【21-02】青州 山東省 蘇る古代の石仏群
2021年01月25日
阿南ヴァージニア史代
米国生まれ。東アジア歴史・地理学でハワイ大学修士号。台湾に留学。70年日本国籍取得。1983年以来、3度にわたって計12年間、中国に滞在。夫は、元駐中国日本大使。現在、テ ンプル大学ジャパンで中国史を教えている。著書に『円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』、『古き北京との出会い:樹と石と水の物語』 、『樹の声--北京の古樹と名木』など。
青州は現在、山東省中部の極く普通の中都市であるがかつて500年もの永きにわたり山東の広大な領域の政治の中心地であった。
1996年、幸運にも、埋蔵されていた膨大な数の精巧な仏像が発見され古代の名高い仏教聖地と青州に世界の注目が集まった。
この発見によって、龍興寺境内跡地から200体もの6世紀の東魏と北斉の仏像群が再び、光の下にその姿を現したのである。
青州博物館の円仁を記念する満開の桜
龍興寺は、唐武宗の勅令(845年)に基づく苛酷な仏教弾圧の結果、徹底的に破壊され、12世紀には一時、道観になった時期もあったが、僧侶達は苦労を重ねながら、仏像を麦わらで包装し、将来のために丁寧に地中に埋めたのである。石灰岩で作られた仏像の多くは、古代インド独特の特徴を有するものであるが、それは優美な姿をした菩薩や逞しい肩を持つ如来像の衣の襞の装飾に顕著に見て取れる。菩薩像の尊顔の湛える謎めいた微笑は、古代の仏教芸術の象徴とも言える。発掘当時、人々を驚かせたのは多くの仏像が元の顔料と金箔の名残を留めていたことである。
(左)菩薩の衣の襞彩色が残る装飾(右)菩薩像に残る古代の金箔
1996年に地下から発見された6世紀の如来像と菩薩像
青州博物館は、今、かつての龍興寺の境内跡に建てられている。2002年、私は博物館の孫新生副館長から、隣接する学校の庭内にあった深い坑の跡を見せてもらった。この坑の底に仏像が三層に重なって埋められていたとのことである。仏像のあるものは、完全な状態で原型を留めていたが、その他のものは工房で破片を繋ぎ合わせる必要があった。これほど貴重な仏像を所有していた大寺院が何故、この場所に存在していたかについては、未だに定説は無いようだが、一つの可能性としては、高名な巡礼僧法顕がインドからの帰途、412年から青州に滞在し、持ち帰った経典の整理や翻訳に従事して、この地に、堅固な仏教根拠地を築いたのではないかという説である。加えて、龍興寺の巨大な「大斉碑」(573年建立)が、壮大な寺院の重要性を証言している。この石碑の頭部に配置された龍の一群が二つの小さな菩薩をしっかりと守っている様子がまことに微笑ましい。
龍興寺の「大斉碑」(573年建立)。高4.45m
日本僧円仁が840年4月1日から、此処に10日間ほど滞在した時、近隣の末寺の僧も含め数千人の僧侶が居住していたという。円仁は、青州で温かい歓迎を受け、山東の最高官位にある長官から五台山さらには長安へ行くのに必要な旅行許可証を発給してもらっている。9世紀に書かれた円仁日記から、私たちは青州の人々の心の温かさについて多くのことを知ることが出来る。例えば、尚書から布三端と茶六斤を贈呈され、節度副使からは役所に招かれ茶菓の供応を受けたと日記に記されている。その5年後、帰国の途次、円仁は無惨にも破壊された山東の寺々を目の当たりにすることになる。円仁日記、845年8月16日の記載、"ここは都から遠く離れたところであるが、勅令による法規によって寺院を破壊し、仏像を壊し、寺の所有物を官に没収することは長安の都と何ら変わるところが無い。まして仏像の上についている金を剥ぎ取り... 天下の銅鉄の仏、金の仏はどれほど数に限りのある貴重なものかわかっているのに、勅に従ってすべて破壊し尽くして、ただの金屑にしてしまった。"龍興寺の破壊された仏像は、唐代仏教が辿った悲惨な状況を代表している。2007年、円仁の青州訪問と現地の人々の友情を記念すべく、日本人、中国人、米国人からなるグループが博物館の中庭に4本の桜の木を植樹した。
貴重な仏像に加え、青州には昔の面影を残す古い街並が在る。此処は、元の時代に移住して来た回族の居住区である。2002年に訪問した際、市の人口9万人のうち3分の1は回教徒であることを知った。古城地区にある家屋の多くは、明ないしは清時代に建造されたものであり、窓枠に精巧な装飾が施されている。私は、その後、数年の間に5度、青州を訪れたが、その都度、この一帯を歩き、小さな商店や食べ物を売る露店の雰囲気を楽しんだ。胡麻のペーストと胡麻油はよく知られた特産品で、清真寺の門前には賑やかな青空市場が見られる。私が、この古い街路を歩いて行くと雑貨店を営む小母さんがいつも大声で、お茶を一杯飲んで行けと声をかけてくれる。
青州古城地区の商店街
(左)回教徒の家の門 (右)清真寺(回教寺院)の門前青空市場
(左)道端で桃を売るお爺さん (右)雑貨店を営む小母さん
市の南西、4キロ程のところに駝山が在る。その名前は、遠くから見ると頂の尾根が駱駝のこぶの形に似ていることに由来している。山の中腹に多数の石窟寺院が在り、私は、ある時、幸運なことに地元の参拝者たちに誘われて一緒に山を登り、6~9世紀頃の五つの主な石窟と600体もの岩に彫られた仏像を見ることが出来た。二つの石窟は、多分、隋時代に切り拓らかれたもので、かすかに原色を伝える仏像も残っている。それらは龍興寺の石仏のような芸術性や優美さには欠けるものの、時代によって異なる仏像の形状や隋朝皇帝の奨励した巡礼の場所の重要性を教えてくれる。
青州を訪れると、永い歴史と貴重な遺産が奇跡的に生き残っていることが実感できる。龍興寺の信じ難いほど優雅な仏像を一見するだけで、人は、日本の芸術にも影響を与えた高度な文化の極致に感嘆の念を禁じ得ないであろう。
駝山中腹の多数の石窟
駝山石窟への石段
(左)隋時代の石窟。仏の座像。両側に立つ菩薩像 (右)袈裟に残る赤色の仏像(隋)
※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.21(2020年11月)より転載したものである。