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【22-48】生細胞トランスクリプトーム解析技術で低侵襲採取が可能に

刁雯蕙/劉伝書(科技日報記者) 2022年10月03日

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画像提供:視覚中国

 生細胞トランスクリプトームシーケンス技術の中核は、生きた細胞の中の細胞質の一部を低侵襲で採取するとともに、極めて微量の細胞質RNAを増幅させることで、シングルセルRNAシーケンス解析を実現した後に、引き続き細胞の生存と機能を保ち、さらに細胞の動的変化を追跡できるという点にある。

 細胞は生命の基本単位であり、その過去・現在・未来を理解することは、正常な発育の過程を理解するのに役立つだけでなく、疾病の発生と進展を理解する上でも極めて重要だ。しかしながら、細胞の「前世と今世」をはっきり見たいと思っても、これまでは技術的に大きな困難に直面してきた。

 8月17日、中国科学院深圳先進技術研究院合成生物学研究所の陳万沢研究員は共同筆頭著者として、世界トップレベルの学術誌「ネイチャー」に長い論文を発表し、自身の研究チームが世界で初めて開発した生細胞トランスクリプトームシーケンス技術(Live-seq)を紹介した。この技術はひとつの細胞のトランスクリプトーム解析を行った後も、細胞が生存し続けられるようにし、生細胞の全遺伝子発現(トランスクリプトーム)の連続観測を初めて実現した。

 北京大学生命科学学院の湯富酬教授は、「この研究は生細胞トランスクリプトームシーケンス技術を使用して同一の生細胞から複数回にわたって部分的に原形質分離を行い、複数回にわたってトランスクリプトーム解析を行うことを実現した。この技術が今後はひとつの生細胞のトランスクリプトームの一連の変化の動的モデルを構築するのに利用される可能性があることを物語っている。この研究はシングルセルRNAシーケンス解析のために新たな研究ストラテジーを提供し、我々が生命のプロセスの動的変化を理解するために極めて強力な手段を提供しており、この分野における新たな重要ブレークスルーだ」と評価した。

細胞を殺さなくても解析可能に

 人類の体内細胞がもつゲノムはほぼ同じであるのに、一人ひとりのゲノムがそれぞれ異なるのはなぜか。ゲノムの中の数万の遺伝子が発現しているかどうか、発現のレベルはどれくらいかなのかが、細胞の種類と機能を大きく決定づける。

 そのため、細胞の異なる時間における遺伝子発現の変化を知ることができれば、細胞の過去・現在・未来を理解することができる。

 現在、シングルセルRNAシーケンス解析技術は細胞の状態を理解するための重要な手段だ。シングルセルRNAシーケンス解析を通じて細胞が今もっているゲノムの発現状態をはっきり見ることができる。しかしこの技術は細胞の動的変化を知る上では大きな挑戦に直面する。

 陳氏は、「シングルセルRNAシーケンス解析技術を利用して細胞の状態を観測する際の前提として、細胞を分解し、その中のRNAを採取してゲノムごとの発現量を測定することが必要だが、こうすると細胞を殺してしまうことは避けられなかった。シングルセルRNAシーケンス解析技術を使用しても、ひとつの細胞のそのときの状態がわかるだけで、過去はわからず、今後の機能についても明らかにすることができなかった」と振り返った。

 7年近い努力を重ねた結果、陳氏と協力者は生細胞トランスクリプトームシーケンス技術を開発した。その中核は生きた細胞の中の細胞質の一部を低侵襲で採取するとともに、極めて微量の細胞質RNAを増幅させることで、シングルセルRNAシーケンス解析を実現した後に、引き続き細胞の生存と機能を保ち、さらに細胞の動的変化を追跡できるという点にある。

 論文の連絡著者で、スイス連邦工科大学ローザンヌ校のバート・デプランク(Bart Deplancke)教授は、「この技術は全遺伝子発現の解像度と動的な解析能力を兼ね備えており、現時点でシングルセルRNAシーケンスを直接的・動的に測定し、細胞のそのときの状態とその後の表現型をカップリングする唯一のソリューションだ」と述べた。

2回の壁を乗り越え、ついにRNAの採取に成功

 細胞を殺さないことを前提として、細胞の動的な変化を見るにはどうしたらよいか。

 陳氏は、「私たちがまず考えたのはエクソソーム(細胞外小胞)だった。これは細胞が外側に吐き出した小胞で、中にはタンパク質、RNAなどの物質を含んでいる。ひとつの細胞のエクソソームを集めて、その中のRNAを測定すれば、あるいは細胞の状態をある程度反映しながら細胞を殺さないことが可能かもしれないと考えた」と述べた。

 ひとつの細胞にはRNAが10ピコグラム(pg)しかなく、これは1グラムの1千億分の1というわずかな量で、そして細胞が分泌するエクソソームの中のRNAとなるとさらに少なくなる。研究チームは一種のマイクロ流体力学技術を設計してそれによってシングルセルの捕獲、エクソソームの収集などを完成させたが、エクソソームの中のRNAは量が少なすぎて、シングルセルの分子レベルの観測が完全に不可能であることに気づいた。

 その後、陳氏は生命科学分野の非常にニッチな原子間力顕微鏡を利用して細胞の中のRNAを採取することを試みた。この顕微鏡には非常に鋭いシリコンの探針があり、物質の表面の性質を検査・測定する際によく用いられる。研究チームは探針表面の活性化、装飾、溶出などの改良を加えることで、探針が細胞の中のRNAを「つり上げる」ことができるようにした。

 陳氏は、「この探針は非常に細く、細胞への損傷が小さく、まるで釣り針のようで、改良後は細胞の中からRNAを『つり上げる』ことができるようになり、細胞が引き続き生存するよう保証することもできた。私たちは数十本の探針を改良した後、結果的に2つの細胞からRNAを『つり上げる』ことに成功しただけだった。当時、原子間力顕微鏡の探針は1個の購入価格が800ドルで、多大な研究コストがかかりながら、成功率は非常に低く、この状況によりこの研究は再び行く手を阻まれることになった」と当時を振り返った。

 陳氏と指導教員は偶然あった学術交流の中で、スイス連邦工科大学チューリッヒ校のジュリア・ヴォルホルト(Julia A. Vorholt)氏の実験室が特殊な原子間力顕微鏡を開発し、細胞質の一部を採取できるようになったことを知った。

 交流を行った後、陳氏のチームとヴォルホルト氏の実験室は意気投合して、共同研究を行うことになった。共同研究チームは一連の実験プロセスを最適化し、RNAの分解、低温環境でのスピーディな操作、超微量のサンプルの移転、採取ルートの洗浄によるクロスコンタミネーション(交差汚染)の回避、画像による細胞トラッキングなど複数の問題を解決し、実験結果の信頼性を保証した。

 共同研究チームは改良を重ねた生細胞トランスクリプトームシーケンス技術を利用して、5タイプ・計295個の細胞の解析を行い、この技術がさまざまなタイプの細胞を効果的に区分できて、さらに平均すると一つの細胞につき約4112の遺伝子の発現情報を検査できることがわかった。

 少量の細胞質のシーケンスを行うだけで、細胞の状態がわかると言えるのだろうか?

 陳氏は、「私たちは平行してシングルセルRNAシーケンス解析の結果を比較して、生細胞トランスクリプトームシーケンスの結果と一般的なシングルセルRNAシーケンス解析の結果が高度に一致することを発見し、生細胞トランスクリプトームシーケンス技術が細胞のトータルRNAの状態をとてもよく体現できることを証明した」と述べた。

 細胞の生存率をどのように保証するか?

 陳氏は、「このような特殊な原子間力顕微鏡の探針は先端が数百ナノメートルしかなく、細胞への損傷が極めて小さい。約5-50%の細胞質を採取した後、細胞の体積は急速に正常なレベルまで回復でき、生存率は85-89%になり、細胞は正常な分裂を行える。一連の機能の分析と分子の特性化により、私たちは生細胞トランスクリプトームシーケンス技術が細胞の状態に対して著しい影響を与えることを確認しなかった」と述べた。

 これについて、論文の査読者もコメントの中で、「細胞がシーケンスの後も生存し続けるため、生細胞トランスクリプトームシーケンス技術はひとつの細胞の全遺伝子発現の連続計測を初めて実現した」と述べている。

「高解像度の画像」から「高解像度の映画」へ

 細胞観測技術の歴史の中で、顕微鏡写真とゲノム編集が仲介する分子記録などの技術は、細胞の成長、分裂、死亡などのプロセスを観測できるようにしただけでなく、細胞の中のひとつまたはいくつかのゲノムの指標を観測することを可能にした。

 2009年、シングルセルRNAシーケンス解析技術は細胞のタイプと状態をより体系的に全面的に定義するための創造的手段を提供した。しかし人々はまだ細胞の静的な状態を観察するだけにとどまり、細胞の動的な状態または細胞の検査後の表現型を連続観測することはできなかった。

 シングルセルRNAシーケンス解析技術を利用して細胞を観測することを、細胞を分子レベルの高解像度の画像でみることに例えれば、生細胞トランスクリプトームシーケンス技術を利用して細胞を観測する場合は、まるで細胞の高解像度の映画を見るように、細胞の「前世と今世」を見ることができる。

 陳氏は、「生細胞トランスクリプトームシーケンス技術は細胞のどんな過去がその現在を決定するかに答えを出すものであり、細胞になぜ差異が存在するのかがわかるだけでなく、こうした差異がどこから来るのかがわかる」と説明した。

 実証実験の中で、研究チームは生細胞トランスクリプトームシーケンス技術を利用して同じひとつのマクロファージ細胞の時間ごとの状態の変化を直接測定して、細胞が誕生したばかりの状態における少数のゲノム発現の差異と阻害(例えばNfkbia、Gsnなど)が細胞のその後の反応の差異を決定する重要な要因であることを発見した。しかしながら、一般的なシングルセルRNAシーケンス解析技術ではこうした法則を見つけることはできないのだ。

 陳氏は、「生細胞トランスクリプトームシーケンス技術にはなお多くの挑戦が横たわり、さらなる改善が必要だ。たとえば流動性の低さ、体内での応用はしばらく不可能であること、高度に分極化しmRNAの分布の不均一性な細胞の中で細胞のトランスクリプトームシーケンスが実現できないこと、細胞からさらに多くの回数の採取を行うことなどについては、一層の研究が必要だ。それにもかかわらず、この技術は生細胞の連続観測を初めて実現し、シングルセルRNAシーケンス解析技術の発展にもより多くの可能性をもたらした。今後、当チームはより踏み込んだ研究を行い、生細胞トランスクリプトームシーケンス技術の実用可能性を向上させる」と述べた。


※本稿は、科技日報「活細胞転録組測序技術只需微創提取,即可看清細胞"前世今生"」(2022年8月24日付6面)を科技日報の許諾を得て日本語訳/転載したものである。