【21-005】1978年よ、永遠なれ
2021年06月24日
瀬野 清水(せのきよみ):前日本駐中国重慶総領事
略歴
1949年長崎生まれ。75年外務省に入省してから北京、上海、広州、重慶、香港などで勤務、2012年に退職するまで通算25年間、中国に駐在した。現在、MarchingJ財団事務局長のほか、アジア・ユーラシア総合研究所客員研究員、日中協会理事なども務めている。共著に『激動するアジアを往く』、『108人のそれでも私たちが中国に住む理由』などがある。
人に大きな転機があるように、国にもいくつかの転機がある。1949年に誕生した中国にも数えきれない転機があり、中でも1978年は最大の転機であったに違いない。前年の7月、鄧小平氏が政権に再度復活したのをきっかけに、建国後最大幅といわれる給料値上げを断行、思わぬ収入の増加で1978年の春節は大いに賑わった。市中に金が流れ出すと長年停滞した経済も息を吹き返したように動き始める。そんな余勢をかって、この年の2月、5期全国人民代表会議(全人代)第1回会議が開催された。全人代は任期5年、憲法の規定で毎年1回開催されることになっているが、1954年9月に第1期代表会議が開催されて以来、「文化大革命」混乱期の66年から74年にかけて開催されることはなく、その後も75年に開かれただけだった。3年ぶりの開催となる全人代は鐘や太鼓や大書のスローガンで、上海の街は慶祝ムードに包まれた。そして、この年の暮れには中国共産党の「第11期中央委員会第3回全体会議」(三中全会)が開かれ、今日の大発展の淵源となる「経済体制改革」と「対外開放」を同時に進める改革開放政策が採択されたのである。
1978年2月、3年ぶりに開かれた「第5期人民代表会議」に上海の街はお祭りムードに。南京路からバンド(外灘)まで連なるパレード。
1978年の沸き立つような高揚感に満ちた1年は、鄧小平氏の強いリーダーシップを抜きにしては語れない。鄧小平氏は、人々に時代が変わったことを気づかせるには文化の力によるショック療法が必要だと考えたのではなかろうか。この年の春、中国政府はピエール・カルダン氏を招き、パリの最先端のファッションショーを北京で行った。紺と茶と灰色の人民服が当たり前の時代に、肌を露出した、カラフルなデザインの服飾は北京の人の度肝を抜いたに違いない。日本からは小澤征爾氏が招かれ、北京で中国中央楽団を指揮してブラームスの交響曲第2番を演奏している。松山バレエ団もこの年、本格的な西洋のバレエを持ち込み、北京で公演した。長年禁じられてきた西洋の音楽に人々は時代の変化を感じたに違いない。
この年の7月には、途絶えていた全国大学入学試験も10数年ぶりに全面回復した。約600万人の受験生から27万3,000人が合格し、前年の試験的な統一試験とともに大学の狭き門を突破した学生は「77班」「78班」などと呼称され、優秀な学生の代名詞となっている。文学の世界でも、文革時代の教育現場の混乱を描いた「班主任」(クラス主任)などの作品で注目を集めた作家、劉心武は短編小説「愛情の位置」を発表し、タブー視されていた男女の恋愛や愛情表現にはもっと然るべき位置を与えられてよいことをテーマにした。今では当たり前過ぎるが、長年、政治闘争に明け暮れてきた当時は、思想が解放されるとはこういうことかと思わせる瞬間でもあったのだろう。この小説が放送されたとき、都会でも農村でも大勢の人が仕事の手を休めてラジオの周りに集まったという。
この年の8月12日には、懸案であった日中平和友好条約が締結され、同年10月、鄧小平氏が副首相として日本を訪問した。日本では、同条約の批准書を交換するとともに、松下電器、新日鉄、日産自動車などの工場を視察し、自動化が進んだ設備や生産ラインが中国にも紹介された。鄧小平氏が移動するたびに映像で映し出される背後の高架道路やビル群に、戦後の焼け野原からわずか30年でここまで到達した日本に、中国の進むべき道を重ね合わせたに違いない。
日中平和友好条約の発効を慶祝して中国初の「日本映画週間」が10月26日から約1週間、北京、上海、天津、広州、武漢、成都、瀋陽、西安の8都市で開かれ、『君よ憤怒の河を渉れ』(中国名『追捕』)『サンダカン八番娼館・望郷』『キタキツネ物語』の3作品が上映された。中でも『君よ憤怒の河を渉れ』は空前の大ヒット作となった。冤罪で司直に追われる身となった高倉健さん扮する杜丘と中野良子さん扮する真由美との恋愛シーンが『愛情の位置』の小説と重なって、改革開放には先ず思想を解放することが必要だと映画の力で気づかせた違いない。上海で開かれた舞台挨拶には熊井啓監督をはじめ、栗原小巻さん、吉永小百合さん、中野良子さん、高倉健さんらが日本から出席している。
(左上)あこがれの吉永小百合さんが後から入って来られたので思わずカメラを向けたらピンぼけに。(右上)吉永さんに続いて入って来られた栗原小巻さん。あでやかなお着物姿でした。
(左下)ファンの要望に応えてサインする中野良子さん。(右下)宿泊先のホテルで。後で中野さんから「この時の写真は少なく、とても貴重」とのお話を伺った。
私はこの転機の1年を上海にいて、上海の若者や庶民と共に呼吸できたことが幸せであった。夏が過ぎるころから上海市の中心にある人民広場にも『大字報』と称する壁新聞が貼られ始め、私は暇さえあればこの壁新聞を見に行くのが楽しみだった。壁新聞は、当時「竹のカーテン」と言われた中国に開けられた小さな窓のようだった。大きな模造紙に毛筆で書かれた壁新聞はあまりにも達筆すぎてほとんど読めなかったが、何度も出てくる言葉については、隣にいる見知らぬ若者を掴まえて「あれはどういう意味?」と聞いた。彼らも壁新聞を読むのに忙しいのか、私が何人でどこから来たかなどを聞くこともなく、たいていは親切に教えてくれた。最初のころは「廬山」「彭德懷」「羅瑞卿」といった地名や人名が、その後は知識青年を意味する「知青」や「下放青年」「上山下郷」という聞きなれない言葉が、そして舞台劇『于無声処』(「声なき処で」)の紹介や名誉回復を意味する「平反昭雪」という言葉が出てきた。広場では徐々に顔なじみの友人もでき、一つの言葉をめぐって一時間でも二時間でも議論をしたり、『于無声処』という劇が上海の劇場で上演されているからと誘われて一緒に見に行ったりした。広場は私には、またとない生きた中国理解の教室でもあったのだ。
上海の人民広場の壁新聞。古い壁新聞の上に新しい新聞が貼られ、そのたびに人が群がった。
そのうち、人民広場に「両個凡是」と「実践是検証真理的唯一標準」という言葉が頻出するようになった。「毛主席の決定や指示には忠実であるべき」とする人たちと「毛主席の言葉といえども実践を通して検証されるべき」と考える人たちの間で、何やら激しい論争があるらしいことなどが分かってきた。背後には、教条主義を脱しない限り改革開放は難しいと考える鄧小平氏の焦りがあることも容易に想像がついた。鄧小平氏は、訪日の際、時速210キロで走る新幹線に乗った時の感想を聞かれて「速いね。まるで誰かに後ろから急かされているようだ」と言って周囲を笑わせた。東京で目の当たりにした現代化のイメージを、如何にして中国人の心に訴えるかを考えると、当時74歳の鄧小平氏にとっては、自身の残り少ない人生の時間との競争であったに違いない。「誰かに後ろから急かされているようだ」というのは新幹線の速さになぞらえた同氏の偽らざる心情だったのではなかろうか。
中国にとって転機の年は原点の年でもある。日本にとっても、名称に「平和友好」の4文字を冠した世界でも稀有な条約を中国と結んだ1978年は、常に回帰すべき原点であろう。あのころ壁新聞を前に同じ人間として熱い議論を交わした広場の青年も43年後の今ではすっかり老境に入ったが、私たちは今でもあの時と同じように友人であり、時々電話をしては旧交を温めている。中国が大きく変わろうとした1年。日中両国が「平和友好関係を強固にし、発展させる」(条約前文)と固く決意した1年。1978年よ、永遠なれと祈っている。
(左上)日中平和友好条約の発効を記念して開かれた第1回日本映画週間。(右上)往年の大女優、白楊さんが司会を務めた。右後ろの男性は若き日の高倉健さん。
(左下)日本映画週間後の打ち上げパーティーで上海の映画関係者と。白楊さん(右から3番目)の右の男性は俳優の趙丹さん。一番右が筆者。(右下)写真の左から白揚さん、栗原小巻さん、吉永小百合さん、中野良子さん、高倉健さん。記者も思わず舞台にあがって興奮気味。
(写真/瀬野清水)
※本稿は『和華』第29号(2021年4月)より転載したものである。