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【09-010】司馬遷が後世に遺したもの

寺岡 伸章(中国総合研究センター フェロー)     2009年5月19日

 春秋時代、山東半島にあった斉(せい)国で起こったことである。

 斉のトップである荘公(しょうこう)は臣下の崔杼(さいじょ)の妻に通じていた。面子を重んずる当時、崔杼(さいじょ)はひどい屈辱感に悩まされていたことであろう。荘公は崔杼がいないころを見計らって、しばしば崔杼の邸内に忍び込んで、美人妻と関係していた。ある日、崔杼は家来に命じて、忍び込んできた荘公を殺害させた。

 そこで、斉の大史は、

「崔杼、その君を弑(しい)す」

と公式な記録に記した。事実は事実である。すると、崔杼は怒ってこの史官を殺してしまった。史官は歴史を曲げることはできない。殺された大史の弟は筆をとって記録を続けた。崔杼はこれを殺し、なおも記録を残そうとするその弟をも殺した。第四の弟も使命感からそのことを記録したので、崔杼もこれを承認せざるをえなくなった。史官の執念というほかない。背景や理由やまた誰であれ、歴史的事実をそのまま記録に収めることが史官の任務であった。まさに命賭けの仕事であった。古代中国ではそれほど事実や歴史の記録に対する重要度が高かった。

 中国の歴史をつくったと言われる司馬遷はそのような古代に、史官の家系に生まれたのである。実は、もう一人、中国の歴史をつくった男がいる。武帝である。彼ら二人の歴史的役割を考えてみたい。『史記』は大変面白い。歴史書であるだけでなく、壮大な歴史小説でもある。筆者はデスクワークだけでは、彼ら二人を理解するのに十分ではないと思い、歴史探訪の旅にでかけた。行き先は司馬遷が生まれた陝西(せんせい)省の韓城(かんじょう)である。武帝が眠る西安郊外の陵墓の北240キロに位置する。

 北京から韓城までの997キロの鉄道の旅は18時間を要する。平均時速55キロ程度である。2009年4月4日午後7時10分、韓城行きの列車が予定より少し遅れて静かに北京西駅のホームを出発した。筆者が乗り込んだ2等寝台はどこも満員だった。列車は北京から南下し、黄土高原の山西(さんせい)省を南北に縦断するルートをとる。途中、省都の太原や世界遺産の平揺(へいよう)の町を経由する。平揺は清代の町並みがよく保存されていることから、世界文化遺産に登録されている。ここで多くの観光客が下車した。欧米の留学生とおぼしき集団がいる。翌朝午前7時30分ころだった。

 2等寝台はカーテンがなく、プライバシーがないが、広くて意外に快適だった。7時間くらいの睡眠をとった。到着までまだ6時間ある。黄土高原の上は平坦である。雨水に抉られて、河川となったところは、急峻な谷になっている。列車は平坦地を選ぶようにゆっくり走る。速度が遅いのは地盤が緩いためであろう。4月の最初の日曜日は、暖かく、晴天に恵まれている。桃や油菜の花も満開になっている。美しい。南に行くほど、小麦の丈は高くなり、ポプラの緑葉も多くなっていく。子供たちが遊んでいる光景にも出くわす。老人が孫をあやしている。ぼうっとして列車を見物している者もいる。畑の隅の墓地には、ところどころ極彩色の花輪が飾られている。昨日は、先祖を供養する清明節であったためだ。何もかもが春本番という装いである。のどかである。眠気が襲う。でも退屈しない。少しずつ旅客が去っていく。いつまでもこの気分に浸っていたいと思う。

 山西省は石炭の産地として重要な地区である。火力発電所があちこちに立ち並び、噴煙を勢いよく上げている。あとで聞いたが、石炭王は随分贅沢な生活をしているという。

 河津駅はその名のとおり、黄河に接する街であるが、石炭の大生産地でもある。火力発電所も多い。石炭の臭いが車内にも入り込んでくる。この街を過ぎると、黄河を越え、陝西(せんせい)省に入る。最初の街が韓城市というわけだ。黄河は現在の山西省(さんせい)と陝西(せんせい)省を隔てている。この二つの省は日本語でも発音が似ているが、中国語でも似ているので、時々聴き間違える。春秋戦国時代には、黄河が秦(しん)と晋(しん)の国境であった。鉄道は黄河の最も狭い箇所を横切った。ここが竜門と呼ばれる場所だ。この下流は黄河が急になだらかな流れになる。黄河を登る鯉が急流の竜門を昇りきると、竜になると言い伝えられている。登竜門もこの故事から来ている。

 司馬遷は『史記』のなかの自伝とも言える「太史公(たいしこう)自序」のなかで、「遷は竜門で生まれ(紀元前145年)、黄河の北、山の南で農耕・牧畜をしていた」と述べている。竜門は現在韓城市に併合されているが、この地こそ司馬遷が生まれ、6歳まで過した土地である。黄河がいにしえの過去から途絶えることなく流れ、黄土高原は鋭く切り裂かれ、しかし肥沃な土壌に恵まれた土地柄である。雄大な地形は幼い司馬遷の心に深く刻まれたことであろう。

 司馬氏は代々周室の記録をつかさどっていた。その後、司馬氏は周の都を去り、晋(しん)におもむくが、一族は各地に分散する。子孫は将軍や製鉄監督官や市場の長などになっている。姓の司馬から分かるように、将軍としての才能を発揮した者がいたことは間違いない。戦争がないときは、文官として活躍していたいと推察される。

 父司馬談(だん)が太史令(たいしれい)になると、遷も一緒に華の都長安に移住し、さらに茂陵(もりょう)に移った。転勤である。8歳の時のことだ。10歳の時に、師について、『春秋左氏伝』などの古文を暗誦している。これで、司馬遷は歴史の基礎学力を身につけたのだ。20歳の時に、父の命を受けて、2年間各地の伝統や風俗を探訪し、戦国諸侯の記録を収集して廻っている。秦の始皇帝は天下を統一すると、秦以外の諸国の書物を焼き捨てさせている。司馬談からみて、貴重な史料が多く紛失したに違いない。そのため、息子遷を地方に遣わし、残された史料や地方に伝わる伝承を聞き集めたりさせたのであろう。中央で失われたものは、歴史の現場で掻き集めるしかない。この時、司馬談は中国で初めての正史を書こうと決心していたに違いない。

 遷は長安に戻ると、その経験を買われ、郎中(官僚見習い)として武帝に仕えることになる。35歳の時、巴(は)、蜀(しょく)、昆明(こんめい)などの遠征に加わり、都に帰ってくる。

 遷の父談は太史令(たいしれい)として、天文と暦法をつかさどっていたため、本人は武帝の封禅(ほうぜん)の儀式に当然参加できるものと考えていたが、どうした訳か参加が許されなかった。その不平不満が極に達し死にかけていた。怒りの余り健康を害した。司馬談は滅多に行われない封禅の儀式への出席を心の底から願っていたのであろう。司馬談は見舞いにやって来た遷の手をとって、涙にくれつつ言った。

「今の天子(武帝のこと)は千歳の伝統をうけて、泰山(たいざん)において封禅をおこなわれるというのに、わしは随行できなかった。運命というものだ、運命というものだなあ。わしが死んだら、おまえは必ず太史になれ。太史になって、わしの論じ書きしるしたいと思っていることを忘れるな。(中略)明主賢君および忠臣と節義に死んだ士(ひと)の事跡を、わしは太史でありながら記録にとどめることができず、天下の史文をすててしまうことを、わしはいたく恐れとする。おまえは心にとめておけ」

 遷は頭をたれ、涙を流してこたえた。

「わたくしは不敏ですが、わが先祖より書き伝えられた事のあとを、決して失われぬようにいたします」

 遷は父が亡くなって3年目、38歳で太史令になった。この時、司馬遷は『史記』執筆の決意を述べている。

「亡き父がよく言ったことは、周公が亡くなって500年たって孔子が出た。孔子が亡くなってのち今まで500年になる(実は375年が正解。聖人は一定の間隔を経て現れると言いたいのだ)。よくこれをうけつぎ明らかにして、『易』の伝を正し、『春秋』をついで、『詩』『書』『礼』『楽』の範囲にもとづけることは、おもうに今こそその時であろう。今こそその時であろう、とあった。わたくしはこの仕事を人に譲ろうとは思わない」

 司馬遷の自信と使命感が溢れている。飛ぶ鳥を落とす勢いである。

 そして、42歳で『史記』の執筆を開始する。司馬遷は20歳の時、父に命じられて出かけた旅行を合わせると、合計5回も各地を歩き回っている。当時の中華文明の全範囲と言ってもいいくらい広い。

「わたしは天下の散らばり、すてられた旧き伝聞をもれなくあつめ、王者の跡の興ったところについては、始めをたずね、終わりをみきわめ、盛んなときを見たし、衰えたるをも観察した」

と彼は記している。

 執筆開始5年後、予期せぬ不幸が司馬遷を襲う。

 紀元前99年、部下5000を率いて匈奴に出陣した李陵(りりょう)が匈奴の大軍8万と遭遇し、刀折れ矢つきるまで激戦した。命が助かった者が480人で、李陵は捕虜になってしまった。朝廷では、李陵一族を滅亡すべきという議論もあったが、正義感が強い司馬遷は、ひとり李陵の忠節と勇敢ぶりを賞賛した。この弁明は武帝の憤怒をかい、司馬遷は投獄される。当時死刑を逃れる道はふたつだけ。大金を積むか、それとも宮刑(きゅうけい)を受けて宦官になるかである。富裕でなく、誰からも金銭的援助を得られなかった司馬遷は後者を選ぶしかなかった。

 司馬遷は『史記』のなかでこの事件については詳しく書いていない。

「太史公(自分のこと)は不運にも李陵の事件に会い、幽囚の身となった。そこで、『それは私の罪だ。私の罪だ、身体はそこなわれ用にたたなくなったのは』と深いため息をついたが、家にこもって、深く考えこんだ」

 だが、遷が友人の任安(にんあん)に宛てた手紙で心情を露呈している。

「本来自分は死を恐れない、あの李陵事件の時、死を選ぶのは実に簡単なことだったが、もしあの時死んでしまっては自分の命など九頭の牛の一本の毛の価値すらなかった。死ぬのが難しいのではない、死に対処することが難しかったのだ。自分が死んでしまえば史記を完成させることができない、仕事が途中のまま終わるのを自分はもっとも恥とするところだ。そもそも宦官として生き恥を晒している自分が賢人(任安のこと)を推薦するなど滅相もないことであった。今の自分はただ、『史記』の完成のためだけに生きながらえている身であり、この本を完成させ原本を名山に納め、副本を世に流布させることができたなら、自分は八つ裂きにされようとも構わない」

 この手紙が書かれたのは、宮刑から5年後、『史記』完成の2年前であった。最後の力をふりしぼって、『史記』を書いている司馬遷の姿が眼に浮かぶ。

 司馬遷は紀元前91年、ついに『史記』を完成させる。

「あらゆることの大要をのべ、おとしたことを拾い欠けたことを補って、一家の言を完成する(これは諸学派に盲従しない独自の著述であることの表明)。それは六経(りくけい)の解釈がまちまちであるのを調和し、百家のくさぐさの学説をととのえんとしたものである。この書を名ある山におさめ、副本は都(みやこ)にとどめて、後世の聖人君子の議論を待ちたい。太史公(自分のこと)曰く、わたしは黄帝よりこのかたを、つぎつぎと述べて、太初にいたり、百三十編を書き終えた」

任務を果たし、満足感に浸っているような筆致である。書き始めて13年、司馬遷は55歳になっていた。その偉業達成の5年後、司馬遷はこの世を去った。

 司馬遷は小高い山の南側斜面に建てられた墓に眠っている。雄大な黄河を見下ろしている。見晴らしは素晴らしい。参道はかつて長安へと続く石畳を兼ねている。二千年前の馬車や牛車の車輪の跡が石に残されている。墓は高さ3メートル、周囲18メートルと意外に小さいものであった。これは清の乾隆帝が改築したものであるが、当初のものは地元の庶民が司馬遷を偲ぶために、寄付を集めて建立したという。もっと小さい墓だったに違いない。皇帝の陵墓と比べると、比較にならない。武帝の墓は自然の丘のように巨大である。

 祠に安置された司馬遷の塑像はなぜか髭が生えている。子孫が意図的に生やしたのであろう。宮刑を死ぬほど恥じ入っていた司馬遷を慰めるために髭を生やしたと筆者は想像した。司馬遷は男のなかの男であったのだと後世の人々は誇りに思っていたに違いない。

 『史記』は司馬遷の死後、すぐ世に出た訳ではない。『史記』は皇帝ごとの「本紀」と諸臣を記述した「列伝」、および年表などの書表や文化史の記述、諸侯の事績からなっている。武帝は自分に関連する記述が気に入らず、書き直させたと言われている。司馬遷の子孫は『史記』が武帝の怒りをかい、葬られることを最も恐れていたに違いない。

 ひとまず、司馬遷と同時代の武帝に話題を移そう。

 武帝が中国の歴史に果たした役割は始皇帝よりも大きい。武帝は中国文明の基礎をつくった人物である。前漢の7代皇帝である武帝は高祖劉邦の曾孫(そうそん)に当たる。高祖が漢王朝をひらいて以来、大きな戦争はなくなり、人々は平和を享受していた。この休息の期間に、農作物の収穫も増加し、人口も増え、年貢米は大量に倉庫に保存されていた。漢帝国飛躍の条件が整っていたとき、出現したのが積極策の好きな武帝であった。

 武帝は諸侯王の力を削ぎ中央集権を強化するために、諸侯王の領土を細分化した。儒教を官学として認定し、儒教の国教化の基礎を築いた。武帝の時代には儒教は強大ではなかったが、官吏任用試験に儒教の教養を取り入れるなどで、儒教のイデオロギー化が次第に強化されていった。武帝以降、中国の思想は儒教に単純化されていくのである。

 武帝は外征にも積極的に取組んだ。宿敵匈奴には反抗作戦を展開した。長城は匈奴の侵入を防ぐのが目的であったが、長城を超えて匈奴を討つようになった。中原の歴史上初めてのことであった。長安の人々は出陣する将軍らに拍手喝采を送った。武帝は衛青(えいせい)、霍兵病(かくきょへい)の両将軍を登用して、いくどとなく匈奴を打ち破り、西域を漢の影響下に入れた。

 また、武帝は張騫(ちょうけん)を大月氏に派遣して、北西部の情勢を知ることができ、対匈奴戦に大きく影響した。さらに、李広利(りこうり)に命じて、大宛(たいえん、中央アジアのフェルガナ地方)を征服し、名馬の汗血馬(かんけつば)を獲得した。ベトナムに遠征し、群県に組み入れ、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡など四郡を朝鮮においた。これにより、前漢の版図は最大に広がった。武帝は領土膨張主義の基礎を築いたのだ。武帝は死後つけられた名前であるが、彼の業績を端的に物語っている。

 再び、司馬遷に戻る。

 彼が命を賭けて『史記』を完成させた理由は何であろうか。

“天道、是か非か”が彼の歴史に対する疑問の出発点である。つまり、正しいものごとを増長し、悪いものごとに罰をくだす天の道とは、あるのだろうか、ないのだろうか。もっと分かりやすく言うと、“正義は滅び、不義が栄える”のは何故か。

 『史記』列伝の書き出しの「伯夷(はくい)・叔斉(しょくせい)列伝」において、司馬遷は以下のように語っている。

「世の中では悪行の限りを尽くした人間が天寿を全うし、行いに気をつけて、正しいことを正しいと言う人物が突然不幸な目に遭って死んでしまうことが数限りない。一体全体、天が示す正しい道などこの世にあるのだろうか。いやない。善行を行った人物で歴史に残らなかった人物は数限りない、これらの人物は孔子のような人物に紹介されてやっと後世に名前を遺してもらえるに過ぎない」

 司馬遷が歴史を書き遺そうとした意図が明確になっている。義を抱いていながら無念にも死んでいった人々の代弁者として、司馬遷は『史記』を書いたのである。実際、『史記』列伝には様々な人物が登場する。当時卑しいとされていた商人や遊侠(ゆうきょう)の人、さらには暗殺者である刺客まで生き生きと表現されている。

 司馬遷は義に従って李陵を擁護し、それが原因で武帝に宮刑に処せられてしまう。さらに、皇帝の歴史を書いた武帝本紀も書き直されてしまう。彼は武帝を批判したことは一言も書いていないが、武帝に対してライバル意識を抱いていたと筆者は考えている。ただし、それを武帝に気づかれないように、そして後世の人々が気づくような書き方をしている。

 武帝は皇帝の歴史こそ正式な歴史と信じていたに違いない。「列伝」などは歴史の端に過ぎないと考え、真剣に読まなかったと考えられる。司馬遷はそこまで見通していたのだ。後世の人々が熱心に読むのは「列伝」であって、「本紀」ではないと、司馬遷は考えていて、実際そうなった。すると、司馬遷が最も伝えたかったことは「列伝」の前の方に書かれているはずである。「列伝」の最初は「伯夷(はくい)・叔斉(しょくせい)列伝」で、その次の項目「管仲(かんちゅう)・晏子(あんし)列伝」である。これらの二つの列伝に登場するのは、伯夷、叔斉、管仲、晏子の四人である。詳しくは書かないが、彼らには共通点がある。彼らは全て君子に諫言(かんげん)したが、それを理由に殺されなかった歴史上の優れた臣下(しんか)である。

 司馬遷は彼らを非常に尊敬していたし、彼らと同様に君子(この場合、武帝)に諫言したのであるが、武帝は死より恐ろしい宮刑で司馬遷を苦しめたのである。司馬遷の武帝に対する抗議と復讐がここに表現されているのであろう。司馬遷は後世の歴史家は自分をより高く評価すると信じて、この世を去ったのに違いない。司馬遷の墓は武帝のそれに比べようもなく小さなものである。しかし、彼の歴史観は中国の歴史に燦然と輝き、後世に多大な影響を及ぼしている。司馬遷は正に“歴史の父”である。

参考文献:

  1. 『孔子伝』白川静(中公文庫)
  2. 『史記』一、五 司馬遷(岩波文庫)