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【08-020】山東省の淄博の旅

山東省の淄博の旅

寺岡 伸章(中国総合研究センター フェロー)

 

8月24日、陽が上るとゴルフに興じ、夜には北京五輪閉幕式のテレビ放送に感嘆して、興奮気味であったが、睡眠促進剤でやっと眠りに落ちたと思いきや、夜は既に明けていた。
「だるい」
そう思った。しかし、このまま寝入ってしまっては、新幹線に乗り遅れてしまう。
インスタントの五目御飯を熱湯で温めてかき込んだ。下着類と最新号の「文藝春秋」を入れると、北京南駅に向かった。車中、中国人作家による芥川賞作品を読もうと考えていた。道路はまだ五輪の車両規制が続いているため、空いていた。発車時間よりも45分も前に到着した。駅舎の入口で手荷物をX線検査機にかけて、なかに入った。
時間があるのでやむなく、駅構内を見学することにした。広い、だだっ広い、天井が高い。北京五輪のために、北京と天津間の新幹線を開通させるための北京の玄関口である。中国政府の北京五輪開催にかける決意がこの駅舎にも現れている。
発車の20分前にホームへの改札が始まった。
車両の先頭はかものはしの口みたいで、新幹線にそっくりである。列車の名前は「和諧号」で、時刻表には中国語で“動車組”と掲載されている。

 

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北京ー天津間を走る新幹線そっくりの中国版新幹線車両「和諧号」

 

「和諧号」は8両編成からなり、うちファーストクラスが1車両だ。車両のなかは新幹線よりも広い。座席のスペースもゆったりとってある。室内の雰囲気や電光掲示板や売り子販売も新幹線を模したようなものだ。トイレも似ている。お陰で、日本国内旅行をしているような安心感を感じることが出来た。違いは弁当の加熱とミネラルウォーターの無料配布である。30元と20元の二種類の弁当を売店で売っているが、電子レンジで加熱してくれる。中国では冷えた弁当は「冷や飯を食わせる」として、お客に大変失礼である。北京南駅から淄博駅まで4時間。ファーストクラスが225元で、二等席が187元である。ファーストクラスの座席は、飛行機のファーストクラス並みの広さがある。速度は、北京と天津間が240キロ、その後205キロになり、160キロまで減速した。北京と天津の間以外は高架ではなく、既存の鉄道を走っているため線路の基盤が弱いところでは時速200キロを切ってしまう。改良は徐々に進んでいくであろう。今でも北京から瀋陽まで4時間、鄭州まで6時間しかかからない。列車の運行もほぼ時間通りであった。国内の線路を改修して高速化すれば、物流はかなり改善され、地域間の経済の融合が一層進展すると思われる。
300キロの“動車組”が東西南北を駆け巡るようになれば、次のステップはリニアモーターカーの開発と運転である。狭い日本よりは広大な中国で、リニアモーターカーの能力が発揮されるに違いない。日本の技術を導入するか、ドイツの技術かでまた議論が起こることであろう。いやそのころは、中国は独自技術で走っているかも知れない。北京と上海が3時間、北京と香港が7時間で結ばれるような時代がもし来れば、世界の人々はその乗り物に乗るために、中国を訪れることであろう。
あまり変わらない車窓の景色に飽きると、9月号の「文藝春秋」をサックから取り出して、楊逸の『時が滲む朝』を読み始めた。外国人による初めての受賞ということでメディアが盛んに取り上げたものだ。選考委員の評価は真っ二つに割れた。その書評も掲載されている。作品は、主人公の学生たちが大学受験を経て都会にやってきて天安門事件と遭遇し、敗北して国内外に散らばり、最後に再会するという青春群像である。文章は普通の日本人よりも遥かにうまく、著者自身の経験もうまく表現されている。
芥川賞に推した選考委員は、現代作家にない迫力あるテーマを書けると評し、推さなかった者は特段新しいテーマを深く書き込んだものではないと評している。筆者が選考委員であれば、推さなかったであろう。確かに楊逸氏はまだまだ書けるテーマを持っている。芥川賞を登竜門とみるのであれば、今後に期待する意味で授賞してもいいが、この作品に関しては、既存の挫折した青春小説の域をでていないと思われる。特に、評者の石原慎太郎も述べているが、天安門事件の政治の不条理を書き込んでいないのは残念である。いくら小説とは言っても、中国の政治史上重大な事件であるので、踏み込んだ記述が欲しかったと考える。次の作品に期待するしかない。
なお、この日本の名誉ある小説賞の受賞は中国でも大きく報道された。しかし、作品が天安門事件を扱ったものとは一切報道されていない。89年の天安門事件はタブーである。
「文藝春秋」には、がんで亡くなった戸塚洋二のがん闘病記も掲載していた。ノーベル賞学者の小柴教授は、「もしあと18ヶ月、君が生きていたら、日本中が大喜びしたであろう」と、来年のノーベル賞受賞の有力候補としてその死を惜しんでいる。戸塚洋二は、がんが自分の身体を蝕んでいく闘病記を科学者の目から冷静に解析し、ブログに記載している。あくまでも冷静に分析し、死への恐怖が抑えられているところに戸塚洋二の凄みを感じる。しかし、これほどまでに科学者としての態度を貫く必要があるのだろうかと、凡人の筆者は考えてしまう。
「死にたくない、是が非でも助けてくれ」と泣き叫んではいけないのであろうか。人間の最高頭脳を持ち合わせて生き、最後まで科学に奉じる必要があるのであろうか。客観的視点を持ち続けることにどれほどの意味があるのであろうか。なぜ感情を取り乱すわけにはいけないのか。
筆者は戸塚洋二の科学的な分析描写には気が滅入った。もちろん、戸塚洋二にとって、読者が気を滅入らせるかどうかは眼中にない。
「それはあなたの勝手である」と言われて、終わりである。
しかし、感動する場面があった。病院から家路へと急ぐ夫人を制して、「もう少しゆっくりしていっていいじゃないか」戸塚洋二は言う。そして、
「もうがんばらないことにするよ。ありがとう」と夫人に感謝する。
夫人は返答する。
「じゅうぶんがんばったから、もういいのよ」
夫人は、その時涙が止まらなかったと記している。
偉大な業績を上げた戸塚洋二は永遠の眠りについた。冥福を祈ります。

列車は淄博駅に到着しようとしている。車内アナウンスは、停車時間が1分しかないため下り遅れないよう、繰り返し放送している。まだ、乗客が“動車組”の運行に慣れていないのだ。
出口を出ると、白タクが寄ってきた。白タクは中国語で「黒車」と呼ぶ。日中で白黒が逆転している。ホテルは近いため流しのタクシーを探し、初乗り料金の6元で到着した。
淄博飯店は4ツ星ホテルで1泊360元。
淄博はどんな都市かを説明する前に、淄博にやってきた理由を説明する必要がある。筆者の出身の熊本県八代市は、かつてイ草産地として有名であったが、最近は中国から廉価なイ草が輸入されるようになり、農家はイ草を生産しなくなってきている。そんななかで、農場経営者A氏は、美味しいトマトやメロンを開発し、大手スーパーに卸すまでに成長してきた。日本では人手を集めるのが困難なために、中国の農村から若い労働者を研修生として受入れるようになった。現在では二十数名を受け入れているという。彼女たちは非常に真面目に働き、2~3年の八代滞在後は200万円以上も貯金し、故郷に錦を飾っている。それらの稼いだおカネは父兄の家の改築に使われるという。親孝行ものだ。
70歳を超えるやり手のA氏は人生最後の仕事として、中国の農園で美味しい野菜を作り、中国人に食べさせたい。また、研修生として受け入れる前に、その農園で事前教育をすれば、もっと早く仕事に慣れるはずである。帰国した研修生のなかに経営センスのある者は農園の経営をやってもらおうとのアイデアである。
この話を3年前八代の居酒屋で聞いた時には、「中国での農場経営は易しくはないですよ。いいカウンターパートに恵まれればいいですが、コンサルタントなどを使って十分調査した上で慎重にやった方がいいですよ」と筆者は応じていた。
その後音沙汰がないため、このプロジェクトは中止になったとばかり思っていた。突然、知り合いから届いたメールには、「A氏が山東省の農園に来ると言ってきた。五輪を観戦した後で、一緒に行かないか」と書いてあった。中国の農村に行ったことはなかった。いい機会だと思い、五輪の閉幕式の翌日早朝、やって来たわけである。応援の叫び声のため喉が痛む。
知り合いをB氏としておこう。
午後1時前、ホテルのロビーでB氏と落ち合った。B氏によると、A氏は福岡空港から青島空港に飛び、借り上げのタクシーで淄博にやって来るのは午後7時頃だそうだ。それまでの時間、観光見学することにした。
筆者は淄博という街がどんなところか全く知らなかった。ネットで調べてみると、春秋戦国時代の斉(せい)の首都ということが判明。当時は、臨淄と呼ばれていたという。2500年も前に7万戸で50万人も住んでいた列記とした歴史のある都市である。当時山東省で最も栄えていた都市である。
さらに調べると、斉という国は数々の著名人が輩出していることが分かってきた。自分の不勉強をただ恥じ入るばかりである。斉の始祖は、太公望の名で知られている呂尚である。呂尚は周の軍師として文王の子武王を補佐し、殷の帝辛(受王)を牧野の戦いで打ち破り、後に斉に封ぜられる。あの殷を倒したのである。呂尚が斉に封ぜられると、昔別れた妻が縒りを戻そうとやって来たが、呂尚は盆の水をひっくり返して、「覆水盆に返らず」という諺の元になった。
名宰相管仲は君主桓公に使え、諸改革を断行し斉の繁栄に貢献した。実は、管仲は桓公(かんこう)に使える前に、桓公を暗殺しようとしたことがある。激怒した桓公は管仲を捕まえて、殺すように命じたが、腹心の鮑叔は「公が斉の君主であるだけでよいならば、この私でも宰相が務まりましょう。しかし、公が天下の覇者になりたいと思われるならば宰相は管仲でなければなりません」と言ったという。桓公はそれに従い、管仲を呼び寄せて宰相にしたのだ。実際に、管仲は才能を発揮し、斉を強国にしたのである。管仲は「倉 廪満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」と言って、民生の安定を第一に心がけた。また、外交においては、信用を重んじたとされる。
また、管仲と鮑叔は若い頃から親しく交わっていた。カネを出し合って商売して失敗しても、鮑叔は管仲を無能だとは思わなかった。利益が出たとき管仲がほとんど独占しても、鮑叔は管仲を強欲だとは思わなかった。管仲も鮑叔の好意に感じ入っていたという。これらの深い友情は、後世「管鮑の交わり」と呼ばれるようになった。
晏子は、霊公、荘公、景公の三代に仕え、上を憚ることなく谏言を行った名宰相として有名である。
霊公に仕えていたとき、街の女性の間で男装が流行していた。原因は、霊公が妃に男装させていたからである。晏子は、「君のやっていることは牛の肉を看板に使って馬の肉を売っているようなものです。宮廷で禁止すればすぐに流行は収まります」と谏言した。これは「牛頭馬肉」の言葉を生み、その後我々が知っている「羊頭狗肉」になる。晏子の名宰相としての活躍はこれに限らず、多数ある。晏子は、司馬遷の『史記』での非常に高く評価されている。
現代の中国でも日本でもなぜこのような大物が出現しないのであろうか。魂胆が見え透いた政治家がつばぜり合いをしているように見受けられる。合理主義や民主主義が人間を小さくしてしまったのかもしれない。

ホテルの前のタクシーにB氏と案内の中国人と乗り込み、斉国博物館に行くように告げた。博物館は市内から40分も離れた郊外にあった。実はそこが、斉の街があったところである。博物館は城壁のほぼ中央に位置しており、2から4キロの城壁で囲まれていたという。城壁はほとんど残っていない。淄河のほとりに位置していたようだ。古代であっても灌漑用の水は必要だったのである。博物館で斉の歴史を勉強して、市内のホテルに戻った。『史記』には临淄(淄博の当時の名前)は蹴鞠が流行していたと記されている。つまり、サッカーの発祥の地であるという訳だ。FIFAの証明書みたいなものも展示されていた。蹴鞠は日本にも伝わったが、中国からイギリスに伝播して、現代サッカーになったとは考えにくい。そういえば、古代中国でゴルフも行われていたと記事が発見されたとどこかで聞いたことがある。
車中で運転手が日本語を教えてくれと頼んできた。日本人の観光客やビジネスマンはほとんど淄博に来ないにもかかわらず、日本語を知りたいという。熱心な運転手であった。
淄博は今は陶器の産地として有名であるという。街には約200万人が住む大都会である。工業都市である。外資メーカーは電池を生産しているシーメンスとポンプを生産している荏原製作所の工場を見かけた。
ホテルの部屋ですやすや眠っていたが、1時間ほどで電話で起こされた。B氏からである。A氏及びお付の二人は経費削減のたえに格安のホテルに投宿するという。夕食は日本食を食べようと提案してきた。淄博には、日本食レストラン2件、味千ラーメン3件もあるという。中国人にも日本式豚骨ラーメンの人気があるのだろう。第二次産業の投資が一段落した後、サービス業の第三次産業の中国進出が進展している。
「日本のビールがおいてないのは残念だ。日本語が話せる服務員がいないのはおかしい。なぜ日本円で支払いができないんだ」などと各自ぶつぶつ不平を言いながら、食事を済ませた。

翌日9時、A氏がいつも使っているタクシーに乗り込んで、目的の農園に出かけた。工場が立ち並ぶ開発区を抜け、人の背丈以上もあるトウモロコシ畑が広がる真ん中にその農園はあった。到着すると、運転手さっさっと降りて、ビニールハウスで働いているひとを探し出し、我々が来た旨を知らせていた。我々を誰かに引き渡すまでが仕事だと考えているようであった。
「街に戻る時に電話するよ」と運転手に言って別れた。
農園の入口の鳥居のような門には、農園の名前と両国の国旗が印刷されていた。鳥居の柱には、農園の目的、由来などが日本語と中国語で丁寧に説明してあった。
A氏が社長を務める会社の100%出資の会社が経営する農園である。3ヘクタールに及ばんとする土地にビニールハウスが一面に建てられている。ビニールハウスは全て日本から持ち込んだという。中国製は性能が悪すぎるのだ。メロンとトマトの種も日本から持ってきている。肥料と農薬は現地産だ。
中国人スタッフと日本の指導員がビニールハウスのなかで黙々と働いている。トマトの苗を葉を間引きしたり、肥料用の穴を土地に開けたりしている。のどかだが、作業は進んでいく。
A氏が作業服姿でビニールハウスから現れた。開口一番、
「肥料はいっちょん効かん」とA氏が方言でいう。
メロンの初出荷はどうでしたかと訊ねると、とうとうと話し始めた。
1年間に10回もここに足を運び、着々と準備をしてきた。世界で一番おいしいメロンを栽培し、出荷するはずであったが、共同出資者の日本人が手を抜いたため失敗した。ビニールハウスには温度を調子するための開閉の窓がついているが、その日本人は窓を開くべきときに、女の尻ばかり追いかけ、農場には来てなかった。その結果、ハウス内の気温が上昇したため、病気が発生し、伝染してしまった。形が悪い満足のいかないメロンが出来てしまった。
そのため、当初卸す予定であった日系スーパーとの契約を破棄してしまい、一部は上海の市場に出し、残りは農場で現地販売をすることにした。上海の卸業者の韓国人は、糖分が足りない、腐れているものがあるなどとケチをつけて、契約の価格を値切ってきた。そんなはずはないと思ったが、上海に行く時間もないので、相手のいう価格で取引した。ところが、相手の言い分はウソであることが後で判明。消費者からは、こんなに美味しいメロンを食べたことはないという絶賛の声が上がっていた。韓国人は利益を上げようと買い叩いてきたのであった。このようなペテン師とは二度と付き合わない。
現地販売も大成功で、あっという間にメロンはなくなった。噂を聞きつけた青島のテレビ局が取材をしたいと申し出てきたが、そのときにはメロンが残っていなかったので断らざるを得なかった。
中国ではみんな俺を騙そうとやってくる。日本人も足を引っ張ろうとする。本当に疲れてしまう。あと1年はきちんとやるが、その後は分からない。本当に疲れてしまう。
横で聞いていたB氏は、「日本にいると、クラブ通いに精を出し、酒で身体を壊してしまう。ここで農作業をやっていた方が運動になり、健康にいいのではないか」とからかう。
A氏も否定しない。
山東省は隣の河南省に継いで人口が多い省である。それだけ豊かだ。でも、農業用水は河川水ではなく、汲み上げている。それも地下80メートルという深さからである。農園まで送ってくれたタクシーの運転手は、黄河の伏流水や雨水が浸み込むので心配ないと言っていたが、そのまま信じ込む訳にはいくまい。
淄博は2500年前の斉の首都から延々と栄えてきた地域だ。名宰相を生んだ古代よりも現代人が賢いという保証はない。地下水が枯渇する前に、世界一美味しいいメロンとトマトを中国人に食べさせてあげたいというA氏の夢が実現することを強く願う。(08年8月31日)