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【20-10】幻の残留日誌─中国に渡った1943年から帰国するまでの10年間─(その8)

2020年12月24日

橋村武司

橋村 武司(はしむら たけし)
龍騰グループ 代表、天水会 会長、NPO法人 科学技術者フォーラム 元理事

略歴

1932年5月生、長崎県出身 1953年 中国より引揚げる
1960年3月 中央大学工学部電気工学科卒
大学卒業後、シチズン時計(株)に入社、水晶時計、事務機器、健康機器の研究開発を歴任
1984年 ㈱アマダに入社、レーザ加工機の研究・開発、中国進出計画に参画
1994年 タカネ電機(株)深圳地区で委託加工工場を立上げ
1995~1997年 JODC専門家(通産省補助):北京清華大学精儀系でセンサ技術を指導、国内では特許流通アソシエイト:地域産業振興を促進
2000~2009年 北京八達嶺鎮で防風固沙の植樹活動を北京地理学会と共同活動、中国技協節能建築技術工作委員会 外事顧問として、省エネ・環境問題に参画
現在、龍騰グループで日中人材交流、技術移転、文化交流で活動中
論文 「計測用時計について」(日本時計学会誌、No. 72、1974年(共著))
『センサ技術調査報告』(日本ロボット学会、共編)

その7 よりつづき)

14、帰国

 1953年の春休みを、私は蘭州の宿舎で過ごしていましたが、そこで帰国が本決まりになったことを知りました。

 天水を出発したのは、3月13日のことです。駅には同学たちや鉄道関係者が詰め掛けて盛大な歓送をしてくれました。私が親しくしていた程文英君は都合があって来られませんでしたが、数年後手紙と写真を日本まで送ってくれ、消息が得られました。彼には、1987年に大連で再会することができました。

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写真:1987年、大連での再会。左、程文英氏。

 私たちは、西安、鄭州、徐州を経て、そこから南下して南京を経て上海へ出ました。上海には1週間ほど滞在しましたが、たいそう歓待されました。私たちがこの年の大量帰国の第一陣であったようですが、日本からも社会党の代議士などが出迎えに上海まで来ていました。

 上海でもっとも驚いたのは、デパートに行ったときでした。バックグラウンド・ミュージックがかかっていて、エスカレーターが動いているのです。カルチャーショックを受けましたね。また、若い女性が旗袍(チーパオ、チャイナドレス)を着て闊歩しているのには度肝を抜かれました。共産中国が成立してまだ4年しか経っていませんし、私たちは人民服しか見てきませんでしたから、よくこんなものが許されているのかと本当にびっくりしました。

 3月20日、私たちは迎えにきた高砂丸に乗船して舞鶴に向いました。玄界灘を過ぎて日本海沿いに航行中、鳥取のあたりでしょうか、松並木が見えたときは感動しました。「ああ、やっと日本に帰ってきた!」という実感がわきましたね。

 舞鶴に着いてもすぐには上陸できず、検疫のために少し留められましたが、荷物等の持ち物の検査は何もなく、まったくのフリーパスでした。上海を出航するときにも、中国側の荷物の検査はまったくありませんでした。

 日本の土を踏んだときの私の気持ちは、戦争が終わって8年間も――少年から青年にかけての8年間は長いです――ずーっと中国に残って日本人として生きてきて、半分嬉しくもあり半分悲しくもあるというのが正直なところでした。

 舞鶴には佐賀の祖父がのぼり旗を持って迎えに来てくれていました。

15、まとめ

 光陰矢の如し。天水での紅顔の美少年も喜寿を迎える。よくぞここまでとの思い一入。

 人はみな数奇な運命に翻弄されているように思う。一つ一つの節目があり今の自分がある。偶然といえば言えなくもないが、必然も潜んでいるように思う――そうなったのは自分の意志にあったのではないかと。喜寿を迎えられるなんて思いもよらなかった!

 なぜあの時に・・・との思いもあるが、一方で「生かされているのか?」との思いがいつも頭を過ぎる。そこにはワケがあるのではないか。果たせない使命の重圧が肩に掛かる。

 私の「残留日誌」は今は存在しない。中国から帰国する時、当局からの指示に従い、天水甘谷旅館の庭先で、涙しながら燃してしまったからである。今を去る56年前のことである。

 1946年、引揚げを目前に強制留用になり、身の不運・憤懣を自作インキで古紙の裏に綴った。帰国するまでの7年間そこに書き記したことは、今も脳裏に鮮明に焼き付いている。貼り付けた資料のなかには恋文まがいの手紙もあり、青春の断片の一つ一つが懐かしく思い出される。

 当局の指示は、(1)家族以外の集合写真、(2)自筆の記録(政治的な)、(3)共産主義に関する出版物、の持ち出し禁止。理由は"帰国後、日本官憲に迫害される材料になる"と説明された。しかし、実際には上海の通関でも日本の舞鶴の通関でも簡素なチェックのみでほとんどフリーパスに近かった。それだけに、今は幻となってしまった残留日誌が惜しまれてならない。

 祖父・卯作は、戦時中"今(昭和18年)は満州の方が安全"と判断したが、それは外れた!

 たった一人の男の孫を手放すには相当の決心が必要だったと思われる。対馬には私の山があったそうだ。しかし、戦後の土地開放で、不在地主として処分されたと聞いた。祖父の無念さは察して余りある。溺愛と厳格なしつけ、武士道教育で私を鍛えてくれた。引揚げの地舞鶴に老骨を押し一人のぼり旗を掲げて迎えに来てくれた心意気に感動した。

 母の"再婚"はショックだった。「俺は母を守るために残ったのに・・・。不貞!」人生の機微を知らなかった。戦後の中国はひとしく貧しかった。食べるために仕事をした。最初は大工の見習い――道具の大切さを教わった。紡績工場――中国側と作業時間短縮の競争に明け暮れた。カマス織り――請負仕事、自活の知恵を知る。第四軍靴工場――布靴を縫う麻縄を綯う、機械を改良し(私の実用新案第一号)生産量を2倍にして労働模範に選ばれた。鶴崗炭鉱――斜坑2,000メートル、先はソ連領、人生道場、生きる知恵と自信がつく。――これらを転々とした。余暇に独学で、代数、幾何、三角、物理、化学を勉強した。食物にも飢えたが、学問にも飢えた。

 戦中、ハルピンの旅順工大の先輩の家で、電灯線をアンテナに鉱石ラジオで人間の声を聞き、驚嘆・感動した。戦後、ラジオを修理する人とモーターを修理できる人は神様のように思えた。周りでは、ばたばたと元官僚、高官の方々が亡くなって行くのに・・・。

 私の進路はここで決まった。手に職を付け、逞しく生きる術を学ぶことを。そして、身体の大切さを改めて知った。「みかんが食べたい」と言い、「お母さんに会いたい」と呟きながら逝く友に何もしてやれなかった無念さ。地獄絵だったが大きな教訓を得た。

 14歳から17歳、身長は年々数センチも伸び、たくましく成長した。ズボンの裾を継ぎ足す母には、苦しみもあったと思うが、喜びの眼差しがあった。一面、一人前の男としての自負に満ちた自分があった。特に、鶴崗炭鉱から帰ってからは怖いものはなかった。「太陽の下でなら何でもできる」――自分の腕一本で稼いで食べて行ける自信がつき、今日まで実践し生きてきた。

 天水を去って56年。一昨夜、第九次天水訪問の旅を終え帰国した(団員23名)。天水の変化は目を見張るばかりである。藉河の一部が堰き止められ湖に、そして高層ビルが林立している。かつての城壁は跡形もない。しかし、故郷天水はいつ来ても懐かしい!

 南谷正直元会長の分骨を供養した後、桜花園で花見を楽しんだ。それを現地の人たちが盛り上げてくれて、中日友好交流の輪が広がった。今回は特に桜の木を植樹した。数年後は見事な花を咲かせるであろう。

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写真:桜の苗を植える橋村氏。「天水晩報」 2009年4月14日号

 1983年、天水会は第一次天水訪問を挙行した。後半の第六次からは、私も生業から開放され、連続参加している。第六次は1999年9月、中日友好桜花園の開園記念式典が盛大に挙行された後、ウルムチで開校55周年記念式典に参加した(開校50周年の時は現役だったため、一夜だけのトンボ帰り)。60周年記念式典は最も盛大で、校内に「東瀛(日本)の間」を設けていただき、私たちも当時の思い出の品々を寄贈展示した。後輩のためには図書を寄贈した。奇しくも今年は65周年記念、ウルムチから代表して周金富同学が、腰痛をおして遠路天水まで来てくれた。不容易(生やさしいことではない)!

 熱情である。蘭州からの同窓生を交え、一夜を通し旧交を温めた。

 翌日、旧居を尋ね歩いた結果、二人の同学の旧居が壊される寸前で見つかった。快哉!

 一方北門近くの甘谷旅館(私の旧居)は跡形もなくビルに変身していた。残念!

 裏庭の駱駝の溜まり場はバスターミナルに変身していた。ランプの下で名産の落花生を食べ過ぎては鼻血を流しながら読書に耽った小部屋はもうない。穴居生活をした石馬坪の柵を夜な夜な越え、狼が出没するというブッシュを抜け、はだしで藉河を渡り、南門から入城して元宵ダンゴを頬張り、黄酒を飲み、半地下の薄暗い蕎麦屋の美味に酔いしれた店は、もうない!

 過去は想い出に、現実は実在する。その後、学生寮に入り勉学と生活を共にし、多くの友を得た。頭をつき合わせて寝た郭紹礼君(中国科学院)は北京プロジェクトの生みの親である。

 今回も北京で数名の同学が集まり歓迎宴を開いてくれた。昔の悪童振りが髣髴とする者、目立たなかったが一流の学者になった者、様々であるがそれぞれ活躍している。残念なのは出席できなかった同学たち。そこに寄る年波を感ずる。60年来の交流、私たちの絆はいっそう強くなったように思う。

 56年前、日本に帰国したとき先ず驚いたのは環境と考え方の違い。大の大人が昼間からパチンコを楽しんでいる。これが思想・行動の自由なのか。編入試験を受け、高校2年生からやり直し。人民服での登校は随分目立ったようだ。最も苦しんだのは英語、勉強時間の半分を費やしたが付いていくのがやっと。逆に数学と理科は楽なもの。優等生で卒業した。然るべき大学を受験したが見事不合格。一念発起、上京して大学図書館に臨時職員の職を得、同大学工学部に入学した。昼間勉強し、夜働く理想の環境に恵まれた。

 大学卒業後、2つの会社の技術研究所で研究・開発業務に従事し、新製品を世に送り出した。専門はメカトロニクス(電子と機械の境界技術)で、センサーと制御(時計、工作機械、ロボットなど)。55歳と60歳と2度の定年。余熱を燃やしていたがリストラの波で有無を言わせずクビ。60歳過ぎでは、どこの会社も面接すらしてくれない。意を決して中国での活躍に方向転換。友人のつてで清華大学に活動の場を得た(JODC、技術指導、通産省補助)、処遇は1級技術者で現役時代よりも高給で足掛け2年勤務。最大の収穫は人脈が広くなったことで今も恩恵を被っている。

 1997年帰国後、すぐ科学技術者フォーラム(シニア技術者集団)に参加し、活動中。

(付録) 近況報告と最近の活動と今後の展開

1、中国の現状認識と活動

 (1)最大の課題は「沿岸地区と内陸部との経済格差」の是正にある→和諧社会実現具体的な課題:

   1.三農問題⇒北京延慶県プロジェクト(防沙林と果樹品種改良)、8年間活動中
 2.西部大開発⇒青海大学研究支援(冬虫夏草の人工培養)、5年間活動中
 3.東北振興改革⇒龍騰プロジェクト(日中人材・貿易交流)、1年間活動中

 (2)日中友好交流の変遷:_你好交流→経済・技術交流→文化交流(人と人の交流)。

2、龍騰プロジェクトの立ち上げ

  目的:人材活用と貿易促進。
当面、東北老工業基地の設備更新と産業振興を支援。
活動:人を通したノウハウ移転と技術支援および相互貿易の活性化
戦略:大連からハルピンへ北上する北進策
(大連経済区⇒自動車⇒航空機、精密加工)。

3、今後の展開

 (1)北京延慶県プロジェクト:
 (財)イオン環境財団の助成事業。本年より3年間活動予定。
 キーワード:「更なる発展」。
 内容:〔1〕防沙林の構築 〔2〕リンゴ品種の改良。
 目標:北京が砂に埋没するのを防ぐ防風固沙林の構築
 (中日友好生態モデル村建設)

 (2)大連花園口経済区:中国技協節能(省エネ)建築技術工作委員会の外事顧問に就任。
 規模:35平方km。
 深圳経済開発区から数えて5番目の国家プロジェクト。
 着手したばかり。
 環渤海経済圏、日韓経済圏と東北アジア経済圏の真っ只中に在る。
 内容: 〔1〕省エネ工業区、
     〔2〕学校・トレーニングセンター、
     〔3〕介護付き老人ホームなど。

 (3)龍騰プロジェクト:人材の斡旋・紹介および貿易交流の促進。
 対象分野: 〔1〕環境・省エネ、
        〔2〕トレーニング教師、
        〔3〕病院・老人ホームの管理技術など。
 課題: 〔1〕専門家の日当、
     〔2〕中国研修生の受け入れ体制。

 (4)連雲港開発区の支援(清華大学日中民間交流研究所の案件):
 内容: 〔1〕重化学工業(石油プラント、プラスチックス)
     〔2〕新材料の開発(建築材など)

 事跡:天水-蘭州線は隴海線(連雲港からウルムチ経由、オランダのロッテルダムに通ずる1万数千キロの新ランドブリッジの一部)において現役で活躍中(天水会先輩たちの結晶の鉄路)。
課題:資金と後継者(日本人ベテラン1名、中国人若手2名と体制を構成中)

皆様のご協力・ご支援とご鞭撻をお願いいたします。

(おわり)


本稿は橋村武司『幻の残留日誌(梦幻的残留日记)─中国に渡った1943年から帰国するまでの10年間─』(2019年、非売品)を著者の許諾を得て転載したものである。

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