【21-33】【近代編26】イオ・ミン・ペイ~ルーブル美術館のピラミッド設計者
2021年12月13日
林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長
<学歴>
昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業
<略歴>
平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)
はじめに
今回は、パリにあるルーブル美術館の入り口になっているガラスと鋼鉄製のピラミッドを設計したイオ・ミン・ペイを取り上げたい。ペイは広州に生まれたが、学生時代に米国に渡り、以降米国に本拠を置いて世界的な建築家として活躍した。ペイは、日本の丹下健三に先立つこと4年前の1983年に、建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞を受賞している。
父親は著名な銀行家
イオ・ミン・ペイ(Ieoh Ming Pei、貝聿銘)は、1917年中国南部にある広東省の広州に生まれた。父親の貝祖貽は、江蘇省蘇州の地主の家に生まれ銀行家として名をなした人であり、ペイが生まれた時は中国銀行の広東支店長であった。貝祖貽はその後順調に出世し、1938年に中国銀行副頭取に就任している。
生い立ちと教育
ペイは、生まれて一年後に父に連れられて英国領の香港に渡り、以降香港で少年時代を過ごした後、10歳となった1927年にやはり父の転勤で上海のフランス租界地に移動している。上海では、キリスト教系の大学(セント・ジョンズ大学)附属の中学に通い、ビリヤードに興じバスター・キートンの映画を楽しむなど、外国文化を満喫した。
米国での教育
1935年17歳となったペイは、米国に留学する。学費を支出した父は、自らと同じく実業家にするため金融学を学ばせようとしたが、ペイはこの父の意向を無視してペンシルベニア大学で建築学を専攻した。ところが、同大学ではギリシャ・ローマ建築物を模範とするボザール様式の建築学が主流であったため、これに嫌気が差したペイは同大学を退学。マサチューセッツ工科大学(MIT)に移り、専攻も建築学から工学に変更した。しかし、MITの学部長はペイの非凡なデザイン能力を見抜き、再び建築学を専攻するように説得したため、ペイはMITで建築学を学ぶことになった。MITでもボザール様式の建築学が主流であったが、ペイは同大学の授業とは別にル・コルビュジェとフランク・ロイド・ライトに強い影響を受けている。
1940年、ペイはMITを卒業し、民間の設計事務所で製図工の職を得た。1942年、中国系の女性であるアイリーン・ルーと結婚し、アイリーンの知人であったハーバード大学教授の誘いで同大学のデザイン研究科修士課程に入学した。しかし、第二次世界大戦の影響を受け、休学して国防関連機関に勤務した。戦後、1945年にハーバード大学に復学し、ヴァルター・グロピウスらにモダニズム建築を学んだ後、1946年に同大学より建築学の修士号を取得している。
建築家として独り立ち
ペイは、修士号の取得後もハーバード大学に残り教職に就いたが、1948年にニューヨークの不動産王ウィリアム・ゼッケンドルフの招きにより、傘下にあったウェッブ&ナップ社の建築家として働き始めた。同社でペイは、アパートの設計やアトランタの石油会社の設計などで頭角を表し、ハーバード大学デザイン研究科の卒業生をアシスタントとして採用し顧客の要請にチームで対応して、多くの都市再開発を手がけた。1954年に米国市民権を得ている。
1955年にはイオ・ミン・ペイ&アソシエイツという会社を設立し、ゼッケンドルフとの関係を維持しつつ他の会社の建築設計を請け負うことになった。しかし、ゼッケンドルフが経営している会社の資金悪化に伴い、ゼッケンドルフとの関係を徐々に解消し、1965年にはイオ・ミン・ペイ&アソシエイツをイオ・ミン・ペイ&パートナーズと改名し、完全に独立した自らの設計会社としてスタートさせた。
数々の著名な建築物を設計
ペイの建築設計の特徴は、石やコンクリート、ガラス、鉄などの抽象的な形、素材への依存である。彼は、建築は時代を反映させるべきではなく、また商業的な力からも距離を置くべきだとしている。とりわけ、ガラスを中心とした建築物の構築が得意とされ、シャープで幾何学的なデザインで有名である。作品の作風から「幾何学の魔術師」との異名を持っている。
彼の生涯の主な作品をいくつか列記すると、米国大気研究センター(NCAR、米国コロラド州デンバー、1967年)、ジョン・ハンコック・タワー(米国マサチューセッツ州ボストン、1973年)、ナショナル・ギャラリー東館(米国ワシントンD.C.、1978年)、ジョン・F・ケネディ図書館(米国マサチューセッツ州ボストン、1979年)などがある。
米国大気研究センター
ジョン・ハンコック・タワー
新中国との関係
米国ニクソン大統領が1972年に北京を訪問し米中間の交流が再開されると、ペイは1974年に米国建築家協会の代表団の一員として新中国を訪問する。1935年に米国に留学して以来、39年ぶりの故郷への帰国であった。
1978年には、北京の西郊外の香山公園内に建設予定のホテル「香山飯店」の設計を依頼される。325室の客室と4階建ての中央アトリウムを備えたホテルは、周辺環境や自然フィットするように設計され、1984年に完成している。
香山飯店
さらに1982年にペイは、新たなプロジェクトとして中国銀行の香港支店ビルの建設を依頼される。すでに述べたように、ペイの父貝祖貽は、新中国建国前に中国銀行の副頭取を務めている。当時父貝祖貽は89歳になっており、息子のペイと一緒にニューヨークに住んでいた。ペイは、父親とも話し合ってこの建築設計の依頼を引き受け、1990年にこの建物は完成している。さらにペイは、北京長安街で故宮の西に位置する中国銀行本店の設計にも当たっている。
これらの功績によりペイは、1994年に上海にある同済大学より名誉博士号を授与され、また1996年に中国工程院の外国籍院士に就任している。
ルーブル美術館のピラミッド
ペイの建築設計を語る上で、パリのルーブル美術館のピラミッドを外すことが出来ない。1981年、ミッテラン・フランス大統領(当時)は、ルーブル博物館の改修を思い立ち、米国ワシントンのナショナルギャラリーなどの実績を元にペイを改修の設計者の一人に指名した。ペイは、中庭にガラスと鋼を材料としたピラミッド状の入口を新たに作成する設計を提案した。
ルーヴル美術館のメイン・エントランス
当初この設計はパリ市民の批判と苦情にさらされたが、シラク・パリ市長(当時)の提案で実物大のピラミッドモデルを実際に中庭に設置してパリ市民に公開したところ、批判が緩和された。1989年にこのピラミッドの入り口は完成し、現在も使用されている。このルーブル美術館のピラミッドは、ペイの最も有名な建築物となっている。
プリツカー賞などの受賞
半世紀以上にわたる活発な建築設計活動の成果により、ペイは建築関係の重要な賞を数々受賞している。いくつか列記すると、米国芸術・科学アカデミー・アーノルド・ブルンナー記念建築賞(1963年)、米国芸術・科学アカデミー・ゴールドメダル(1979年)、高松宮記念世界文化賞(1989年)、王立英国建築家協会・ゴールドメダル(2010年)などである。
1983年にペイは、建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞した。審査員は、「イオ・ミン・ペイは今世紀に最も美しい内部空間と外部形態のいくつかを創作した。使用される素材の多様性と手法は詩のレベルにある。」と、授賞理由で述べている。
晩年
1989年72歳となったペイは、事務所名をペイ・コブ・フリード&パートナーズに改称して事務所の代表を退き、規模の小さな仕事など自ら選りすぐった仕事に専念している。2019年ペイは、ニューヨーク州にある自宅で死去した。102歳であった。
参考資料
- マイケル・キャネル著、松田恭子訳「ルーブルにピラミッドを作った男 I・M・ペイの栄光と蹉跌」 三田出版会、1998年
- 高松宮記念世界文化賞HP
- プリツカー賞HP