書籍紹介:『中国における科学技術の歴史的変遷』(ライフサイエンス振興財団、2020年10月)
書籍名:中国における科学技術の歴史的変遷
- 著 者: 林 幸秀
- 発 行: ライフサイエンス振興財団
- ISBN: 978-4-88038-065-0
- 定 価: 1,200円+税
- 頁 数: 217
- 判 型: 四六
- 発行日: 2020年10月1日
書評:中国における科学技術の歴史的変遷
小岩井忠道(中国総合研究・さくらサイエンスセンター)
中国通信機器大手、華為技術(ファーウェイ)に対する米政府の攻撃をはじめ、米中対立が激しさを増している。12月1日に施行された中国の輸出管理法は米国に対する反撃とみなされているが、日本企業への影響も心配されている。激しい米中対立の根底に中国の急速な科学技術力の向上があるのは明らかだ。著者の林氏は、文部科学省科学技術・学術政策局長だった17年前に初めて中国を訪れ、中国のことをよく知っておかないと日本の科学技術の将来は危うくなると思い知った、という。以来、中国の研究開発現場の状況、科学技術政策の変化などの調査、研究を続け、著書も多い。文化大革命という苦難の時期をはさみながら、なぜ中国の科学技術力が米国にも危機感を抱かせるまで急速に発展したのか。こうした疑問を感じる人々にとっても多くの材料を提供してくれる新著といえる。
「清朝末から現代までの科学技術政策の流れを中心として―」。副題にあるように最近めざましい発展を示す中国の科学技術力が、単なる幸運の積み重ねではないことを読者は納得するだろう。本書はまず、外国列強によって半植民地化され、内戦にも敗れて滅亡する清の時代から新中国(中華人民共和国)建国までの時期に、既に科学技術重視の動きが始まっていることを詳しく紹介している。
西洋近代文明を導入して国力増強を目指す「洋務運動」が始まったのは、1860年代の前半。アヘン戦争やアロー号事件で敗北した清の時代だ。いまやアジアで最も評価の高い大学となっている北京大学と清華大学は、1898年と1911年にそれぞれの前身である「京師大学堂」、「清華学堂」として創立されている。浙江大学、復旦大学、上海交通大学、南京大学、武漢大学など現在いろいろな世界大学ランキングでも上位に名を連ねる有力大学の前身も北京大学と清華大学の前身と同時期の1890年代から1900年代はじめに設立された。
続いて詳述される1949年の新中国建国以来、現在までの時期に「計画」「綱要」「決定」「意見」「工程」などと名付けられた科学技術振興政策が次から次へ実行されてきた事実に驚く読者も多いのではないだろうか。建国直前の1949年9月には中国人民政治協議会議の第1回総会が開かれ、暫定憲法の役割を果たす「共同綱領」が採択された。この中に「工業、農業と国防の建設に役立つ自然科学の発展に努める。科学の発見と発明を奨励し、科学的知識を普及させる」という条文が入っている。
新中国建国後の動きについて詳しく引用するのは無理なので、特に重要な役割を果たしたキーパーソンの業績に関する記述を紹介する。これだけでも、著者が伝えたいことを一定程度は、理解していただけるのではないだろうか。周恩来、鄧小平という政治指導者が果たした役割、業績である。
新中国建国5年後の1954年に開かれた全国人民代表大会で政府活動報告をした周恩来首相は、「工業、農業、交通運輸業、国防に関する四つの近代化」を提唱した。周首相は1958年の中国共産党宣伝工作会議でも「産業、農業と科学・文化の近代化」を強調している。
「四つの近代化」こそ、以後、中国の科学技術重視を貫くキーワードといえる。1966年に始まった文化大革命によって、科学技術政策も大きな後退を余儀なくされた。しかし、文化大革命のさなかである1975年の全国人民代表大会政府活動報告の中でも周首相は、「今世紀内に農業、工業、国防、科学技術の全面的な近代化を実現し、中国の国民経済を世界の前列にたたせる」と重ねて提唱している。
周首相の一貫した科学技術重視路線を引き継いだのが、鄧小平副首相だ。四人組逮捕により文革が終了した1978年に開催された全国科学大会の開幕式で鄧副首相は、次のように語っている。「農業、工業、国防、科学技術の近代化を実現し、わが国を近代的強国とすることは、わが国人民の歴史的使命である」。さらに「四つの近代化は科学技術の近代化である。近代的な科学技術がなければ、農業、工業、国防を近代的に建設することはできない。科学技術の高度な発展なくしては、国民経済の高度成長はありえない」とも。
鄧副首相はその翌年、1979年1月にも、共産党中央委員会の幹部を招集し、「経済基礎が弱く、人口が多く、耕地が少ない中国が近代化するためには、直ちにかつ一心不乱に四つの近代化に取り組む必要がある」と念を押している。
「四つの近代化」は、1982年に制定された新憲法(82憲法)の序言の中に明記された。その後、江沢民、胡錦濤、習近平という指導者に引き継がれて科学技術大国化に向けて急激な発展がなされる経緯を本書は詳細に明らかにしている。科学技術大国を目指す中国の本気度を如実に示すのが、2007年に改正された「科学技術進歩法」に盛り込まれた次の条文だ。中国の科学技術に詳しい人には知られた事実だが、本書で初めて知る読者は驚くのではないか。
「国の予算の科学技術経費の伸び率は、国全体の経常的な収入の増加率より高くしなければならない。中国全体の研究開発費のGDP(国内総生産)に対する比率は、逐次増加させなければならない」(第59条)。研究開発費を特別扱いすることが法律で定められているのだ。
実際にどうなったかも本書からわかる。著者が初めて中国を訪れた2003年に1,540億元(2兆1,600億円)だった研究開発費は、2013年に1兆1,850億元(18兆6,600億円)、2017年に1兆7,610億元(29兆2,200億円)と15年間で11.4倍に増えている。この間、日本は2003年に16兆8,000億円で、2017年には19兆500億円だから1割ちょっとしか増えていない。2017年の研究開発費は中国の6割以下になってしまっている。ちなみに米国の2017年の研究開発費は5,430億ドル(60兆9,300億円)。中国とはまだ2倍以上の差はあるが、2003年には両国の差は約16倍だったから、米国の中国に対する警戒感が急激に高まっていることはこの数字からも十分うかがえる。
研究開発費だけでなく、科学技術者の優遇に関しても本書は詳しく紹介している。今や世界最大の科学研究機関といわれる中国科学院が設立されたのは、1949年の新中国建国直後だ。文革では中国科学院自体も激しい攻撃を受け、本部幹部7人全員が「打倒の対象」となったのをはじめ、職員のうち迫害を受けて死亡した人間が229人に上ったといった事実も紹介されている。こうした「科学技術の暗黒時代」をはさんでも、科学技術、科学技術者優遇政策が復活するのは早かった。
1978年に全国科学大会開幕式で行われた前述の鄧副首相演説には、次のような言葉が含まれていたことも紹介されている。「共産党中央は、党委員会の指導下での所長責任制を実行すると決定した。科学技術の業務指導は所長と副所長に分担させ、学術論文の評価、科学技術者の業務水準の審査、研究計画の作成、研究成果の鑑定などをまかせるべきである」
鄧氏による改革開放路線の推進が決定的となった後の1992年に国家科学技術委員会と国家経済体制改革委員会が共同で発表した「人材移転、構造調整、科学技術体制改革のさらなる深化に関する意見」にも次のような記述がある。「知識を尊重し、人材を尊重し、広範な科学技術者の主体性、積極性、創造性を十分に引き出し、発揮させるべきである」
日本では、菅義偉首相による日本学術会議の会員任命拒否問題で、科学者コミュニティと政府との関係に大きな関心が寄せられている。日本学術会議は、「わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業および国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする」と日本学術会議で定められている機関だ。強大な研究機関を抱える中国科学院とは規模も役割も異なるところは多いが、科学者を内外に代表する機関でかつ政府機関という性格は両者に共通する。設立時期も1949年と同じだ。日本学術会議の会員任命拒否問題を考えるうえでも、本書が教えてくれることは少なくないように思える。
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