【10-11】選択と決断
柯 隆(富士通総研経済研究所 主席研究員) 2010年11月 9日
1.選択
中国人は選択と決断の重要性を強調するために、いつも1玉のスイカと1粒の胡麻の対比で比喩して表現する。すなわち、1玉のスイカと1粒の胡麻のどれを取るのかの選択である。よほどのことがない限り、普通の人なら胡麻よりもスイカを取ると思われる。これは経済学の利益の最大化の原理にも沿うものである。
しかし、日本の政治家はこうした選択にはすこし苦手のようだ。同じような比喩でいえば、一匹のマグロと一匹のイワシのどっちを取るかと普通の日本人に尋ねると、おそらくほとんどの日本人は迷わず、マグロを取ると思われる。しかし、日本の政治家になると、すんなり答えが出ない。
選択問題はいわば取捨の問題である。日本は諸外国との自由貿易協定(FTA)をなかなか結べない。その理由はこうした取捨を決断できないことにある。前原外務大臣はGDPの1.5%しか占めていない農業のために、98.5%のその他の産業が犠牲にされているとある講演で述べた。筆者として前原大臣の中国との関係への対応について必ずしも賛成できないが、日本の農業に関するこの発言はごもっともと思われる。
横浜で開かれたAPECでは、民主党は環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の締結を呼びかけたが、与野党を問わず、賛否両論が存在する。国会議員はそれぞれの立場からFTAやEPA、そしてTPPへの締結について賛成あるいは反対を表明している。
2.決断
かつて社会主義の中国では、政府幹部の官僚主義は酷かった。当時、役所などに手続きをしに行くとき、決まって幹部は「研究、研究」(検討、検討)と即答を避ける。20年以上も前のことだが、日本で留学する筆者は故郷の南京に戻って妻と役所へ婚姻届を出しにいった。そのとき、いわれたのは研究、研究してから決めるとのことだった。
二人が結婚することについて何を研究するのか、と怒りを覚えながら、その気持ちを抑え、「どれぐらい研究するでしょうか」と尋ねたら、「一週間ぐらい」といわれた。面倒くさがり屋の筆者は、ほかのことならばあきらめることができるが、結婚をあきらめるわけにはいかない。結局は、1週間以上も待たされ、ようやくめでたく結婚できた。
ところで、今の日本では、同じような官僚主義の現象がみられる。とくに、テレビをみると、政治家や評論家は難しい問題になると、いつも決まってコメントするのは「きちんと議論を重ねていかなければならない」と。おそらく日本人は世界で一番議論が好きな人種ではなかろうか。
総理大臣でさえ、ぶら下がりの記者会見のとき、いつも口にするのは「きちんと議論をしていかなければならない」。逆に聞きたいのは、「いつ決断をするのか」である。議論することはいいことだが、決断しないのは責任逃れである。
3.責任
責任逃れはいわばモラルハザードである。今回の尖閣事件の問題も民主党が政治主導と強調しながら、船長の釈放は検察の判断だと逃げる姿勢である。そして、船衝突のビデオの流出事件も決断できない後手後手の結果ではなかろうか。
中国からみれば、船長が釈放されたので、これ以上、喧嘩してもよい結果にはならない。したがって、ビデオの非公開は中国が歓迎していたはずだ。無論、表では、公開しないように求めることができないが、「公開するなら、全部公開してください」と外交部のスポークスマンは繰り返していた。
それでも民主党がビデオを非公開にしたのは中国に対する配慮があったものと推察される。残念ながら、現在の日本政府では、情報管理のずさんさが指摘されなければならない。関連のビデオがネット上に流出したことは日中の関係者にとり寝耳に水のはずだった。
今回のビデオ流出について二つ重要なポイントがある。一つはそもそもあのビデオを非公開にすることの合理性である。もう一つは情報管理体制の在り方である。おそらく今回の事件を通じて中国のみならず、諸外国からみると、日本が非常に「危険な国」とみられているはずだ。なぜならば、機密情報の漏えいは今回は初めてではないからだ。
数か月前に、アメリカのランド研究所の研究者に会ったとき、日米中の関係について尋ねたところ、アメリカ人は「日本の民主党の外交は、次にどのカードを出してくるか、予測不可能なゲームのようなものだ」と述べた。最近、米中ロとの関係から、日本の外交はまさに四面楚歌の状況にある。
4.反省
日本の政治はどうしてここまで無力化したのだろうか。それはひとえに政治家の緊張感のなさによるところが大きい。たとえば、日本では、政治家が間違ったことをやっても、反省さえすれば、責任を取らなくて済むからである。政治家の顔をみればわかる通り、緊張感も危機感もほとんどない。失言すれば、「お詫び申し上げる」と反省して、翌日からいつも通りの自分になる。
それに対して、中国には反省する文化はない。文化大革命およびその前の政治運動のなかで計3000万人の犠牲者が出たといわれている。鄧小平は「改革・開放」を決断したとき、かつての「反革命的右派分子」のほとんどの名誉を回復したが、政府として謝罪はしていない。しかも、共産党の文献では、反右派闘争などの運動が必要だったと結論づけている。
反省する文化のない中国だから、いろいろな問題は大きく発展しがちである。反省や謝罪を軽く考えてしまう日本も様々な課題を抱えている。すなわち、どんな問題でも謝れば済むと思われているから問題が逆に大きく発展してしまう。
日本では、反省と謝罪は責任とリンクしているから、反省や謝罪が氾濫してしまうのかもしれない。ときどき、台風などの影響によって電車が遅れた場合、車掌さんは決まって、「台風の影響によって電車が遅れており、心よりお詫び申し上げます」と軽く謝罪する。外国人からみると、この謝罪は意味不明。なぜなら、電車が遅れているのは鉄道会社の責任ではなく、台風の影響によるものだからである。謝るならば、「ご了承お願いいたします」のほうが適切ではなかろうか。
国内問題ならば、反省や謝罪を連発しても大丈夫かもしれないが、国際問題になると、軽く謝罪しないほうがよい。なによりも、日本はちゃんとした外交戦略を展開するには、まず正しく選択し、政治がちゃんとした決断をしていかなければならないと思われる。