漢方医学をめぐる諸問題への対応策提言
漢方医学をめぐる諸問題への対応策提言
(慶應義塾大学医学部漢方医学センターセンター長・准教授 )
はじめに
東アジア伝統医学は古代中国を起源としているが、韓国、日本でそれぞれ独自の医学体系として発展し、それぞれ韓医学、漢方医学として現在の伝統中 国医学とは区別される。これら三医学体系には共通点も多いが細かい点はかなり異なっている。例えば韓医学には四象医学があり、体質を重んじた医学体系が発 達している。漢方医学は江戸時代に実学を重んじる医学として発達し、余計な理論を排除し、患者観察を重視する医学として今日まで継承されている。さらに現 在では医療制度や社会的背景により、これら三国の伝統医学は大いに異なった形となっている。特に医師制度の違いはこの三国の診療体系を大いに分けている。 中韓が西洋医学の医師と伝統医学の医師免許が異なるのに対し、我が国では医師ライセンスは一つである。
明治政府は、医制を布いた1968年3月、数百年にわたってわが国の医学を支配してきた漢方に代えて、西洋医術の長所を採用すべきことを宣明し、近代医 学教育のため、東京、大阪、長崎に官立の医学校を開設した。導入する西洋医学はドイツ医学と英国医学の優劣が議論されたが、最終的にドイツ医学が導入さ れ、数ある漢方医の団体は姿を消した。1874年には西洋七科(理科,化学,解剖,生理,病理,薬剤,内外科)を定める新医制が布かれ、1883年には医 術開業試験規則および医師免証規則を定めていった。これに対し温知社を中心とした漢方団体はさまざまな抵抗運動をし、政府議会への請願を行ったが、最終的 に漢方医側提出の医師免許改正法案が議会で否決され、さらに指導者の相次ぐ逝去に伴い、明治三十五年(一九〇二)には漢医存続運動は終焉してしまう。いわ ば長い伝統を有する自国の医学である漢方を、富国強兵・脱亜入欧の政策の中で棄て去ったともいえる。
しかしながら漢方は少数ながら綿々と医師・薬剤師が継いできて、1976年に大々的に医療用漢方製剤の登場を見るのである。日経メディカルの調査による と、現在では医師の8割が漢方を日常診療に用いるほど普及している。一見順風満帆のように見えるが、これを継続・発展していくためには多くの課題があり、 国の施策としても重要と考えるので、本稿を記し多くの人の目に触れることを期待する。
1. 日中韓を中心としたアジアの学術連携の強化
世界保健機構西太平洋事務局WHO/WPROでは、東アジア伝統医学がもはや地域の伝統医学に止まらず、世界的なニーズが高まっている中、効率よくグロー バル化を推進するため伝統医学に関する西太平洋地域の調和を図ることを計画した。現在までに経穴(ツボ)の標準化、伝統医学用語の標準化などが結実してい るが、現在伝統医学分類の作成が進行している。日中韓を中心とした5回(第1回 2006年5月北京、第2回 2006年1月、つくば、第3回 2006 年6月 ソウル、第4回 2007年3月東京、ワーキンググループ会議 2007年8月ブリスベン)の会議を経て、東アジア伝統医学分類 (international classification of traditional medicine (ICTM EA)アルファ版を作成した。ICDを管理する組織はWHO family of international classification (WHO-FIC)であるが、2006年10月にチュニジアのチュニスで行われた会議において本プロジェクトの代表が東アジア伝統医学疾病分類についてそ の計画を発表し、継続審議していくことが決定され、2007年イタリア・トリエステで行われた会議においてアルファ版を関連分類として、国際疾病分類ファ ミリーの一員にする方向性が示された。
この東アジア伝統医学分類の内容は1)伝統医学病名、2)「証」の二つから成る。伝統医学病名は疾病の側からの見方であり、西洋医学的病名と共通するも のも多い。ただし多くは身体に表れる症状を重視したもので、西洋医学に見られるような病理学的概念は稀である。伝統医学ではあくまでも体全体を体系的に見 ることが重要であり、各臓器、器官はつながりを持っており、部分に分けられないという考えである。もう一つの「証」は西洋医学には全く存在しない概念であ り、個人の持つ体質や疾病に対する抗病反応を重視した概念である。中国では伝統的に用いられたものが近年になって再編成され、現在では「八網弁証」として 約800存在する。韓国では四象医学の概念が盛り込まれている。わが国では江戸時代の漢方医学の先哲らがそうした理論的な概念を排除してきた歴史があり、 虚実、気血水など証は限定されている。むしろ症状や所見が重視されてきた伝統があり、ことに腹部に顕れる所見(腹症)は治療決定にヒントを与えるものとし て重要である。こうした各国における事情を勘案して作成されたのが東アジア伝統医学分類である。
今後はこの分類の検証作業を進める予定にしているが、そのためには研究費が必要である。こうした国際活動に対する研究費はなかなか理解が得られないのがわが国の実情であるが、是非ともアジア独特の医学の検証作業に研究助成がつくことを期待する。
2. 科学的および医療経済的知見の蓄積
アジア諸国がまとまる必要性の理由としては、まだまだ世界規模でみると西洋医学が主流であり、東アジア伝統医学が認知されていくためには科学的根拠ならび に臨床的エビデンスが不可欠である。米国では1992年に米国衛生研究所(NIH)内に補完・代替医療オフィスができ、1998年に補完・代替セン ター(national center of complementary and alternative medicine)ができて以来研究予算は年々増大し、現在1億2000万ドルほどの年間予算がある1)。そのほかに、国立がん研究所(national cancer institute)ではoffice of cancer complementary and alternative medicine (OCCAM)を1998年に開設し、こちらも1億2000万ドルほどの予算を有しており2)、この二つを合わせると年間2億4000万ドルほどの予算と なる。こうした予算で行われている研究は非常に質の高いものが多く、North American Research Conference on Complementary and Integrative Medicine3)では最新テクノロジーを駆使した研究成果が報告される。
最近の米国の動きでもう一つ特記すべきことは、NIHおよびFDAが数ある補完・代替医療の中でも伝統医学をwhole medical systemsとして他のものと区別し、西洋医学と同等に体系だった医学として位置づけたことである。
こうした世界の動きに対し、中国、韓国は政府主導で伝統医学の国際戦略を立てているのに対し、残念ながらわが国にはそれがない。まずは政府に専門部局が ない。中国の場合、国家中医薬管理局はおよそ70名が働く伝統医学専門の政府機関であり、厚生省にあたる衛生部の傘下にある。こうした機関は日本に存在せ ず、研究費も限られているために、中国や米国のような大胆な科学的推進ができず、世界の潮流から遅れを取っている。
漢方医学における日本発のグローバルスタンダードを発信してゆく為にも、従来以上に的確な基礎的メカニズムの解明、臨床研究とそれらを基にした予防効果・治療効果・相乗効果・経済的効果などを検証するための研究助成の増額や人員配置上の措置が必要である。
3. 世界へのハブとしての国内漢方医療拠点の創設
現在医師の8割が漢方を用いていることは前述したが、それに対する卒前教育の整備を求める声が高まり、2001年に文部科学省の作成した医学教育モデルコ アカリキュラムで漢方教育の必要性が盛り込まれ、我が国に80ある医学部・医科大学すべてに漢方教育が導入されるに至っている。しかしまだまだ教員養成が 追いつかず、きちんとした診療・研究・教育といった機能を有している大学は少ない。
明治以来衰退していた漢方を支えてきたのは開業医師と薬剤師であったため、大学レベルでの学問としての漢方医学はまだ未整備である。漢方医学発展のため には大学レベルでの「漢方医学」講座を充実させる必要がある。大学医学部における講座設置を進めると共に、研究・教育に資する人材育成や漢方診療、大規模 臨床試験実施等における中核的機能を有する施設を地域毎に指定し、地域漢方医療拠点として整備する。この拠点施設は海外からの研究者の受け入れや、海外へ の情報発信も担う。
4. 国内生薬栽培の奨励政策および自給率向上
漢方医学が永続的に発展していくための大きな課題は生薬原料の供給である4)。生薬資源には限りがある。わが国では農家の老齢化や人件費の高騰などによ り、栽培地をどんどん中国に移していった経緯がある。その結果現在の原料生薬の国内自給率は約14%であり、生薬全体の80%を中国からの輸入に依存して いる。一方、国内での漢方薬販売数量は2004年以降増加基調であり、今後も高齢化率の上昇等により更なる需要の増大が見込まれている。また諸外国におけ る漢方医療の再評価・需要増の傾向や人民元の為替相場推移(元高基調)からも、今後の原料生薬の需給関係や調達見通しは厳しい局面を迎えることが予測され る。漢方薬の供給の安定を図る為、また製剤の安全性を更に高める為にも、国内自給率の向上、栽培奨励政策は重要な柱であるといえる。
生薬自給率の向上は食の自給率向上政策とリンクした形で行われるのが好ましい。休耕地の有効利用を農作物と連結して計画することが必要である。生薬の多 くは山間地の農地が適しており、またあぜ道で栽培可能な生薬も多々存在する。また、戦後の森林政策の誤算から荒れた杉林が多く存在するが、黄連などの生薬 は杉林の中に半野生で栽培可能であり、総合的な森林、農業政策の中で議論されるべき問題と考える。
5. 農業ODAによる甘草・麻黄の確保と砂漠化防止
生薬の自給率向上には時間がかかり、農業政策とのリンクにしても時間を要する。しかしながら生薬資源の問題は近々の問題でもある。生薬の中でも特に資源問 題になっているのは甘草と麻黄である。どちらも内蒙古を中心とした中国北部の乾燥地帯が収穫地である。両者は野生品の乱獲による砂漠化が深刻な問題となっ ている。乾燥地帯で土が硬いために掘り起こした穴がそのままの形で残ってしまい、新たな植物が生育しない。計画栽培で行えばいいと思うのであるが、現地の 経済状況は必ずしも豊かではないため、生活のために乱獲してそのまま、ということが多いようである。麻黄などは地上部しか使わないので、根を残して地上部 を収穫すればまた生えてくるのであるが、簡単に根こそぎ取れてしまうため、手間暇かけるよりは安易な方法で根ごと抜いてしまうのである。
甘草に関しては日本で用いている漢方製剤の7割に用いられており、甘草の供給なくしては漢方の存続・発展はありえない、と言っても過言ではない。わが国に とっての生薬の安定供給と中国国内における砂漠化防止政策とで相互協力ができるような協力ができれば理想的である。農業ODAなどによる互恵関係が築ける よう推進すべきである。
さいごに
漢方医学をめぐる諸問題への対応策提言を述べてきたが、年々世界からの需要が高まる一方で、決して安定した発展が約束されたものでないことがご理 解いただけたであろうか。その一方で、こうした世界的潮流への対応ならびに安定発展のための生薬資源の確保はどちらも急務である。
そのためには中国を中心とした東アジア諸国の連携が必要である。その際にWHOで行ってきた活動のようにお互いの違いを認めつつ協力することが必要であ る。とかく東アジア伝統医学の分野で中国は自国中心の論理で物事を推進しようとする傾向にある。確かに東アジア地域の伝統医学の発祥の地は中国であり、韓 国、日本はその恩恵に預かっているのであるが、古代中国国家、特に前漢、後漢の時代はヨーロッパにおけるラテンのようにアジア全域の文化のルーツのような ものである。伝統医学も古代中国を起源としているが、長年の歴史の中でそれぞれの国の事情に合わせて変化を遂げてきている。特に医療はそれぞれの国におい て制度が異なるために、一元化することは不可能である。例えばWHOで診療ガイドラインを作成しようとしたことがあった。しかし癌の治療一つとっても日本 では医師ライセンスが一つであり、最先端西洋医学治療と伝統医学治療を組み合わせて治療するため、他国の事情と合わない。結果としてガイドラインの作成を 断念した経緯がある。
こうしたお互いの国の事情の相違を尊重しながらも立場的に弱い伝統医学の協力関係を築くことが重要である。こうした状況下で、知の創出から研究成果の社 会還元と「知の創造」から「研究成果の社会・国民への還元」までを、総合的に推進する科学技術振興機構の担う役割は大きい。アジア・アフリカ科学技術協力 の戦略的推進などはどうしても革新的技術に目が行くが、東アジア伝統医学も立派なアジアの知的財産である。その発展にも是非ともご理解・ご支援を賜れれば 幸いである。
(参考)
- 米国国立補完・代替医療センター http://nccam.nih.gov/
- 米国国立がん研究所 がん相補代替医療事務局 http://www.cancer.gov/cam/
- 北米補完・統合医療研究学会 http://www.imconsortium-conference.org/
- 21世紀漢方医学フォーラム「生薬資源を考える」 NPO健康医療開発機構、NPO日中産学官交流機構、慶應義塾大学医学部漢方医学センター共催
http://www.tr-networks.org/usr/NPO-usr-504-035.html