【09-014】地球・人類・アジア、そして「中国」
斎藤道彦(中央大学経済学部 教授) 2009年9月3日
現代科学の知見によれば、地球は太陽系のなかで約46億年前に形成された。この地球に生命・生物が誕生したのは、早ければ約43億年前、遅くとも38億年前のこととされる。私は高校生だった1950年代に、深海でコアセルヴェート液滴が形成され、生命が誕生したとするソ連のオパーリンの『生命の起源』を読んだことがあるが、現在では隕石の衝突によって海中で生命が誕生したという説が有力である。40億年前には、天体の衝突により、地表は火の海に包まれたという。しかし、生命は生きながらえた。 生命は、火の試練を乗り越えたのであった。
約3億7000万年前に陸上に植物が発生し、3億6000万年前に魚の一部が陸上に上がったという。その後、陸上で生物は複雑に進化してゆき、猿と区別される人間――「猿人」(Ape man)が発生したのは、現在では約700万年前のこととされる。1990年代には、エチオピアに約440万年前にラミダス猿人が存在していたことがわかった。アフリカのオルドヴァイ渓谷で発見されたアウストラロピテクス(Australopithecus「南方の猿」の意、1924年発見)は、約400万年前に出現したと見られている。
その後、人類は進化していった。そのうち、タンザニアで1964年に発見されたホモ=ハビリス(Homo habilis)は240万年前から170万年前まで存在していたとされ、彼らは荒削りの礫石器を用いて野生の動植物を狩猟・採集していたものもいたと見られている。旧石器時代の始まりである。
次に地質年代で言う更新世(洪積世、約200万年前または170万年前から約1万年前まで)になると、地表には4回氷河期が訪れた。生物・人類は氷の試練を乗り越えて来たのだった。約180万年前には「原人」(Homo erectus)が現れ、25万年前までは存在していたとされてきたが、2004年にインドネシアのフローレス島で発見されたホモ=フローレシエンシス(Homo floresiensis)は、原人ないしホモ=ハビリスの子孫で1万7千年前まで生存していたと見られており、これが事実とすると、現生人類とも共存していたことになり、これまでの常識が覆される。1927~1937年に中国河北省房山県周口店で発見された77万年前の北京原人(Sinanthropus pekinensis)、1891~1894年にジャワ中部トリニール河畔で頭蓋骨などが発見された70万年前のジャワ原人(Pithecanthropus erectus)などは、洞穴に住み、打製石器を使って狩猟・採集を行ない、火を使用して肉を焼き、言語も用いていたと見られている。1907年にドイツで発見された下顎骨は、約150万年前のハイデルベルク人(Homo heidelbergensis)のものと推定されたが、これについては原人・旧人・新人などの諸説がある。
「原人」より進化した「旧人」(Palaeoanthropic man)が出現したのは、これまで約20万年前とされてきたが、最近(2009年)では約30万年前とさかのぼっている。ホモ・サピエンス(Homo sapiens、「知恵のある人」の意)の登場である。1856年にドイツで発見されたネアンデルタール人(Homo sapiens neanderthalensis)がその代表で、洞穴に住み、火や毛皮で寒さをしのぎ、剥片石器を用い、死者を埋葬する習慣があった。彼らは、ヨーロッパ・西アジアで発見されている。
われわれ「新人」、すなわち「現生人類」(Homo sapiens sapiens)は、やはりこれまで約3~4万年前に出現したと見られていたが、最近(2009年)では20万年前とさかのぼっている。3万年前のフランスのクロマニョン人(1868年発見)・イタリアのグリマルディ人・中国地域の周口店上洞人・日本の浜北人(1961年、静岡県で発見)などは、細石器・骨角器を用いて狩猟・採集・漁撈を行ない、洞窟画・岩絵などを残しており、複雑な言語を使用した。彼らは、石刃に柄を取りつけた鎌やといだ磨製石器をつくった。新石器時代の開始である。2001年に発見されたフランスのショベ洞穴絵画は約3万年前のものであり、1940年に発見されたフランスのラスコー洞穴の絵画は約2万年前のもの、1870年代に発見されたスペインのアルタミラ洞穴絵画は約1万年前のものと見られている。
現生人類が猿や他の動物や魚と違うところは、動物を狩猟し、魚を捕獲し、植物を採集することなどによって食料を得るだけではなく、動物・魚を飼育・養殖したり、作物を栽培したりして、食料を人為的・安定的に確保しようとし、火・道具・機械などを製造・使用し、さらには文化・芸術を生み出してきたことであろう。約1万年前~8000年前には各地で大麦・小麦・稲・豆・イモ・トウモロコシ・バナナなどを栽培したり、ヤギ・牛・羊・豚などの家畜を飼育したりして食料の生産を開始していた。馬の飼育は、約6000年前だったとされてきたが、2009年の発表によれば、馬の毛についての遺伝子の分析から約5000年前頃始まったと1000年ほど時間がくだった。約前7000年~前5500年頃には、エジプト・メソポタミアでは灌漑農業が開始され、農耕・牧畜時代に入った。今日、私たちは、世界各地の文学・演劇・絵画・音楽・建築、ヨーロッパのオペラ・ロシアのバレー・スペインのフラメンコ・中国の立ち回り・アメリカのジャズ・日本の太鼓などを鑑賞している。現生人類は、21世紀初頭には、63億人に達した。
約30万年前に発生したとされるネアンデルタール人はこれまで約2万8000年前に滅びたとされてきたが、2009年の説では3万5000年前とのことである。現生人類と共存していた時期があるので、ネアンデルタール人と現生人類の交配・交雑があり、現生人類にもネアンデルタール人のDNAが伝えられている可能性があるという説がこれまで検討されてきた。しかし、 2009年にはそれはほぼ否定された。3万5000年前には、彼らはヨーロッパには1万人程度しか存在していなかったという。
中国の歴史学者・顧頡剛(1893~1980)は、現生人類はパミール高原で発生したと述べている(中国文化大革命直前の1966年1月口述『中国史学入門』)。しかし現在では、発掘された化石・人骨などの研究から現生人類はアフリカ大陸で発生し、約5万年前に世界各地に広がっていったという見方が有力である。現生人類の出アフリカである。
顧頡剛は、「母系社会は約数十万年の長きにわたった」と言い、現生人類とそれ以前の異なる類との区別をしていないが、それは顧頡剛に限らない。しかし、ここ十数年の人類学・考古学など科学の進歩は次々にわれわれの認識を塗り替えているのである。
天体の衝突や何度かにわたる氷河期、プレートの移動などを経て、地球表面の地形と海岸線はいまから約1万年前にほぼ現在の形になったと推定されている。 生命・生物は、氷の試練も乗り越えたのである。1950年代に打ち上げられたソ連の人工衛星から地球をはじめて見た宇宙飛行士ガガーリンは、「地球は青かった」とメッセージを送ってきた。現在、地球の表面の70%は海なので「地球」は「水球」であるとも言われている。陸地はユーラシア・アフリカ・南北アメリカ・オーストラリアの5大陸と数々の島々からなり、ユーラシア大陸はさらにヨーロッパとアジアに区分される。
さて、「アジア」とは、どこからどこまでなのだろうか。「アジア」はアッシリア語のassu「日の出」から来ていると言われ、東方の「日出ずる土地」という意味だったと見られる。ヨーロッパでは、「オリエント」(東洋)という用語が用いられた。これも、ラテン語で「日の昇るところ」という意味で「東方地域」というほどの観念であろうが、その範囲は古代エジプトおよび西南アジア地域であり、さらにはおそらくせいぜいインド止まりであった。
現在、もっとも広く理解されている「アジア」とは、アフリカからハワイ諸島までを含むが、一般に用いられている「アジア」という観念はヨーロッパ以東の地域ということである。それは、ユーラシア大陸の東半部、すなわちウラル山脈から東であり、アラビア半島を含み、その東の果ては日本・フィリピン・インドネシアといった島々であって、ミクロネシア・メラネシア・ポリネシアなどは含んでいないと思われる。
ヨーロッパからではなくアジアの地からアジアを見ると、そこには多数の民族・部族・氏族が存在し、使用されている言語もシナ・チベット語族、ウラル語族、アルタイ語族、インド・ヨーロッパ語族、インドネシア語族、セム語族等々複雑多岐であり、文化・宗教・歴史は大きく分けても西南アジア・南アジア・中央アジア・東アジアなどの文化圏があり、そのほか北部アジアもあり、あまりにも多様なので「アジア」を統一的にとらえることは実は大変困難なのである。とはいえ、一国史ではなくアジア史という視座で観察すると、相互交流・相互交渉が古くから行なわれていたことがわかる。
現生人類の文明史は、大局的に見ると、最初、西南アジアで発生し、その後、南アジア・東アジアでも高い文明を形成していったが、中世ルネッサンスをきっかけとしてそれまではアジアに遅れをとっていたヨーロッパが先頭に向かって走り出し、近代に至って、「遅れたアジア」というイメージが定着したかのようである。
一口にアジアと言っても言語・文化・民族などが複雑で、ばらばらに見えるアジアがある種の一体感を漠然と共有するようになるのは、ヨーロッパ帝国主義のアジア進出が全面化する19世紀以降においてであっただろう。そして20世紀末には、ヨーロッパがEU(欧州連盟)を結成することに成功したので、アジアでも共同体がつくれないかという動きが起こり(東アジア共同体(注))、その中で「アジア」のとらえ直しが改めて意識されてきているのだと思われる。そしてそれに止まらず、1990年代以降のアジアの経済発展は、新たにアジアを見直す積極的な動機となっている。
今日、「アジア史」を論ずる第1の課題は、従来の「東洋史」であれ「アジア史」であれ、近現代史が薄いという状況を克服することであるが、これはかなり補足が可能である。第2の課題は、これまでの中国近現代史は多くの場合、中国共産党史観の枠の中にあったという問題点を乗り越えるという課題であるが、これは1980年代以降の研究の蓄積があり、かなりの程度実現可能である。
アジアという広い範囲を対象とする場合、各地域の言語を理解し、それぞれの言語で記録された文書に目を通すことが絶対に必要なのだが、言語の種類が多くて、そのすべてに通じているということは誰にも期待しがたい。「アジア史」とは、今日なお困難な課題なのである。それゆえ、いわゆる「アジア史」と「中国近現代史」は今なお分裂状態が続いている。東洋史と言いアジア史と言っても、文献史料は中国語のものが圧倒的に多いせいもあり、「中国史」という視点の枠をこえることは、今日なおきわめてむずかしい。また、歴史を見るときには、資料の信憑性の吟味と資料の欠落への目配りが大切である。
日本には、「西洋」・「西洋史」に対して「東洋」・「東洋史」という概念があるが、それは明治期につくられたものであった。文部省は、 1894年に新設科目「東洋史」の教授要項を発表した。「東洋」・「東洋史」は今日の日本の「アジア」・「アジア史」と同義である。しかし、中国には「東洋史」という概念はなく、「東洋」とは日本のことであって、「東洋車」とは人力車のことである。東とか西というのは、そもそも相対概念にすぎないのだから、当然のことである。
日本で言う「東洋史」が中国史中心であったのは、日本の地理的位置から言って当然だったという面もあった。文部省は、「大東亜戦争」中の1942年に『大東亜史概説』を企画し、宮崎市定を含む編纂者たちは原稿を用意したが、1945年の敗戦により日の目を見ることはなかった。宮崎は、終戦直後の1947年に『大東亜史概説』の担当部分の続偏を書き、『アジア史概説』を出版した。これは、宮崎が中国史に止まらないアジア史を確立しようとした意欲作であった。彼は、「アジア史とは何か」という問いをたて、その地理的範囲を語り、広い視野に立って西アジア・インドなどをアジア史の中に位置づけようとしたのだが、「アジア史研究はヨーロッパ史研究にくらべてはるかに立ち遅れている」と指摘するに止まっていた。
さて、「中国」とは何だろうか。「中国」という言葉は、古代から使われているが、国名として使用されるようになるのは20世紀の中華民国以降のわずか100年ほどの歴史しかない。20~21世紀の国家概念としての「中国」と前近代における地域(地理)概念としての「中国」を区別することは必要なのであるが、多くの著書・論文はこれらを混同している。前近代について「中国」というとき、それらはすべて地域(地理)概念なのであるから、できるだけ「中国地域」という表現をとることが望ましい。では、それはどこなのかというと、ファジーで、時代によって異なってくる。すなわち、殷王朝の統治地域から周代、秦代、漢代を経て、清朝版図にまで拡大し、その清朝版図を20~21世紀国家としての「中国」が引き継ぎ、その範囲に居住する諸民族をすべて「中国人」としようとしているところに、今日の「中国」の民族問題発生の原因があるわけである。
※注 「東アジア共同体」問題については、斎藤道彦編著『日中関係史の諸問題』中央大学出版部2009年、を参照されたい。
斎藤道彦:
中央大学経済学部 教授
1943年10月 東京にて出生。
1972年3月 東京大学大学院人文科学研究科中国語中国文学専攻博士課程単位取得退学
1972年4月~1975年3月 桜美林大学文学部専任講師
1975年4月~1976年3月 中央大学経済学部専任講師
1976年4月~1982年3月 中央大学経済学部助教授
1982年4月~現在 中央大学経済学部教授
1985年4月~1987年3月 在外研究(中国 南開大学)
主な著述:
- 『五・四運動の虚像と実像』(単著)中央大学出版部 1992年
- 中央大学人文科学研究所編『民国前期中国と東アジアの変動』(共著)中央大学出版部 1999年
- 『中国の政治・行政システムと地方「自治」』(単著)東京都議会議会局 1999年7月
- 中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』(共著) 中央大学出版部 2005年
- 斎藤道彦編著『日中関係史の諸問題』(共著)中央大学出版部 2009年