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【20-01】中国を茶旅する―茶文化発祥の地 四川省

2020年1月6日

須賀 努(すが つとむ)

1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウォッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。

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峨眉山 峨眉雪芽の茶畑

『世界の茶の発祥地はどこか』という問いかけに、多くの人は『雲南省』と答えているような気がする。だが、本家中国の専門家の間では『茶樹の発祥は雲南かもしれないが、喫茶の習慣、茶文化を普及させたのは実は四川省である』という説を唱える人が多い。筆者はこれまで中国各地を茶旅してきたが、四川省だけは敢えて外してきた。それはやはり『茶文化発祥の地は本当に四川であるかを知るためには、まず他省の状況をほぼ把握して、それから行くべきだ』との一種の信念があったからだと思う。そして苦節8年、ついに今回、四川の茶旅に乗り出した。果たしてその結果や如何に。

成都の茶文化

 朝早く起きて、成都市内中心部にある人民公園に乗り込む。庶民の茶文化体験ということだが、天気も良かったので、屋外で茶を楽しむのはとても快適だった。そして池のほとりでお茶を飲み始めると、隣に座っていた老人たちと何となく交流が始まってしまうのが、何とも面白い。

 息子が日本にいる人は簡単な日本語を話し、スマホで家族の写真を見せ始める。中医の医者がいて、中医学を勉強している人はそこで即席の講義を始める。庶民が安い料金で皆が仲良くお茶を飲み、談笑する。これは私が思う茶文化の一つの形であり、決してお茶は高貴なものではない、と考えるところだ。ただここのお茶代も随分といい値段を取っている。お湯代(場所代)だけでも10元するのだから、庶民文化も値上がりが激しい。

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人民公園で茶を飲む

 それでも成都にはこのような茶文化が残っていて、何とも羨ましい限りだ。実は中国でも以前あった厦門の路上茶や広州の廉価な飲茶などがどんどんなくなってきており、とても残念に思っている。経済成長と共に、儲かるシステムが優先され、金の取れない従来のスタイルは淘汰されている。そんなことを考えながら、緑茶を啜る。

峨眉山の観光茶園

 成都市内を離れ、高速道路を2時間ほど走って、サービスエリアで停まる。そこはあの台湾の天福銘茶が作った、お茶がテーマのSAだった。茶畑、博物館、お茶屋などが併設されており、ここに入れば、お茶のことが一通り分かるシステムとなっている。しかも規模がデカい。博物館は入場料として30元も取るらしい。天福の中国ビジネス、スケールが大きい。

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天福茗茶 サービスエリア

 更にバスは1時間走り、峨眉山に到着した。山道を分け入っていくと、峨眉雪芽と書かれた看板を目にする。有機茶園に桃の花が咲いており、何ともきれいな光景だ。建物も新しく、ここが観光茶園であることが分かる。茶工場見学、茶摘み体験もあり、摘まれた茶葉が運ばれ、すぐに鍋で炒め始めた。店長自ら炒めていたが、その手つきは慣れたもの、子供の頃からやっているのだという。

 元々ここは国営茶廠が母体であり、2006年に峨眉市の旅行会社が出資して、茶業が民営化された。だから観光茶園に力を入れているのだと分かる。中国の観光茶園のレベルは急激に上がっており、非常にきれいな施設、店舗を有して、観光客が製茶を理解し、楽しんだ上で、茶葉を買ってもらい、更にはSNSなどでの拡散を狙っているのは明白だ。勿論市政府などの支援もある。日本はどうだろうか、とふと考えてしまう。

 峨眉市にはもう一つ、今回は行かなかったが『竹葉青』という有名ブランドがあり、街中に大きな茶工場が見えた。峨眉雪芽と並び、この街の二強らしいが、広告宣伝では完全に竹葉青が全国展開して有名になっている。これまであまり知られてこなかった四川茶、いま猛烈な勢いで他省の追い上げを図っている。

蒙頂山に最古の茶園?

 翌日は峨眉山から蒙頂山へ移動する。天気は今一つの中、バスは高速道路を走り、1時間半ほどで、蒙頂山と書かれた門をくぐった。まずは茶業者を訪問する。躍華茶業とは4代目で、ここの茶業を改革開放後に発展させたお父さんの名前が付けられていた。とてもきれいな展示館には、茶業の歴史などが書かれ、昔の文物が展示されている。蒙頂山の緑茶も近年かなり有名になってきており、団体客が次々にやってくる。外には樹齢100年を超える茶樹が移植されていた。

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蒙頂山 最古と言われる茶園

 茶工場の見学は、前日同様見学ルートが決められておりそこを歩く。マイクロウエーブ殺青という機械が目を引く。これで鮮やかな緑色を保持するらしい。昨日の峨眉山の工場にもあったので、昨今の流行りだろうか。工場は大型投資により現代化され、展示室にある製茶道具が遠い過去の産物に思える。

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昔の茶道具

 蒙頂甘露などのお茶が出され、試飲する。ちょうど新茶のシーズン、すっきりした味わい。蒙頂黄芽という珍しい黄茶も作られていた。5代目、イケメン社長が登場して、更に説明してくれ、茶葉を買いたくなる。ただ中国人なら大量買いが基本だが、日本人は細かな注文を、しかも現金払いで、店舗スタッフは大混乱になっていた。支払宝でスマホ決済してほしいと悲鳴を上げている。

 それから少し山を上がっていく。『茶之都』という石碑が見える。その付近の斜面には茶畑が広がり、茶摘みしている人が見える。ここからが今回の旅のハイライトの一つ、中国最古の茶園、を訪ねる。しかしその道のりは想像以上に険しかった。ロープウエーがあるのは分かっていたが、歩いて登る。大きな急須のモニュメントの脇を通り抜け、その急な階段を一体何百段登ったのだろうか。膝が痛くなってきた。途中の廟で少し休むも、体力の衰えを痛感する。

 30分ぐらいかかっただろうか。石の門が見えた。潜ると井戸が見えた。古蒙泉とある。その辺には観光客がちらほら歩いている。石の壁には茶が運ばれる様子などが描かれているが、これは後世の物だろうか。治水の神様、大禹像まで登場してくる。茶畑は斜面に続いている。

 ついに皇茶園に到着した。7株の茶樹が植えられているが、周囲は壁で囲まれており、少し高い位置でないと写真には収まらない。ここが文献上、人工的に植えられた茶畑で中国最古(ということは世界最古)だということだが、1000年以上も前の茶畑には見えない。確か日本にも最古の茶園という石碑を三カ所で見た記憶がある。歴史は歴史、物語は物語。呉理真という僧侶の名前も出てくるが、正直あまりしっくりとは来ない。それは私が不勉強だからだろうか。

 足も痛いので、帰りはロープウエーに乗せてもらう。2人乗り、スピードが速いので、乗り損なう危険を感じる。高い所は苦手だが、この程度なら問題はない。まあ脚で登ってこそ価値があると思うので、今回往復の選択は妥当だった。

雅安茶廠と新しい動き

 雅安といえば、チベットへの茶葉供給の拠点として名が知られる場所。現在はチベットへの最前線という感覚もあり、ここに来るだけでちょっと緊張する。雅安一帯の茶業は、千数百年の歴史があると言われており、唐代以降、チベットへの茶葉供給量は増え続けて、明代初めには、既に30以上の茶業者が茶を作っていたらしい。茶の形態も現在の長方形に統一されていく。その頃この製茶法は湖南省安化にも伝えられたとある。

 雅安が注目されたのは元代に征西が行われ、その際に陝西商人が四川に南下、ここの茶に商機を見出したからとも言われている。実際明代中期には、陝西商人が地元の四川商人を駆逐して、雅安茶を独占していた。今回は成都しか訪れていないが、陝西会館が作られ、大勢の商人が出入りしていたらしい。

 明代後期には更に陝西商人の投資が盛んになる。清代中期には義興隆、天増公、恒豊裕泰などの茶荘が隆盛を極め、その数は70~80軒を超えていくが、茶葉市場は雅安から康定に移っていったため、各茶荘もそれに合わせて、康定に支店を出して商売していた。ただ清末の混乱期、イギリスのチベット侵攻、インド茶の流入などもあり、更には1930年代の国内混乱、抗日戦争により、雅安茶業は最悪期を迎える。そして新中国建国後、各茶荘は国営雅安茶廠に吸収され、その名は歴史から消えていった。

 この旅の最終目的地、雅安茶廠に向かう。ここが昔から蔵茶を作っている拠点だ。創業1564年となっているのは、吸収した茶荘の内、最も早い創業年を取ったらしい。外側から見ると、トレードマークの『中国蔵茶』という文字も見える。蔵茶もある意味で国家の戦略物資、湖南省安化のように、『国家機密だから見学できない』といわれそうな場所で、『謝絶参観』の文字まで見える。だが我々の前を上海の団体が中に入っていくのを見て、最近雅安茶廠も開放されたことを知る。

 まずは蔵茶の製造法を説明した展示室へ。この茶作りが如何に力仕事であるかを示している。明代から作り始めたというこのお茶、歴代の茶葉が展示されている。1970年代製造の蔵茶も飾られているが、そこには『川』の文字があった。これは湖北省趙李橋で作られるお茶と同じマーク。何だか色々と歴史的な資料があり、とても時間内で見て回れるものではない。

 マニ車が設置されるなどチベット色も出ている。実際の製造工場も見学できるというので驚きながら中を見る。作られた茶葉は長く保存されるため、竹? にくるまれて積み上げられていく。この茶は如何にしてチベットまで運ばれたのか、実に興味深い。お茶を飲みながら説明を聞く。説明者は地元出身でアメリカ帰りの若者、広報担当だ。これからはネット販売に力を入れていくという。雅安茶廠はどんどん変わっていくのかもしれない。

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雅安茶廠 製茶の様子

 尚、今回雅安で宿泊したホテルでは、部屋に入ると、何と蔵茶が置かれている。よく見ると壁にも茶餅がはめ込まれており、いい香りがする。これが噂の茶葉ホテルか。食事のためにホテル内のレストランに行くと、もっとすごかった。至る所に茶葉があり、お茶に埋め尽くされているようにさえ、思えるほどだった。そしてここで戴くのは、やはり茶葉料理。きれいに盛り付けされた全ての料理に茶葉を使っており、その徹底ぶりは見事といえる。またベッドに置かれた茶葉枕も快適でよく眠れた。これも一つの茶旅観光だ。

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雅安 茶葉ホテルの茶室

 ホテルから河沿いを少し歩いて行くと、1軒の茶荘に出合う。入っていくと、オーナーの説明が始まる。ここの蔵茶、妙にスッキリしており、イメージが違う。蔵茶といえば、正直決して飲み易いお茶ではない。聞けば『これは2000年以降、漢族に飲ませるために開発した新しい蔵茶で、チベットに持っていくものとは製法も違う』というではないか。

 確かに長年チベットに運ぶために作られてきた蔵茶は、正直質の良くない茶、辺境茶と呼ばれていた。だが、茶業が民営化されると、儲からないチベット向けではなく、消費力のある漢族向けに商売するのは道理だろう。ただ小声で『今でもチベット向けの蔵茶は政府の要請で作り続けている。これを断ると事業は続けられないよ』と漏らす。蔵茶に対する認識が一変、製法の変化なども今後確認してみたいと思う。

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新しい蔵茶の樽

茶馬古道について

 茶馬古道といえば、あの雲南から馬の背にプーアル茶を載せて、チベットまで険しい山道を運んでいく姿を思い浮かべるが、今回の四川からチベットのルートでは、馬が使われるのは一部だけであり、最も厳しい山道は『茶背子』と呼ばれた人間が茶葉を運んだ、という史実を知った。

 そもそも茶馬とは、四川などの茶とチベットなどの馬を交換する交易市場を指しており、そのために市場に茶葉を運ぶ道があったということだ。1930年代茶背子は毎日500人もが雅安から康定に向かって歩き出したという。12・3歳で仕事をはじめ、一番重い物を持つ30歳前では、150㎏近くの茶葉を背負った。そのため休憩する時も、座ることは出来ず、常に立ってどこかに寄りかかるという状態。今回はほんの少しだけ茶馬古道の起点を見に行ったが、とても人間が運べるとは思えない過酷な労働がそこにあった。

 また『茶夫子』と呼ばれる製茶師も同様の苦しみを味わっていた。1930年代以前、雅安には2万人以上おり、その殆どが、炭鉱夫と同列に、最も貧しい者がなる職業だと言われていたという。薄給の上に重労働、雅安茶業の栄光の陰には、これらの人々の支えがあったのだった。茶馬古道は決してきれいごとで成り立っていたわけではない。

歴史的な茶 彭州へ

 実は雅安と並んで、一度行ってみたいと思っていた場所が彭州だった。四川茶業の歴史上でも最も古い場所の一つと言われていた。成都市内で茶荘を開いている陳さんを訪ねると、ちょうど行く用事があるというので、そこに便乗して車に乗る。成都市内を抜けて高速道路を走る。北西に約1時間、彭州市に至る。そこから田舎道をまた1時間ほど行って、目的地に着いた。

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彭州 古寺に残された龍の門

 そこはきれいな観光茶園のようだった。一体ここはどこだろうか。宝山村とある。迎えてくれたここの責任者、徐さんは茶師で、やはり福建省武夷山から招聘されて、ここで数年前に茶作りを始めたらしい。きれいな建物も、中にある最新設備の製茶機械も、福建の投資家が準備した。『正直この地は歴史的な場所ではあるが、近年茶業はあまり盛んではなかった。我々は茶業を再興するためにここに来た』という。

 歴史的な茶業の場所として、約2000年前の書物には既にこの地で茶葉の売買が行われていたとあり、良質な茶が作られていた可能性が垣間見られる。ただその後、ここで茶がどの程度作られ、いつ頃の歴史を一旦閉じたのか、その辺は郷土史家に聞いてもはっきりしなかったので、かなり前のことだろうと想像する。

 裏山に登ると、そこには茶畑が広がっていた。『ここは60年ぐらい前に、茶樹が多く植えられたが、その後放棄された場所。それを数年前に借り受け、茶作りが始まった』という。ということは、ここは中国でよく見かける、政府の指示で茶樹を植え、その後の混乱で捨てられた土地だった。その茶樹も数年間管理したことで見違えるように復活した。

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10年前に放置された茶園を復活

 実は昨晩この辺りには雪が降っていた。『本当は向かい側の龍門山系に入れば、樹齢100年を超える茶樹が沢山植わっているのだが、そこはとても滑りやすく、残念ながら今日行くことは出来ない』とも言われてしまうところが、やはり如何にもリアルな茶旅だ。そんな簡単に目的地に行ける訳がない。確か昨日雑誌で見た、梯子を掛けて茶葉を摘む様子、あの茶樹が見られないのは残念だが、喬木の茶樹が雲南方面から伝わってきた、と言えそうだ。この葉っぱで徐さんは紅茶を作っている。

 昼ごはんを食べたレストラン、その横にはかなり古い建物があり、茶館として使われていた。近くには中国のどこにでもある老街が観光化されている。この地は古来要衝の地、茶処であり、唐代の陸羽も『茶経』にこの地について書き残しているというが、今はその面影は全く見られない。

 四川の茶の歴史は、間違いなく古い。だが分かっていないことが多過ぎる。そしてそれを示す文献などもあまりないのが実情だ。ただ今回の茶旅では、やはりワクワクさせられた。四川の歴史には何かある、と思わせるところが多々あったからだ。同時にこれまであまり注目されてこなかった四川茶が急速に進化しており、中国内での茶業復活を狙っている様子に、喜びと不安を感じてしまったのは正直な感想だ。


※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.17(2019年11月)より転載したものである。