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【19-009】「あおり」運転、中国と日本の違いと中国社会の変化

2019年9月17日

和中 清

和中 清: ㈱インフォーム代表取締役

昭和21年生まれ、同志社大学経済学部卒業、大手監査法人、経営コンサルティング会社を経て昭和60年、(株)インフォーム設立 代表取締役就任
平成3年より上海に事務所を置き日本企業の中国事業の協力、相談に取り組む

主な著書・監修

  • 『中国市場の読み方』(明日香出版、2001年)
  • 『中国が日本を救う』(長崎出版、2009年)
  • 『中国の成長と衰退の裏側』(総合科学出版、2013年)
  • 『仕組まれた中国との対立 日本人の83%が中国を嫌いになる理由』(クロスメディア・パブリッシング、2015年8月)

中国の車社会における「路怒症」

 最近日本では車の「あおり」運転が話題になる。「あおり」運転から暴力事件もたびたび起きる。そこまでいけば病的で動物的ですらある。いや犬や猫や馬はもっとやさしいので動物にも失礼か。運転をめぐるトラブルは日本だけでなく中国でもある。

 中国では「路怒症」と呼ばれているが、これは英語の"Road Rage"からきている。運転手同士が路上で喧嘩して相手を脅したり、傷つけたりする行為をそう呼ぶ。車社会の進展で話題の言葉である。

 先日も重慶で車同士のトラブルで赤いフェラーリの30代と思われる女性が相手の男性の顔面を平手でなぐり、その映像がネットに拡散した。女性は個人で事業をして、夫が公安局の処長だったので憶測を呼び、人民日報が憶測に注意を呼びかけたほどだ。

 北京ではロールスロイスの女性が病院の入り口で守衛とトラブルを起こし、車が長時間通路を塞ぎ、救急車も通れず問題になった。しかもその車のナンバープレートが「京A88」で始まる特権を想像させる特殊ナンバーだった。女性の夫は民営企業経営者で「京A88」のナンバーは他人のナンバープレートを高額で借りて自分のロールスロイスで使用していた。北京も上海も深圳も車の購入制限を続けており、ナンバープレートは権利のようなものになっている。北京でも他人が持つ廃車のナンバープレートの貸借が行われ、貸した人は年間、何万元かの使用料を受け取るケースも珍しくはない。そんな事情を思わせる車だったため、憶測も拡散し、公安局が調査を行い、女性も数日間拘置された。

 また最近、河南省で、大学卒業間もない女性が、親に買ってもらった高級車を酒酔い運転し、何台かの車にぶつけ、ぶつけられたBMWが炎上して乗っていた二人が死亡する事件もあった。

 重慶では、バスの乗客の女性が、停留所でないところに無理にバスを止めさせようとして、拒否した運転手の頭を携帯電話でなぐり、バスが川に転落して多くの乗客が亡くなった。

 十数年以上前、やはり重慶の万州区で女性が野菜販売員にビンタをくらわせ、大きな事故の発端になった。このように中国でも車をめぐるいざこざ、事件はよく起きる。

中国社会は変化している

「路怒症」が話題にはなっているが、昔と比べて路上の喧嘩は少なくなった。昔は車を持つ人に優越感や特権意識もあり、自転車で傷つけられたり、行く手をふさがれたりで相手を罵ったり、殴ったりする事件がよく起きた。また、農村から都会に出てきた人は都会のルールや習慣もわからず、信号を無視して道路を渡る人も多く、そんな人に対するイライラがつのり路上で喧嘩になった。そこにたくさんの人垣もできた。

 しかし今は社会が変わった。道端での人垣もめっきり少なくなった。

 中国は法治社会に向かっている。人を殴れば刑事事件になり、殴った人は拘置され、高額な罰金も支払う。街には監視カメラもあり言い逃れもできない。「京AA」のような特権をチラつかせて事件をもみ消しにできない時代である。ネット社会の映像が拡散すればもみ消しは重大な社会問題になる。何より現政権の理念と対立する。

 さらに車は一部の人の特権や優越感の対象でもなくなった。誰でも持っているし、保険もある。農村すら車社会に入ろうとしている。少しくらい自転車にぶつけられたくらいで大騒ぎをする人も少なくなった。経済成長で中国人に心のゆとりも生まれ、比例して路上での諍いは減少した。路上での車をめぐる事件を見ていると中国社会の変化がよくわかる。

「あおり」運転は日本よりはるかに少ない

 中国人の車の運転は日本人とだいぶ違う。強引な車線変更は日常的である。割り込みにいちいち手を挙げてお願いする人はほとんどいない。隙間に先に入った方が勝ちである。日本では喧嘩沙汰になるような運転も、多くの人は気にしない。また案外、事故が起きない。急な割り込みを予期して運転しているからである。

 日本でも「あおり」運転が暴力沙汰になることは珍しいだろうが、執拗に前の車をあおる行為は中国より日本の方が圧倒的に多い。

 中国では高速道路の追い越し車線を、スピードを出さずゆっくり走る車も多い。そんな時、後から追いついた車は、自ら走行車線に車線変更し、前の車を追い越して、また元の追い越し車線に戻る。クラクションを鳴すこともあるが、効果がなければ車線を変更する。執拗にあおり続ける車は殆どない。

 どうして日本と中国では違いがあるのか。単なる「あおり」運転だが、そこに国民性や社会習慣の違いがあると思う。

無駄なことに関わらず実を求める中国人

 中国社会のルールの順守度は日本より低い。信号に関係なく思い思いに道路を横断する人、走行中に急な車線変更をする車、割り込み運転は日常的である。追い越し車線、走行車線の決まりはあるが、中国ではあまり意識しない人も多い。

 だからルールを外れる人に怒ってもきりがない。お互い様である。いちいちあおっていては身が持たないし、いつまでも目的地に着かない。自ら車線を変更する人の心理は、そんな些細なことに関わるのは時間の無駄、ということだと思う。

 それは今の中国社会を象徴している。元来、中国人は実事求是で虚を捨て、実を求める合理精神が強い。「あおり」をしても何も得ることはない。無駄なことにエネルギーを使うより実のあることに費やすべきだ。この忙しいのに無駄な時間を使いたくない。そんな思いの人が大半だろう。言い換えれば中国社会が忙しく動いているということでもある。

 皆が明日を思い、実利を求め動きまわっている。だから「あおる」意識そのものが中国人には働かない。

柔軟かつ「求同存異」の社会

 さらに日本社会と違い中国社会は多様である。「人それぞれ」の社会である。レールが引かれた日本の社会と違い、レールがない分、自分で道を見つけなければならない。右がだめなら左、押してもだめなら引いてみなで、一本道をまっすぐに進む日本社会と異なる。そこから中国人の柔軟性も生まれる。

 中国人には人生のいろんな場面で柔軟に対応する力が日本人より備わっている。多様な社会がその能力を磨く。だから追い越し車線がだめなら走行車線、柔軟に身を処して進む方向を変えることができる。

 そんな中国人の行動には儒教文化も影響しているだろう。

 『礼記』の「楽記」では「求同存異」(小異を残して大同につく)を説いている。孟子は、「小勇を好むこと無かれ。」と言った。匹夫の勇は些細なことを成しえても大きなことは成し遂げられない。中国人の「あおり」のような些細なことに関わって時間を無駄にしないというのは小異にこだわらずに、大同に生きるという儒教の精神も根底にあるのではと思う。

鋳型に押し込む日本社会

 日本はルールが徹底した社会である。社会のルールや習慣から外れた行動は嫌われる。法的に問題にならない些細なことでも社会の枠を外れると冷たい目で見られる。

 筆者はこの30年、ほぼ毎月、日本と中国を往復している。だから両国の習慣の違いを肌で感じる。日本に戻り空港でバスの停留所に行くと、白線が引かれ、係員が「2列に並んでください」と何度も声をかける。それでここは日本だと実感する。

 少し皮肉を込めて言えば、日本は人を鋳型に押し込む社会である。鋳型からはみ出す人を嫌う。日本ではルールに従っていれば文句も言われず無難に過ごせる。自ら注意をはりめぐらさなくても安全で楽に過ごせる。

 日本人は子供の頃から、さらに就職してからでさえ、靴やスリッパの向きまで教えられ育つ。

 そんな社会でルールを乱す人がいれば冷たい目で見られ、批判される。日本では新幹線の車内で赤ちゃんの泣き声まで注意される時もある。乳幼児を連れた母親は肩身の狭い思いをしながら旅行しなければならない。中国では、赤ちゃんは泣くのがあたりまえであり、逆に注意した人が叱られて肩身の狭い思いをしなければならない。

 先日、成都で食事をしていると、10人ほどの日本のビジネスマンが現れた。真夏の成都は暑いというのに、全員ダーク系のスーツ姿である。中国のビジネス社会は冬場でもスーツ、ネクタイ姿は少ない。ましてや真夏である。どうして日本人は柔軟に対応できないのだろうか。人と違えば嫌われ、人の目を気にする日本社会がそこにもあった。

 最近話題となっている女性の靴のヒール問題も同じだ。何故、踵の高さまで決めて仕事をさせるのか。仕事と踵とどちらが大切なのか。人それぞれでいいと思うが、日本では「人 それぞれ」が育ちにくい。

 筆者は、日本企業の対中国ビジネスも同じ問題が潜んでいると思う。中国で柔軟な対応、それぞれの土地にあった対応ができないため失敗するケースが多いのではないか。

 一例では消費行動である。中国社会は夫婦共働きで、祖父母が留守をあずかり買い物もする。彼らは日々の買い物が安く済むよう工夫する。まとめ買いもしない。北京など大都市のバスは無料で、バスに乗り安いものを求め移動し、手に持てる程度の量の買い物をする。車社会ではあるが、実際の消費行動は異なる。そんな中国で日本や米国と同じビジネスモデルは成り立ちにくい。

 中国と比べ、日本は丸い穴に入る丸い人ばかり育てているようにも思う。反骨精神をもち、柔軟な考え方ができる人を育てるべきとも思う。

レールとルールの日本社会

 日本の「あおり」運転にはいろんな背景があるだろう。

 追い越し車線でなぜトロトロ走っているのか、「クソッ」と思う感情もある。道を譲らない、進路を邪魔した、その怒りが執拗な「あおり」にもなる。中国と違い日本では、暇で小さなことに拘る人も多いのかも知れない。

 ハンドルを持てば人が変わるという言い方があるが、車を運転すると、その人の本性が現れると思う。ルール徹底の日本は、人目を気にする社会である。車の外では人目を気にし、本性を抑えて生活する。

 だが、車に戻れば密室なので本性が解き放たれる。

 日本人は中国人より周囲を気にして暮らし、その反動で「あおり」につながるのだろう。日本はルールとレールの社会である。決められたレールの上を規則どおりに進まないと批判の対象になるし、それを外れる人を見ると我慢ができない人もいる。

 中国人のように柔軟に車線を変えることもできずに執拗にあおることにもなる。

 日本で「あおり」が多いのは、小異にこだわる社会のためか、島国のためか、匹夫の勇に生きる人が多いためなのか。些細なでことであるが中国と日本の違いが気になる。

 日本の政治にも「あおり」の心理が働いていると思う。核兵器禁止条約の署名・批准をしないことも「求同存異」とは逆で大同を置き去りにしているし、日韓の問題も双方が「あおり」合いをしているように見える。小勇に走らず自ら車線を変える知恵は働かないのかと危惧する次第である。