【20-06】幻の残留日誌─中国に渡った1943年から帰国するまでの10年間─(その6)
2020年6月26日
橋村 武司(はしむら たけし)
龍騰グループ 代表、天水会 会長、NPO法人 科学技術者フォーラム 元理事
略歴
1932年5月生、長崎県出身 1953年 中国より引揚げる
1960年3月 中央大学工学部電気工学科卒
大学卒業後、シチズン時計(株)に入社、水晶時計、事務機器、健康機器の研究開発を歴任
1984年 ㈱アマダに入社、レーザ加工機の研究・開発、中国進出計画に参画
1994年 タカネ電機(株)深圳地区で委託加工工場を立上げ
1995~1997年 JODC専門家(通産省補助):北京清華大学精儀系でセンサ技術を指導、国内では特許流通アソシエイト:地域産業振興を促進
2000~2009年 北京八達嶺鎮で防風固沙の植樹活動を北京地理学会と共同活動、中国技協節能建築技術工作委員会 外事顧問として、省エネ・環境問題に参画
現在、龍騰グループで日中人材交流、技術移転、文化交流で活動中
論文 「計測用時計について」(日本時計学会誌、No. 72、1974年(共著))
『センサ技術調査報告』(日本ロボット学会、共編)
(その5 よりつづき)
12、天水鉄中
天水に行って、私もようやく学校に行ける身になりました。
私は友人の浦塘(うらとも)君のすすめで、中国人の鉄道関係者の子弟が通っている天水鉄路職工子弟中学校の初級2年に編入させてもらいました。この学校は、その名のとおり、鉄道従業員の子弟のために作られた学校で、初級中学校と高級中学校(高校)の併設校でした。
学校は、天水の城内から歩いて20分足らずのところにありました。ここに当時の学内の地図がありますが、ご覧いただけば分かるように、教室が一つ一つみな独立していて、教室の周りには樹木が植わっていました。そして、教室の両端には先生が常時座っておられ、なにか疑問があれば、すぐ先生に尋ねることができるようになっていましたから、それは恵まれた環境でした。
私は18歳にして中学2年生のクラスに入ったわけです。友人の浦塘君はハルピンで中国人の学校に行ってましたから、中国語がかなり流暢に話せましたが、私はまったく初めてです。それで、教室では私は一番後ろの浦塘君の隣に座って、彼の本を見ながら講義を聴きました。初めのうちは、先生がどこをしゃべっているのか全然わかりません。
しかし、一月もすると、大体どの辺りのことを話しているか分かるようになってきました。半年もたつと、もう喧嘩ができるようになりました。実際、それぐらいにやらないと、生存競争も厳しいですからね。必死でした。
半年あまり経ったところで、私は飛び級試験を受けさせてもらいました。なんとか中国語も解るようになってきたので、初級の3年を飛ばして高級中学を受けたいと申し出たのです。幸い試験を受けたら通ったものですから、いきなり高校に入ることになりました。そこで1年半学びましたから、初級の1年と併せて、2年半中国人の学校に通ったことになります。
初めのうちは言葉を覚えるのに必死でしたね。最初は寄宿舎に入らないで、街なかの旅館から毎日通いましたが、その頃は電気がありませんから、家に帰ると蝋燭・ランプをつけて夜中まで勉強しました。日本人の仲間もみんなよくやっていました。それぐらいやったから、なんとか付いていけたのではないでしょうか。また、新しくできた中国人の友人たちも、日本人に対する物珍しさもあったのでしょう、付きっ切りで教えてくれました。
図:天水鉄中の校内 配置図(1952年)
私にとって、中国語を覚える上で一番有効であったのは、書いて覚えたことだと思っています。本なんかあまりありませんから、稀少なものをみんなで廻し読みするのですが、自分に番が回ってくると、本を丸ごと書き写しました。なかでも特に役に立ったのは、慣用句集のようなものを書き写して覚えたことです。これで、本を読んでも大体何が書いてあるか解るようになりました。
教室では二人ずつ机を並べて講義を受けましたが、私の隣は陳光浦さんという女性でした。歳は私と同じだということでしたが、老成していて頭も切れ、班長をしていました。彼女は文系が得意でしたが、数学は苦手でした。私はちょうど反対でしたから、お互い助け合うことができました。彼女はその後西安の西北工学院に進みましたが、卒業後の分配先が青海省の西寧にある西寧汽車公司というところになりました。生活環境の厳しいところですから、彼女にとってはたいへんであったと思います。近年会いますと、そうした苦労が滲んでいるような印象を受けます。結局、その会社は車を生産する場というよりも、むしろ「労改」(労働改造)の場に使われていたようです。
写真:天水時代の仲間(1950年)。後列左より橋村、浦塘康雄、前列左より外崎則次、小荒井迪雄
しばらくして私は寄宿舎に入りましたが、これは勉強だけではなく生活そのものが彼らと一緒ですから、中国語を進歩させるうえでは又とない環境でした。
私が今でも感心しているのは、「化学」の勉強に関して、実験室が常にオープンになっていて、いつ行っても実験できることでした。先生もおられて質問すれば教えてくださいましたが、原則生徒が自由に実験できたことです。後になって聞いたことですが、この化学の先生は、その分野において中国でも有名な田海雲先生であったそうです。
学業成績で私は一つだけ百点満点の百点をもらったことがありました。それは製図でしたが、これには理由がありました。私の家にはコンパスや定規等の製図の道具がたくさんあったのです。私はもっぱらそのせいだと思っていますが、百点をもらったのは、この一つだけでした。
全校生徒300余名の学校でしたが、そのうち日本人は20名ぐらいでした。私たち日本人は自分たちの主張を容れてもらうために「日籍班」を作り、浦塘君を会長に選出し、私が書記になりました。ところが、その後浦塘君が肺炎に罹って休学することになってしまい、私が年長ということで、会長を引き受けることになりました。浦塘君が学生諸君の面倒をよくみてくれていたので、後任の私にとっては荷の重い日々でした。
日本人は中国人の生徒たちからいつも注視されていますから、われわれは僭越な言い方をすれば"日本人の代表"といった意識で行動しました。特に私は年を食っていますから、そういう意識をもたざるを得なかったですが、そのため、変なことはできないという自意識過剰になっていた面がありましたね。
一方、学校側も我々日本人に配慮してくれていろいろやってくれたと思います。生徒会の一つに文芸科なるものがありましたが、高1のとき私は日籍班専任の文芸幹事に推薦されました。日籍班の得意な種目はロシア舞踊、ヨーロッパ舞踊とか日本語の歌で、カチューシャやドナウ河の小波のメロディーに合わせて踊るのです。珍しかったこともあって学校で結構もてはやされ、あちこち引っ張りだこでした。
文芸幹事を1年やったあと、高2では学習幹事をさせられましたが、これは大変でした。クラスごとに討論の課題を与え、そこから上がってきたレポートをまとめて校長に報告するというのが幹事の役目です。当時は朝鮮戦争の真最中ですから、「抗美援朝」運動が盛んでしたが、『人民日報』を見ると毎日のようにその話が載っていました。私たちの学校にも、朝鮮戦争で活躍した朝鮮人の英雄がやって来たことがありました。盛大な歓迎会が催され、日籍班にも出演の要請があって私たちはオールスターキャストで歌や踊りを披露しました。
学習幹事であった私は、新聞からしばしば朝鮮戦争に関係した討議課題を選んで、それを各クラスに下ろしていました。しかし、あまり変なテーマを選べませんから、一生懸命新聞を読み、レポートに目を通しました。このことは、私にとっては大変勉強になりましたが、学校としては、私の力不足を承知のうえで、学習幹事の大役を割り当てた、つまりそういう機会を日本人に与えたというのが実情であったのではないかと思います。
私が学校に行きだして1年ぐらい経ったころ、それまで20名ぐらいであった日本人生徒が、一挙に60名ぐらいに増えたことがありました。天水に行ったとき、日本人小学校はすぐにできましたが、日本人中学校はできませんでした。それで、日本人小学校を卒業した生徒がどっと天水鉄中に入ってきたのです。彼らはまだ子供ですし中国語を話しませんから、同じクラスに集められたようで、ほとんどすべてが日本人で中国人はまばらにいるといったクラスができていました。
ところが、この頃になると、日本人の中学を作ろうという話が出てきて、鄭州に日本人の中学ができました。それで、小学校から天水鉄中に来た生徒たちは一斉に鄭州のほうへ移っていきましたから、彼らは数ヶ月いただけで、また元の状態に戻りました。
写真:褒美の日記帳(1952年)
私はスポーツが大好きですが、主にやったのは陸上の中距離でした。毎日練習をしました。中国は時差がないから、奥地のほうは朝起きると真っ暗なのですね。
その暗い中を毎朝30分ぐらい走っていました。52年の10月に鉄中で選手選抜の競技会が開かれましたが、これは上海で開催される鉄路全国大会の予選会でした。私は1,500メートル一本にしぼって参加しました。その日のいでたちは、母の手縫いの開襟シャツに臙脂色のパンツ、白足袋を履き、太ももやふくらはぎにはヨードチンキをたっぷり擦り込んで臨みました。結果は第1位でゴールし、ご褒美に記念のバッジと紅星日記帳をもらいました。
これで当然上海の全国大会に参加できるものと胸を膨らませていたところ、ある日日本人は参加できないと連絡が入りました。この時ほど日本人であることの不運を思ったことはないですね。私の代わりに、早朝ランニングのライバルであった張天真君が代表になりましたが、全国大会における彼の成績はあまり芳しくありませんでした。私が参加しても、結果は同じであったろうと思います。やはり、全国には通用しなかったようです。
(その7 へつづく)
本稿は橋村武司『幻の残留日誌(梦幻的残留日记)─中国に渡った1943年から帰国するまでの10年間─』(2019年、非売品)を著者の許諾を得て転載したものである。
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