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【09-002】紂王は暴君だったのか、また、太公望は釣をしていたのか

寺岡 伸章(中国総合研究センター フェロー)     2009年2月13日

 

 「酒池肉林」といえば、商(殷)王朝の最後の紂王の代名詞として有名である。酒池肉林は、酒を池のように大量に満たし、羊肉や牛肉をあたりの木にかけ、その間を一糸纏わぬ男女に追いかけっこをさせる遊びである。飲み、食い、ドンちゃん騒ぎの毎日だったに違いない。想像するだけで、退廃の臭いが漂う。漢字の表現力は描写が生々しく強烈である。
殷の側からすると、酒池肉林は大がかりな神に捧げる祭典であった。帝や神を地上に降下させるためには、肉や酒だけでは不足で、髪の長い男女や若く美しい裸体の女は神をおろしやすかったと考えられていた。
紂王は有蘇氏を討伐したとき献上された妲己(だっき)を寵愛し、彼女の喜ぶことは何でもやったと伝えられている。炮烙(ほうらく)の刑は、油を塗った銅柱を横に吊るし、下から火を焚き、受刑者にその上を渡らせる処刑法だ。受刑者の必死の形相を見て、妲己は大いに喜んだという。紂王の叔父にあたる比干(ひかん)は遠慮なく紂王を諌めたため、紂王は怒って殺してしまった。
「聖人の心臓には七つの穴があるというが、調べてみるか」
と、比干を解剖して、その心臓を観察している。
紂王の補佐をしていた諸侯の娘たちは、紂王の言うことを聞かないと言って殺されたり、ついでに父親の諸侯も殺されて、肉のつけものや干し肉にしたと伝えられている。周の文王は紂王に子供を殺されただけでなく、そのスープを強制的に飲まされた。当時、ひとの肉を食べることは特別なことではなかったとは言え、想像するだけで嫌悪を感じるのは筆者だけではあるまい。
地上200メートルにも及ぶ高層建築物の鹿台(ろくだい)という楼閣を建造するために、羌(ちゃん)族を狩して、奴隷として働かせ、完成に7年を費やした。その楼閣に財宝を集めたため、税金が高くなった。さらに、钜橋(きょきょう)という倉に穀物を満たし、沙丘(さきゅう)の離宮に珍しい動物を放し飼いにして自然動物園にしている。これらは、紂王が妲己を喜ばせるためにしたことである。なお、庶民はまだ竪穴式住居に住んでいた時代のことである。
紂王のやり放題の放縦は諸国から恨みを買い、周の文王の子である武王が動員した諸国連合軍はついに決起し、紂王を殷の南郊の牧野の戦いで破った。紂王の軍70万の兵に対して、連合軍は35万の兵であった。連合軍の将軍は、太公望である。『史記』は牧野の戦いを以下のように記している。

 「紂の軍団多しと雖も、皆、戦う心無く、心に武王のすみやかに入らんことを欲す。紂の軍団、皆、兵器をさかしまにして戦い、以って武王を開く。武王、之に馳す。紂の兵、皆、崩れて紂に背く。紂、走りて返り入り、鹿台の上に登り、其の珠玉を蒙り着て、自ら火に焼けて死す」

  紂王のあっけない最後だった。

 このように極悪の王で暴君のように書かれていると、常識のある者には不思議に思えてくる。紂王はそれまでの殷朝の王と比較して特別な存在であったのであろうか。そもそも誰がどのような意図をもって紂王の歴史を書き残しているのであろうか。言うまでもなく、殷朝を倒した周が書き残したものである。周の立場から言うと、殷は滅びるに値する悪行を行っていたとしなければならない。さらに、周は儒家にとって理想とされる時代であったため、なおのこと殷の最後の紂王は討伐すべきものとして描くべきだったのであろう。紂王の兵は70万がことごとく寝返ったというのも、奴隷や討伐した諸侯の兵が主であったであろうが、不自然である。周を中心とする連合軍は少数ながらも、奮闘して勝ち抜いたという美しい物語に仕立てる必要があったのではないのか。

 司馬遷は『史記』を書くに当たって、各地を遍歴して歩いたが、彼が生きていた時代は武帝が儒教を国教と定めた時であったため、ヒアリングの相手はほとんどが儒者で紂王を親の敵のように罵倒したに違いない。
戦国末期の荀子は、夏の桀王と殷の紂王は長身で、かつ美貌でもって、天下に傑出していた、と記している。
司馬遷も一方で、紂王は弁舌さわやかで、決断力も行動も速く、また、見聞きしたことを認識するのも速く正確であったとも記述している。才能も体力も優れていて、素手で猛獣を倒すことができたという。つまり、名君の素質を十分身に着けていたのである。紂王は自信家で、臣下が愚か者に見えたことであろう。何も恐れるものがなかったことが、彼の最大の弱点であった。
甲骨文字は殷の時代の貴重な“生きている証拠”であるが、妲己という名前は全く出てきていない。祭祀については、それまでの王よりもずっと熱心で、欠かさず行っていたことが分かっている。伝統に対して非常に敬虔であったと思われる。これらの証拠は、『史記』などの書物が伝える実像とはかなり異なっている。

 筆者は12月中旬の快晴の早朝、牧野の戦いが行われたという牧野公園に行った。当時の殷の首都朝歌(現在の殷墟)から南へ約100キロのところにある。古代には、街である邑(ゆう)の外を郊(こう)、郊の外を野(や)と呼んでいた。牧野は街からかなり離れていたのだ。当時、牧場があったのであろう。その公園は、隋朝に開発され、現在の新郷市のほぼ中央に位置している。牧野の戦いを偲ばせる記念碑も何もない。中国人が好きな噴水があるが、冬は稼動していない。水溜りの水は氷と化している。牧野公園は日本の基準では広い公園であるが、中国では特別に広いという訳ではない。公園内には、太極拳やダンスの練習をする人々を見かけた。紀元前11世紀、ここで100万人の兵士が激突したとは全く想像できない。のどかで平和な雰囲気に包まれている。

 屈原の作とされる『天問』で、周の武王はなぜ急いで紂王を殺したのかと問うている。武王は急死した文王の葬儀をまだ終えていない。当時は足掛け3年喪に服する必要があった。戦車に位牌を乗せたまま、出陣したのだから、相当急ぐ必要があったのだろう。『天問』は謎をかけているだけでその答えを出していない。屈原は理由を知っていたのだが、それを敢えて言わなかったのであろう。
文王の徳を慕って遠方よりやってきた伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の兄弟が紂王を討とうとする武王を諌めて、
「父(文王を指す)が死んでまだ葬っていないのに戦争をしようとしています。これは孝といえるでしょうか。周は殷の臣ではありませんか。臣が君を殺すのは仁といえるでしょうか」と言ったが、武王は無視する。伯夷と叔斉は周の穀物を食らうのを潔しとせず、飢えて死んだ。『史記』列伝の最初に登場するのは、伯夷と叔斉である。司馬遷は紂王を暴君と描写しながらも、何かしっくりこないことがあったため、彼らを列伝の重要な位置において、バランスを取ろうとしたのではあるまいか。これは筆者の想像であるが。

 史家の間では、紂王の精鋭部隊が東方に出陣した隙を狙って、周連合軍が殷を攻めたというのが定説になっている。紂王は牧野で迎え撃ったのだ。紂王からすると、西方の統治を任せていた武王に騙し討ちされたというのが本音だろう。では、なぜ東方に遠征隊を出す必要があったのか。巨大構築物建造のために、奴隷を狩る必要があったこと、当時通貨として使用が始められていた貝を確保する必要があったこと、生活必需品である塩を確保する必要があったことのどれかが原因であろう。
作家の宮城谷昌光は大胆な仮説を唱えている。
鹿台のなかは銭が満たされ、钜橋は穀物で満たされていた。紂王は貨幣経済を発想し、実行しようとした、デフレやインフレの対策のために、物価の安定を狙った銭や倉庫が必要だったのではないかと想像力を逞しくしている。さらに、大量殺人を要求する王朝の宗教色を薄めるための宗教改革を行おうとしたという仮説を唱えている。聖職者に諮問して神託を仰ぐのではなく、妲己に神力があると喧伝して、紂王と妲己が相談して命令を下そうとしたのではあるまいか。大胆な仮説である。もし、そうであれば、紂王は革命的な立派な王であり、既得権を失う勢力に内外から邪魔をされたと解することもできよう。

 紂王に殺され解剖された比干については、前述したが、周の武王は比干の墓をていねいに土もりした。その墓は牧野公園から北に約30キロ行ったところにあった。立派な廟である。説明書きには、比干は中国史上の第一の忠臣で、林姓の始祖とある。全国の林姓の人々が寄付金を出し、石碑を建造している。また、後世、君主に恐れずに諫言したとして儒家に尊ばれた人物になった。北魏の孝文帝が廟を建立し、清の乾隆帝も祀ったと記録されている。

 さて、筆者がこの地を訪れた理由はもう一つあった。文王に才能を見出され、文王を継いだ武王とともに紂王を倒した太公望の生誕地を訪れることである。そこは太公村と呼ばれる小さな村のはずれにある。村の入口には「歓迎姜太公鎮」と書かれた石碑が建てられている。事前にネットで得た情報によると、生誕地には、太公望が釣をしている銅像が建てられ、近くには太公望を祀った祠があるという。
実際に行ってみると、居住地と小麦畑が広がる境に、太公望の威風堂々たる銅像が釣竿を目の前の池に伸ばしている。池にはアヒルが楽しげに泳いでいた。近くの畑では、山羊が草を食んでいた。太公望は渭水の畔で釣をしていた際に、周の文王が太公望と出会い、その才能を認めて、馬車に乗せて連れ帰り、師と仰いだと記録されている。夏の最後の桀王を破った湯王は料理人の伊尹(いいん)を訪れ、賢人と認め、馬車に乗せて帰ったと言われている。伊尹の才能ゆえ、夏は滅んだのだ。この二つの話は酷似している。違いは釣人と料理人の違いくらいである。創作の臭いがぷんぷんする。
いずれにしても、太公望はここで釣をしていた訳ではない。太公望の釣の印象が強いために、そのような銅像を建てたのであろう。太公望の物語は日本にも伝わり、釣好きなひとは太公望と呼ばれるようになったが、中国ではそのような呼び方はしない。
さらに、考えてみると太公望は本当に釣をしていたのであろうか。彼は遊牧民族の羌族である。太公望に関する残された情報は少ないが、肉屋をやっていたという記録もあり、こちらは信じることができるが、遊牧民族が釣をしていたとは考えにくい。おそらく釣をしていた際に、文王に才能を見出されたと後世に創作されたのであろう。では、なぜ釣をしていたという物語が作られたのであろうか。また、太公望が文王と会ったのは、70歳であったという。銅像をよく見ると、体格は壮年であるが確かに老人の顔をしている。太公望はその後、文王とその後を継いだ武王に仕え、諸国を東奔西走して、君主を説得し、紂王打倒網を構築していく。70歳を超える年齢でそのようなハードな仕事ができるはずがない。200歳近くまで生きたというのも不自然である。太公望は壮年期であったと考えるのが妥当である。
兵法書『六韜(りくとう)』に書かれている説話で、太公望が周王に語った言葉は次のとおりである。

 「糸が細く、餌がはっきりしていれば、小魚がそれを食べます。糸が中くらいで餌が芳しければ、中魚がそれを食べます。糸が太く、餌がゆたかであれば、大魚がそれを食べます。そのように禄をもって人をとりつくすことができ、家をもって国をとろうとすれば、国を奪うことができ、国をもって天下をとろうとすれば、すべてをとることができるのです」

 「天下はひとりの天下ではありません。天下の天下です。天下の利を民と共有する者が天下を得て、天下の利を独占する者は天下を失うのです。仁のあるところ、徳のあるところ、義のあるところ、道のあるところに天下は帰するのです」

 文王は聖人を得たと思って、太公望を師と仰いだのである。天下とりを釣に比喩しているために、太公望が釣をしているように創作されたのであろう。

 現地で予期していなかった意外なものを発見した。それは銅像から1キロくらい離れた畑の真ん中にあった。太公望の墓である。太公望は殷朝討伐の業績のために、現在の山東省あたりの斉(せい)の国に封じられている。斉の初代の君主である。そのため、太公望の墓は斉の首都の臨淄(りんし、現在の淄博)にあると筆者は思い込んでいた。彼の遺言か何かの理由で生誕の地に葬られたのであろう。墓は質素であった。墳墓のような感じである。周連合軍の軍師という大役を果たし、斉国が春秋時代の覇者となったことを考え合わせると、意外な扱いである。小麦畑のなかに小高い丘がぽつんとあるだけである。姜太公の墓という石碑が建っていなければ、見逃してしまいそうである。不思議である。いずれにしても、太公望の出身地に墓が作られ、もっとも近いところにある池の畔に銅像と祠が建立されたのだ。
比干の墓と比べると、太公望の墓は格段に小さく、投宿したホテルの観光案内にも比干の墓の説明は書いてあるが、太公望にかんする情報はない。比干は敵である殷の知識人であったに過ぎないが、太公望は歴史を作った大物である。筆者の想像は以下のとおりである。比干は後世に中国思想のバックボーンとなる儒家に君主を諌めた行為が評価されることになったからである。つまり模範とすべき体制派知識人として扱われるようになる。一方、太公望は少数民族であったことが、漢民族中心主義に合わなくなり、歴史上疎んぜられるようになったのではなかろうか。2008年5月発生した四川・汶川大地震の震源地は、羌族自治区である。羌族は殷時代、中原に住んでいて、王朝に人狩され、神への生贄として殺されたり、巨大構造物建造のために奴隷として酷使されたのである。現在の羌族は中原から追放され、チベットなどの山岳地帯に住んでいる。太公望は羌族の英雄であり、彼は民族による差別をなくすために、封ぜられた国の名前を「斉しい」からとり、斉にしたのである。実際、斉は多民族国家として新しい文化や経済を創造し、栄えていった。
太公望は千年も神に支配され、人々を苦しめていた殷朝を倒し、人間中心の国家を建設した。その意味で、太公望は真の宗教改革者であったのだ。

 

<参考文献>
陳舜臣「中国の歴史」(一)(講談社文庫)
宮城谷昌光「太公望」上中下(文春文庫)
宮城谷昌光「史記の風景」(新潮文庫)