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【13-10】マスコミの権利、責任と義務

2013年10月21日

柯 隆

柯 隆:富士通総研経済研究所 主席研究員

略歴

1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員

プロフィール詳細

 中国では、人民日報などの官制メディアは政府の宣伝機関としての役割を果たすため、政府を批判し政府をモニターリングする役割をほとんど果たしていない。それによって国民の知る権利が侵害されているといえる。政府にとって都合の悪いニュースを報道しない理由としてそれによって社会不安が煽られるからといわれている。かつて、毛沢東の時代、マスコミは政府が国民を洗脳する道具だった。長い間、新聞記者などのジャーナリストは政府に対して報道の自由の担保を求めてきた。報道の自由を担保できるのは政府の口約束ではなく、法律によるもののみである。すなわち、「新聞法」(報道法)の制定が不可欠である。中国政府は中国が法治社会といつも豪語するが、「新聞法」の制定を認めていない。

 それに対して、日本では、報道の自由が法によって担保されている。しかし、メディアによっては必ずしも公正な報道がなされていない。すなわち、マスコミが自由に報道する権利が担保されているが、その責任と義務が十分に果たされていないのである。中国に関する報道の一例をあげれば、大手スーパーが中国米を日本米に混入したとして、某週刊誌は「中国猛毒米偽装」と題する記事を掲載。中国国内では、食品安全性の問題は確かに深刻だが、日本が中国から輸入している食品についてまず、業者の自主検査体制で検査が行われ、そのうえ、輸入の段階で厳しい検疫で合格したもののみ輸入されているはずである。日本米に中国米を混入するのは食品管理法に触れる可能性があるが、その週刊誌の中国米を中国猛毒米に置き換えるような報道は甚だ無責任である。権利を主張する者は責任と義務をきちんと果たさなければならない。

1.ジャーナリズムの社会的責任

 中国では、ジャーナリズムは誰に対して責任を持つかといえば、間違いなく政府である。人民日報はそのネーミングの意味と裏腹に、人民の新聞ではなく、共産党と政府の新聞である。かつて、毛沢東時代の大躍進の際、コメなどの農業生産は常識的にありえないほどの豊作だと報道され、愚かな国民が人民日報の報道を信じ大きく鼓舞された。しかし、まぼろしの生産量は官制メディアが作った嘘だった。人民日報は人民を騙す新聞だった。

 他方、1976年、河北省の唐山市で大地震が起きた。しかし当時、人民日報はそれについてまったく報道しなかった。官制メディアでは、国民の知る権利が担保されない。無論、嘘の報道はつじつまが合わないため、いずればれてしまう。中国では、政府機関は別として個人が自らの意思で人民日報を購読する者がほとんどいない。要するに、人民日報はすでに国民の信頼を失ってしまったのである。ジャーナリズムが国民の信頼を勝ち取るためには、その社会的責任をきちんと果たし事実を客観的に報道することが先決である。共産党・政府の利益は国民の利益と必ずしも常に一致するとは限らない。両者が対立した場合、ジャーナリズムが政府に媚びるような報道一色になれば、国民に見放されることになる。

 では、日本のマスコミはジャーナリズムとしての社会的責任を果たしているのだろうか。答えは明らかにノーである。日本では、事実に反して無責任な報道がなされても、名誉棄損を被る被害者は裁判の費用と時間を考えて泣き寝入りするケースが多い。その結果、週刊誌などの報道は人の眼を引く刺激的なタイトルを付けたがる。その中身は必ずしも事実に基づかないものが多い。読者はその刺激的なタイトルに駆られ、駅などの売店でつい買ってしまう。週刊誌はジャーナリズムの社会的責任の自覚がなく、歪曲な報道する確信犯になってしまうケースが多い。

 では、メインストリームの通信社はどのように報道しているのだろうか。実は、メインストリームの報道機関も別な意味で危機的な状況に陥っている。本来ならば、メインストリームの報道機関はオピニオン・リーディングの役割を果たすはずだったが、収益性を重視するあまり、迎合的な報道が目立つようになっている。

2.ジャーナリズムのあり方

 いかなる社会においても、ジャーナリズムは価値創造について重要な役割を果たすことになる。中国社会の価値観の形成過程をみると、共産党と政府の意図が存分に反映されている。それは政府が意図的にジャーナリズムをコントロールし報道を操縦しているからである。先日、ニューヨークで開かれた日米フォーラムに参加した。今年のテーマは政府による市場経済活動への介入に関する日米中の比較だった。アメリカでは、民主党は政府の役割をある程度容認し、大きな政府、すなわち、政府の役割が認められているのに対して、共和党は大きな政府が政府自らの失敗をもたらし、市場の役割を存分に果たすために、政府の規模を抑制し小さな政府でなければならないと主張する。一方、日本では、政府の役割を尊重し、それによって市場の失敗を補うことができると考えられている。

 中国は社会主義の国であるため、政府の役割を否定するはずがない。しかし、政府が介入するすべての分野では、失敗が観察される。過去30余年間の経済成長は自由化を進めた結果である。政府が市場経済活動に関与しなければ、経済は自ずと活性化する。もっとも典型的な例は中国政府がジャーナリズムや文化・出版市場を厳しくコントロールしていることである。その結果、中国は文化創造力が著しく抑制されている。中国の物理学者銭学森氏は入院中、見舞いに来た温家宝前首相に対して「なぜ我が国では『大師』(大家)が育たないのでしょうか」と尋ねた。温前首相はそれに応えることはなかった。原因は簡単である。すなわち、政府は教育を隅々までコントロールし、教育に関する自由と自治権がすべてはく奪されているからである。

 ジャーナリズムの基本は社会批判である。日本でも有名な作家魯迅先生は生前(国民党時代)、国民党を痛烈に批判した。考えてみれば、仮に、魯迅先生が今の時代を生きて国民党批判と同じように共産党を批判したら、どのような結末になるだろうか。間違いなく政府転覆罪に問われ投獄されているに違いない。

 もう一度日本のジャーナリズムをみると、無責任な論評が少なくない。テレビについていえば、日本は主要国のなかで唯一ニュースの専門チャンネルを持っていない国である。テレビのニュース番組はバラエティ化している。朝の出勤前の貴重な時間だというのに、世界のニュースを伝える代わりに、芸人の不倫や離婚などで充満する。テレビ局の人に話を聞くと、「芸人の不倫と離婚の話であれば視聴率が上がるから」といわれた。これではジャーナリズムがその社会的責任を果たせない。

 ある意味ではジャーナリズムの無責任は、無責任な政府以上に怖い。ジャーナリズムの自由と権利は担保されなければならないが、同時に、社会において果たすべき役割を全うしなければならない。この点について、日中のジャーナリズムと両国政府は一様に反省すべき点が多いはずである。