【22-21】人民元国際化報告とCIPS
2022年09月28日
露口 洋介(つゆぐち ようすけ):帝京大学経済学部 教授
略歴
1980年東京大学法学部卒業、日本銀行入行。在中国大使館経済部書記官、日本銀行香港事務所次長、日本銀行初代北京事務所長などを経て、2011年日本銀行退職。信金中央金庫、日本大学を経て2018年4月より現職。著書に『中国経済のマクロ分析』(共著)、『東アジア地域協力の共同設計』(共著)、『中国資本市場の現状と課題』(共著)、『中国対外経済政策のリアリティー』(共著)など。
中国人民銀行は2022年9月23日、「2022年人民元国際化報告」(以下「報告」)を公表した。今回は人民元国際化の進展状況と報告でも取り上げられているCIPS(Cross-border Interbank Payment System)の状況について検討することとしたい。
CIPSによる決済情報伝達
CIPSは中国の人民元クロスボーダー取引の決済システムであり、報告では、2021年中に処理した人民元クロスボーダー業務は334.16万件、前年比51.6%増、金額は79.60兆元、前年比75.8%の大幅増となっている。また、2021年末の国内外の直接参加銀行は75行、うち2021年の新規増加33行、同じく間接参加銀行は1184行、うち新規増加134行となっている。
CIPSについては、本年3月のコラム「金融制裁とCIPS 」でも取り上げた。今回はその内容をさらに敷衍することとしたい。CIPSは、人民銀行の国内人民元決済システムであるCNAPSでの最終的な人民元決済の前段階の処理として、クロスボーダー決済に係る人民元の銀行間の振替えを日中に行うシステムである。CIPSの直接参加銀行はCNAPSにおいて、毎日の営業時間開始時にそれぞれの銀行の口座からCIPS口座に資金を振り込み、CIPS内の各銀行自身の口座に資金が振り込まれる。日中はクロスボーダー人民元決済のためにCIPS内の各銀行の口座間で振替えが行われ、営業時間終了後にCIPS内の各銀行の口座の残高は、CNAPSの中でCIPS口座を通じて各銀行の口座に振り込まれ、最終的な決済が終了する。この結果営業時間終了時点ではCIPSにおける各銀行の残高はゼロとなる。このようにCIPSはCNAPSにおける最終的 な決済の前処理を行っており、これによってCNAPSでの決済件数が大きく減少し、効率化が図られる。さらに、CIPSは、クロスボーダー取引に係る人民元決済を他の人民元決済から分別、集中することによって、より簡便な処理を可能とするという2つの機能を持っている。以上から、CIPSはCNAPSと一体化した人民元限定のシステムであることが分かる。ちなみにCIPSの業務規則で示されている中国語の正式名称は「人民元クロスボーダー支払いシステム(人民币跨境支付系统)」である。
CIPSと金融制裁
現在、ロシアに対する金融制裁が行われているが、金融制裁の手段として、一般的にはまず、海外の銀行間の情報伝達手段であるSWIFTから特定の銀行を排除することによって、ドルやユーロ、円など様々な通貨について海外の銀行との間で決済情報の伝達をできなくするとことが挙げられる。さらに、ある通貨の発行国政府が自国所在の銀行に対して、海外の特定の銀行や企業、個人に対して自国通貨の決済サービスを提供することを禁じることも行われる。対ロシア金融制裁では、ロシアの銀行のSWIFTからの排除と、米国政府による米国内銀行に対するロシアの銀行のドル決済口座(コルレス口座)の凍結命令の二つの措置が取られた。
CIPSがSWIFTの機能を代替できるかという点については、ロシアと中国の間の人民元建て取引が増えれば、CIPSによって、金融制裁の効果をある程度減殺することは可能であろう。しかし、現状では、CIPSは人民元限定のシステムであるから、ドルやユーロなどの通貨についてSWIFTの情報伝達機能を代替することはできない。
また、CIPS業務規則によると海外の直接参加銀行はCIPSとの間で専用回線かその他の回線で情報伝達を行うとされている。その他の回線は主にSWIFTが想定されていると思われるが、専用回線で結ばれている場合、CIPSのシステムに一定の修正を加え、業務規則を変更することによって、海外の直接参加銀行との間でドルやユーロなど人民元以外の通貨について、専用回線を使って決済情報の伝達を行うことが技術的には可能かもしれない。海外の直接参加銀行の所在地を見ると、アジアでは香港のほかに日本、韓国、シンガポール、タイ、マレーシア、フィリピンなどに存在する。ヨーロッパにはドイツ、フランス、イギリス、ルクセンブルグなどに存在するし、ロシアにも存在する。ただし、北米ではカナダには存在するがアメリカには存在しない。アメリカと専用回線では結ばれていないので、ドルについては、CIPSがSWIFTの情報伝達機能を代替することは、不可能ということになる。
ユーロや円、英ポンドなどについては、それぞれの通貨発行国に所在する直接参加銀行とCI'PSが専用回線で結ばれている可能性があり、CIPSがそれぞれの通貨について情報伝達を行い、SWIFTを代替することは技術的には可能かもしれない。しかし、それぞれの通貨発行国の金融監督当局が自国内に所在するCIPS直接参加銀行に対して、コルレス口座の凍結を命じれば、当該通貨の決済は不可能となるので、これらの通貨についても最終的に金融制裁を回避することはできない。
人民元国際化と香港の重要性
今回の報告によると、中国の対外受払に占める人民元建ての比率は2021年中47.4%、金額は36.61兆元、2022年1~6月では49.1%、20.32兆元に達している。従って、中国の対外受払の半分近くは、ドルやユーロなど主要通貨による決済を停止する金融制裁の影響を受けないこととなる。
人民元建て受払の内容を見ると、経常取引の人民元建て比率は17.3%、7.95兆元なので、この数字を基に計算すると資本取引の人民元建て比率は、91.6%、28.66兆元となる。そして人民元建て受払の相手地域については香港が48.6%を占めている。さらに昨年の報告では2020年の商品貿易取引について人民元建て受払に占める香港の比率は42.2%とされている。この比率が大きく変わらないとすると、人民元建ての資本取引に占める香港の比率は50%前後とみられる。従って、中国の人民元建て対外取引は香港経由の資本取引が大きな部分を占めることとなる。
本年7月のコラム「中国本土と香港の金融協力の進展 」で述べたように、中国政府は香港との間でRQFII、ストックコネクト、ボンドコネクト、ウエルスマネージメントコネクトなどを導入し、2022年7月にはスワップコネクトの導入や常設通貨スワップ協定の締結によって、香港の中国本土との資本取引窓口機能を強化してきている。今回の報告では、人民銀行が香港において2021年中に12回、合計1200億元の売出手形の発行を行ったと述べている。これは人民元国際化を推し進めるため、2018年11月から開始されたものであり、香港から中国本土への資本流入を促すものである。
中国の資本取引はその大部分が人民元建てであり、さらにその主要部分は香港経由である。中国本土との間で直接投資や証券投資などを行う場合、海外と香港の間の送金はドルやユーロ、円など外貨で行われ、香港で人民元に転換され、中国本土との間の送金の多くが人民元建てで行われているものと考えられる。そして、香港にはCIPSの直接参加銀行が多数存在し、その多くはCIPSと専用回線で結ばれているであろう。従って、香港と中国本土との間の人民元送金は金融制裁の影響を受けない。
また、経常取引についてみると、人民元建て比率は17.3%と未だ低位にとどまっているが、仮に中国に対する金融制裁が行われた場合、取引双方が合意すれば、香港経由などの人民元送金によって取引を決済する方式に移行することは容易とみられる。
従って、中国に対して金融制裁を行う場合、香港所在の銀行を制裁対象に加えないと制裁の有効性は大きく減殺することになる。しかし、世界有数の国際金融市場である香港に対する金融制裁は、世界の金融市場に与える影響が大きく、ハードルは高い。中国政府が香港の人民元業務の機能を時間をかけて高めてきたのは、中国に対する金融制裁の影響を抑制することも念頭にあったのではないだろうか。中国に対する金融制裁の可能性を考える場合には、香港をどのように扱うかを充分に検討しておく必要があろう。
(了)
露口洋介氏記事バックナンバー
2022年08月22日 銀行の貸出構造の変化
2022年07月25日 中国本土と香港の金融協力の進展
2022年06月28日 SDR通貨構成比の見直しと債券市場の対外開放進展
2022年05月26日 金融政策の枠組みと預金金利の引下げ
2022年04月27日 金融緩和政策と人民元為替レート