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【14-09】中国の科学者はなぜノーベル賞に無縁なのか

2014年10月16日

柯 隆

柯 隆:富士通総研経済研究所 主席研究員

略歴

1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員

プロフィール詳細

 今年のノーベル物理学賞の受賞者は3人の日本人だった。これに対し今まで、中国本土の科学者は誰一人としてノーベル賞をもらったことがない。中国の科学者はなぜノーベル賞に無縁なのだろうか。政治的価値観が考慮に入るノーベル平和賞や文学賞は審査委員会の価値判断に委ねられるが、物理学賞や化学賞といった科学の業績が最優先される賞と無縁なのは中国国内の研究体制に問題があるのではないかと推察される。

 今回の物理学賞を受賞した中村修二教授は、日本の研究体制に問題があると批判している。日本は稲作文化圏であり、日本人はチームワークを重んずるはずであるが、外国人からみると、日本人の縄張り意識は予想以上に強い。それゆえ、学問の世界でも学閥による統制が強く、場合によっては研究の自由度が阻害されてしまう。また、企業で研究を行っていた中村教授は、企業の基礎研究に取り組む姿勢に問題があると感じていたようだ。企業経営の基本は利益を最大化することであり、利益に結び付くかどうかが分からない基礎研究を敬遠するのはやむを得ないかもしれない。

 それに対して、中国の研究体制にどのような問題を秘めているのだろうか。それは国の問題なのか、それとも各々の研究機関の問題なのか、きちんと検証することが必要である。

1.政府としてやるべきこととやるべきではないこと

 中国の科学研究の環境を考察する前に、中国のスポーツアスリートを育成する体制を考察しておいたほうがよい。中国では、オリンピックなどのスポーツ大会でどれだけの金メダルを取るかは国力の強さを示す重要な指標とみられている。それゆえ、挙国体制でアスリートを育成している。

 独裁政治のもっとも便利なところは、財源を一極に集中し動員しやすいことである。選手のやる気を喚起するために、金メダルをとった選手に多額の賞金を与えることもある。換言すれば、中国ではオリンピックに参加する選手のすべてはプロであり、その生活のすべては国によって保障されている。無論、こうした挙国体制では、国民の身体能力全般は上がらない。国の財源をもって代表選手を強制的に作り上げていくというのが挙国体制である。(しかし、挙国体制でも機能しない場合がある。それは中国のサッカーである。いくら頑張ってもサッカーのレベルは上がらない。)

 スポーツ選手を育成してオリンピックに参加しそこで公正な評価を受けるのと違って、科学研究の場合は、公正な「審判」を受けないことがある。中国政府は毎年巨額の財源を科学研究に投じているが、それが成果として実っていない。それは財源を配分する政府が研究テーマについても口を出すことが多いからである。中国政府は5年おきに経済発展の5か年計画を作成し、そのなかで重点的に発展させていく産業を定める。こうした国の長期計画に合致する研究であれば、研究費の申請が認められやすい。逆にそうでなければ、研究費を申請しても認められない。

 そして、研究員を採用する人事権は研究を行う教授にない。中国では、研究員を採用する人事にさまざまな力が働く。まず、政府は若手の研究員の政治姿勢を審査する。少なくとも、学部と大学院のときの政治や共産党史などの単位を完全に取得しないといけない。また、政府を批判する言動があってはならない。こうした政治条件を全部クリアした研究者は往々にして平凡なものばかりである。

 中国社会では、研究員は人気の高い職業である。政治力のある人はその政治力を講じて研究所に圧力をかけ、不適格な研究者の採用を強要する場合がある。これこそ中国の特色のある科学研究体制である。

 政府は国のメンツを重んじて看板になるような研究プロジェクトを助成する。その予算を握る幹部は自らの知り合いの若者を研究所に推薦し、採用を強要する。なによりも、研究成果に対する評価は適正に行われていない。これでは、いかなる科学研究でも成果らしい成果が得られない。

2.「向銭看」の社会では良い科学研究ができない

 無論、すべての問題が政府だけにあるわけではない。各々の研究員にも問題がある。要するに、天才の研究者でも研究者魂を忘れ世俗社会の拝金主義に染められているということである。中国社会で蔓延っている拝金主義とは、ありとあらゆることがお金によって価値判断されてしまうことである。以前、北京市内の川で溺れている人を目の前にしたある若者が「助けてあげてもいいが、いくらくれるの」といって社会問題になったことがある。

 中国の科学者の間では、世の中に役立つ良い研究よりも自分にとり金になる研究しかしない風潮が流行っている。研究も企業経営もお金がなければ何もできない。しかし、利益だけを目的化すれば、良い研究も良い企業経営もできない。お金は目的ではなく結果である。中国国内のマスコミのノーベル賞に関する報道の多くは誰がどのような研究を行って受賞したかというよりも、今回の受賞者は何人で賞金は一人頭いくらかという報道が多い。まったく本末転倒の議論である。

 拝金主義は中国語では「向銭看」(シャンチェンカン)という。昔、王朝の時代、お金のほとんどは銅銭だった。そのとき、知識人は自らの崇高な志を示すために、お金のことを「銅臭」と表現していた。すなわち、お金は臭いものだということである。しかし、今の中国人(含む知識人)はあの崇高な志を未だに失ってないのだろうか。否、それを捨てたに違いない。

 考えてみれば、科学者は毎日ノーベル賞の賞金を期待しながら研究に取り組んでも、良い研究ができるわけがない。いかなる研究でもそれが成功する秘訣は、世の中の流行と関係なく一心不乱に没頭して取り組むことである。しかし、多くの中国人研究者は世の中の流行を追いかけるか、さもなければ政府の嗜好に迎合して研究テーマをその都度変える。政府に喜んでもらう研究は予算を獲得するための研究であるが、世の中に役立つ研究とは限らない。企業のなかで行われている研究でも同じである。社長に喜んでもらう研究は予算を得るための研究だが、世の中に役立つ良い研究とは限らない。

 無論、13億6000万人の中国社会には天才や奇才がいないわけではない。そうした天才や奇才は今、アメリカやヨーロッパへ留学し海外で研究を行う道を選んでいる。将来、彼らがノーベル賞を受賞する可能性は大いにあるが、中国国内の研究体制と研究環境を改善しなければ、中国本土の科学者は依然としてノーベル賞には無縁かもしれない。