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【20-028】北京唐辛子物語

2020年11月19日

斎藤淳子(さいとう じゅんこ):ライター

米国で修士号取得後、北京に国費留学。JICA北京事務所、在北京日本大使館勤務を経て、現在は北京を拠点に、共同通信、時事通信のほか、中国の雑誌『瞭望週刊』など、幅 広いメディアに寄稿している。

 伝統的には唐辛子と無縁の北京だが、いまでは四川のピリ辛料理が街中に溢れ、レストランの卓上は唐辛子で真っ赤になっている。

 中国語には、乱暴を意味する「溌(ポ)」に辛いの「辣(ラ)」を組み合わせた「溌辣(ポラ)」という形容詞がある。これは主に「度胸があり、きびきびとして有能な」という非常に良い褒め言葉として女性に使う。唐辛子文化ならではの表現で面白い。

 ところで、辛さは甘味や酸味などの味覚とは違うのをご存知だろうか。辛さは「痛み」の感覚で、それを緩和しようとして脳が出す物質の快感効果で、おいしく感じるらしい。辛さが癖になるわけもそこにある。

 この辛さが北京人をどの位虜にしたのか見てみよう。中国版「食べログ」に相当する「大衆点評」によると、北京の各種レストランのうち、北京料理店は約5,700店止まりなのに対し、四川料理店は約9,400店もある。広東料理や上海料理はその7分の1以下と足元にも及ばず、四川の強さは断トツだ。また、四川料理は家庭料理のお店のメニューにも必ず入っており、いまや北京人の食卓に深く入り込んでいる。

 しかし、北京の庶民が手軽に四川料理を食べようになったのは外食が一般化した90年代以降のことでまだ日は浅い。そのため、50歳後半以上の純粋北京人は辛いものが苦手な人も多い。

 歴史的に北京の四川料理店を遡ってみると、北京初の店は1950年開業の峨眉酒家と言われる。名物の「鶏肉とナッツの唐辛子炒め(宮爆鶏丁)」は辛さを抑え北京風に改良してあるが、元々は、北京生まれの京劇役者、梅蘭芳のためのアレンジだったらしい。同店は作家の老舎や画家の斉白石など北京の文化人たちからも愛され、今もって健在だ。

 また、北京の四川料理といえば四川飯店がある。故陳松如・料理長の回顧録によると、同店は1959年に周恩来首相が里の味を恋しがる四川出身の要人たちの要望に応えようと開設した。同店のオープニングには開店仕掛人の周恩来首相のほか、朱徳(元副主席)、陳毅(元副首相、外務大臣)、鄧小平(元主席)、郭沫若など多数の四川人政治家たちが参加した。

 その際、朱徳は「辛いのが苦手な人のために辛さを抑えようという声があるが、それはだめだ。文句がある人には私が対応する」と、生粋の四川の激辛風味を堅持するよう力説したそうだ。唐辛子を食べない北京で彼らが故郷の激辛四川料理の再現を熱望していたであろうことは想像に難くない。

 それから約40年経った後の97年に筆者が同店で食事をした際もその味は健在だった。当時の北京では北京ナイズされていない四川料理はまだ珍しく、すっかり魅せられた私は2日連続で日参したほどだ。同店は今も新街口で暖簾を守っている。

 その頃から、高度経済発展の幕が開き、北京にも大量の外省人が到来した。2012年ごろまでの約20年間で北京市の人口はほぼ倍増し、四川料理も急速に普及した。

 2000年代には唐辛子と花椒で覆われた魚料理の「水煮魚」が北京に上陸し大ブームとなる。若者の間では激辛料理を皆で汗をかきながら食べるのが「クールでカッコ良く(=「酷」に)なった。その後も四川風焼き魚や重慶火鍋、麻辣香鍋など四川料理ブームは続き、いまではすっかり定番化しつつある。

 北京のピリ辛料理の興隆からは、全国の人や味を存分に吸収しながら発展する北京の移民都市の一面も見えてくる。

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辛さは味覚ではなく「痛み」の感覚だが、脳が出す快感効果でおいしく感じるという。取りつかれるように必死に食べた後、妙にスッキリしてしまうのが激辛料理。北京の四川料理の歴史はまだ浅いが、90年代以降、真っ赤な唐辛子は北京のテーブルを席巻している。


※本稿は『月刊中国ニュース』2020年12月号(Vol.106)より転載したものである。