国に滞在。夫は、元駐中国日本大使。現在、テ ンプル大学ジャパンで中国史を教えている。著書に『円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』、『古き北京との出会い:樹と石と水の物語』 、『樹の声--北京の古樹と名木』など。

五台山は有名な世界遺産であり中国仏教の聖なる中心地である。

五台山地域は現在の観光指定区よりさらに広く古来、五台山の南門は五台山県城の近い地点に位置していた。南台の南側には唐時代の名刹仏光寺がある。しかしながら、本稿ではあまり人の訪れることもない幾つかの寺院を取り上げてみたい。

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南台山麓の巡礼古道

 三つの寺院がかつては山径で繋がっており、僧侶や巡礼たちはこの山道を歩いたのであるが、近年、車が通れる道が開通し、大分便利になっている。最短ルートに挑戦する元気者のために古道は今も残っている。

 南台から歩いて霊境寺まで降りてくる人は今ではほとんどいないであろう。この道は全く人目につかない所にあるが、唐時代に中国を旅した二人の日本僧との歴史の絆を想うと探訪の価値は十分にある。日本人として只一人、三蔵の称号を与えられた霊仙は804年、空海や最澄とともに遣唐使の随員として中国へ渡った。唐の都、長安で仏教教義を学んでいた霊仙は仏典をサンスクリットから翻訳する優れた能力を皇帝に認められて、三蔵という高い位についたのである。

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霊境寺の内門

 後に、霊仙は五台山一帯の幾つかの寺に滞在し、霊境寺でその生涯を閉じた。霊仙の生と死については、840年にこの地を訪れた日本僧円仁の日記(「入唐求法巡礼行紀」)に詳しく記述されている。円仁は霊仙三蔵が滞在した霊境寺と近くの七仏寺で聴取したことを記録しており、霊仙は毒を盛られて悲惨な死を遂げたと伝えている。今から20数年前、日本の霊仙信者たちは、異国に果てた偉大な僧の名を残そうと墓を建立した。私は南台からの山道を避けて、車で霊境寺を目指した。本尊の右側に二体の霊仙像が安置され、その前には500本の小さな蝋燭が灯されていた。霊仙の墓所は寺の北の道路脇に建てられているが、それは高僧の墓としては寂しい場所であった。

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霊仙三蔵の墓所

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霊仙三蔵像(霊境寺)

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七仏教誡院の基石

 そこから大坪村へ向かって5分ほど車で行くと、円仁日記に記載のある二つの遺跡に至る。その一つは竹の門で守られた小さな洞窟である。円仁日記には〝遥か昔、七仏がこの洞窟の前に姿を現した〟との記述がある。洞窟の中には修行僧が一人住んでおり、祭壇と祈祷用の敷物が置かれていた。洞窟の付近に七仏殿の基石が保存されて残っているが、これによって、当時の本堂と側面の二棟の堂宇の位置が推定できる。円仁日記、840年陰暦7月3日、〝南台の頂から南に向けて十七里ほど行くと、谷の中に一つの寺院があった。建物は崩れ落ちて、人は住んでいない。名を七仏教戒院という。日本の僧霊仙がかつて此処に住んでいたという。〟

 翌日、円仁は西南に向けて谷に入り、峰を越えて行くこと十五里で大暦法花寺に着いた。私はつづら折れの道を走って少軍梁村を過ぎた地点で、円仁が法花寺へ向かって行った高い丘の上に赤旗の道路標識が立っているのを認めた。グーグルマップの上でもこの巡礼路のかすかな線を観ることが出来る。幸か不幸か、数日前の大雨で山道を歩いて行くことは出来ないことが分かり、別の道を迂回することを余儀なくされた。さらに、ある地点から道路修理のため法花寺まで5キロ近く歩かねばならなかった。とは言え、周囲の山々には杏の花が咲き誇り、快適な春の日射しを浴びながら巡礼の路を辿るのは忘れ難い経験であった。

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法花寺の新蔵経塔

 円仁はここを訪れたときの印象を次のように記している。〝幾層もの建物が険しい崖の上に建立されている。四方の崖に面して建物全体が美しい高層の宝物殿である。土地の高低に応じて建物は幾つも続いて並び、経典や仏像やその他、宝物の優れて見事なことは言葉では言い尽くせない。〟

 近年、15年ほどかけて、法花寺の僧たちは寺の境内を少しずつ修復し、唐代の遺跡に代わって新しい蔵経塔が出来ていた。龍泉窟は一年中、湧き水で溢れ、このため山奥の法花寺に僧が常住しているのだという。開祖神英法師の遺骨をおさめた唐塔が付近の丘の上に立っている。現住職の慈玉法師は、この寺の悠久の歴史に強い誇りを持ち、円仁記念植樹に立ち会ってくれた。

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慈玉法師と共に円仁記念植樹(法花寺)

 法花寺から、さらに山道を南へ行くと、思陽嶺という五台山地区へ入る昔の関所がある。唐時代に円仁のような僧たちは嶺に続くこのルートを歩いたのだ。円仁は、この時のことを、〝南の方向に遥かに高い嶺が見えた。岩山の頂上は切り立って険しく、中央に一つの大きな孔が開いていて、彼方の空が透けて見える。言い伝えによれば、北魏の孝文帝が矢を射て岩を突き抜いたところである。〟

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谷間を縫って走る土の道

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 私は、円仁日記の記述に導かれて、この大孔を見つけることが出来た。自然の形状は、今も変わることなく、1200年前の円仁と同じ体験をしたことを実感するとともに、自分のいる場所が間違いのないことを確信した。

 巡礼の路は思陽嶺の頂きに位置する尊勝寺の裏門へと続いている。676年のこと、インドの高僧仏陀波利が五台山への旅の途次、この地で一人の老人と出会い、再びインドへ戻って仏頂尊勝陀羅尼経を取ってくるように命じられた。仏陀波利が跪いて拝礼をしている間に、その老人は姿を消してしまったが、インド僧は、この老人こそ文殊菩薩の化身であると悟り、命令どおりインドへ戻り経典を五台山へ持参して、サンスクリットを中国語に翻訳したのであった。これにより、中国仏教へ密教が伝わり、此処から他の地域に広がって行き、また、この教義は日本の真言宗と天台宗にも大きな影響を及ぼした。尊勝寺の境内の一隅に陀羅尼経を刻んだ二基の高い塔が立っている。現住職の慈聖法師は、この寺院の再建に尽力してきた。彼は後庭の一角で私たちに茶を振る舞ってくれ、尊勝陀羅尼経が日本の仏教に与えた影響について、弁舌を振るうのであった。

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2基の仏頂尊勝陀羅尼経塔

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開祖神英和尚塔

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文殊菩薩とインド僧仏陀波利の像(尊勝寺)

 尊勝寺の境内の正面では唐代の槐(えんじゅ)が旅人を歓迎してくれる。一人の若い僧が私たちを寺の奥へと案内し、幾層も階段を登っては、また、次の階段へ扉を開けて最上階の塔まで導いて行った。そこからは眼下の伽藍全体と周囲の農村の風景を見晴らすことが出来た。晴れた日には、遥かに南台を望み、五台山麓の三つの由緒ある寺院を今も結んでいる巡礼路の細い道筋を眺めることが出来る。

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唐時代の槐(尊勝寺)


※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.16(2019年8月)より転載したものである。