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【20-01】博士課程から始めた中国での研究生活

2020年1月30日

久保輝幸

久保 輝幸: 浙江工商大学東方語言文化学院・副教授

略歴

東京都出身。2010年中国科学院研究生院(大学院)博士課程修了後、日本の高等学校で非常勤教員として理科を教える。武漢工程大学外語学院校聘教授を経て、2017年秋より現職。東アジアの古典医薬書や農書に掲載される有用植物を調べ、応用を目指す研究をしている。

① 中国で研究活動をすることになったきっかけ何ですか?

 小学生のころ、私は漠然と歴史学者になるという夢がありましたが、学校の成績はあまり振るいませんでした。中高で熱心に指導いただける理科の先生にめぐりあい、その後は地衣類という菌類の生態に興味をもち、大学で生物学を専攻しました。ただ諸般の事情で理系の大学院を断念し、茨城大学で本草学の歴史を学ぶことにしました。2004年、修士課程の卒業後、浙江大学に留学し、初級中国語を4ヶ月学んだあと、同年秋に中国科学院博士課程に入学。こうして中国での研究生活が始まりました。中国科学院は中国語ができない南アジアや北アフリカの留学生も多く受け入れていましたが、本草学など科学と歴史が交錯する科学史研究では、理系の知識に加え、漢文と現代中国語といった言語能力も必要です。指導教員や周囲に支えられながら、論文や本を読み、6年間かけて学位論文を書きました。小学時代の夢が期せずして実現した格好です。中国には、このように自己実現できるチャンスがまだ豊富にあります。

② 研究テーマについて、教えていただけますか?

 日中韓の古典籍に現れる植物名や文化を中心に研究しています。中国や日本の医薬書には同定(比定)が難しい植物名がかなり残されており、それらの正体が分かれば、生薬研究に新たな研究材料を提供できる可能性があります。また、植物名の研究は古典文学の研究においても重要ですので、曖昧に放置できる問題ではありません。8世紀の『出雲国風土記』に産出する植物として「牡丹」が挙げられています。島根県の大根島が今ではボタンの一大生産地となっていますが、日本にボタン(Paeonia suffruticosa)は自生していないので、風土記研究者の間では様々な解釈がありました。

 ところが、研究の過程で、『出雲国風土記』に記載された「牡丹」は今のボタンではなく、ヤブコウジ属の植物だということが分かりました。この頃、ちょうど中国で牡丹の実体にすり替わりが起きていたことも分かりました。今本の偽撰説を否定する証左ともなります。日本にボタン渡来後で『出雲国風土記』を捏造しようとしれば、牡丹を書き加えるようなことはなかったはずです。

 この説は東アジアの文化史や古典文学に影響しますが、それより重要な点は漢方薬や中成薬への影響です。たとえば、「牡丹皮」が配合されている六味地黄丸は、もともと『金匱要略』に記載された処方です。私の研究では、歴史的にみて、ボタンの根が配合されていた可能性が低いことを指摘しました。すると、本来の六味地黄丸にはボタンの根が配合されていなかったが、8世紀にすり替わりが起こり、今のボタンに変化したため、現在の六味地黄丸にはボタンの根が配合されています。現在使われている生薬の配合は様々な改良を経た結果ともいえるので、有効でかつ安全であれば今の処方を本来の配合に変更する必要はありません。しかし、本来の配合に戻せば、

 未知の効果を発見できる可能性があります。中国医学の伝統知識がすべて迷信でないことはエフェドリンや青蒿素の発見が証明しています。ただし、効果が不明なものや毒性が強い有害天然物も使われたので、盲信するわけにはいきません。今後も個々の生薬や処方を科学的に検証するだけでなく、植物名の考証を含め、歴史学的にも検証する必要があるでしょう。

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『重修政和経史証類備用本草』(1249年)巻九の「牡丹」

③ 大学や研究室の状況について教えて下さい

 私は現在、浙江工商大学東方語言哲学学院(http://ryxy.zjgsu.edu.cn/jp/)および東亜研究院に所属しています。学院(学部)には日語専攻、アラビア語専攻、哲学専攻があります。この東方語言哲学学院および東亜研究院は、日本国際交流基金が支援する日本研究の重要拠点の一つで、毎年3-4回前後の国際シンポジウムを開催しています。また、早稲田大学宗教文化研究所など日韓の大学や研究機関と連携し、歴史研究を中心に広い視野で研究活動を展開しています。昨年末に公示された「国家級一流本科専攻」に、本学院の日本語専攻が選ばれました。全国でわずか11校、外国語大学以外では本学と吉林大学のみが入選しました。学院内の教職員はほとんどが日本留学経験者なので、中国語ができなくてもまったく困らない職場環境です。中国にいながら、日本にいるよりも多くの日本人研究者と交流する機会があります。ここ数年、中国の大学は海外の研究者の採用に積極的です。中国での就職に不安を感じる方もいらっしゃるとは思いますが、多くの方がこうしたチャンスを活かし、日中両方の発展に寄与できればよいのではないかと思います。

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浙江工商大学で行われる学術講演の様子

④ 日本と中国の研究環境の違いについて教えてください

 中国では、核心雑誌と呼ばれる学術雑誌リストがあり、非常に重視されています。人文社会学系では、主に北京大学による『中文核心期刊要目総覧』と南京大学による『中文社会科学引文索引来源期刊(CSSCI)』という二種類のリストがあります。前者は第8版が最新版で、後者の最新版は昨年3月に発布したものです。ただし、こうしたリストが権威をもつと、学術界に深刻な歪みをもたらすこともあります。むろん、インパクトファクターを高める意図的な操作などは欧米でも度々議論になる問題も中国で起こっていますが、中国では論文の売買などより深刻な問題があります。しかし、不完全ながらも研究成果を一つの基準で評価できるので、全体的にみれば学術研究の推進につながっていると、私は思います。中国の多くの大学院では、在学中にこれらの雑誌に論文を掲載できていないと、博士論文を提出できません。

 一方、ほんの数年前まで、中国の大学は拡張を続けたため、教員募集が盛んでした。その頃までに就職した大学教員は修士号で十分でした。しかし、今は一流大学や海外の博士号取得というだけでは大学に就職できず、それに見合う研究業績も求められる時代になっています。つまり、核心雑誌への掲載論文が複数ある、外部資金を獲得しているなどの業績が求められています。その一方で、北京大学博士がある農村の高校教員として赴任して来たという話を聞きました。このように中国の高等教育機関は急速に変化してきています。

 また、大学院生の指導教員資格の審査が厳しいことも、中国の特徴といえるでしょう。中国の大学教員の名刺にはよく「碩導(硕导)」「博导」と書かれていますが、これらは大学院の指導資格を有するという意味です。大学教員の昇進審査も大変に厳しく、大半の教員は教授に昇格できずに退職しています。高い研究業績が求められるうえ、ポスト数の制限もあって、激しい競争があります。また、業績不足による降格や、事務員への配置換えなども実際に起きています。この点も、大学教員の過半数が50代以上の教授という日本とは大きな違いがあります。

「中国知網」(www.cnki.net)を始めとする学術サイトも優れたシステムだと思います。1ページあたり0.5元を支払えば、論文をダウンロードできますし、核心雑誌かどうかの表示もあります。論文の内容もテキストデータ化されているので、データベース内の論文すべてを全文検索できます。学位論文はこのデータベースで内容の重複率を計算し、不正防止の一助としています。

 日本では、一部の論文はCiniiやJ-Stage、各大学のレポジトリ等を通して検索・ダウンロードできますが、多くの場合は国会図書館の複写サービスなどで論文を複写せねばなりません。日本では掲載論文の著作権移譲などが障壁なのかもしれませんが、このままでは研究成果や情報が異分野間で共有されにくいままになってしまうでしょう。

 ただ、「中国知網」の欠点として、研究者IDで管理されていない点があります。同姓同名が多い中国人の場合、特定の作者の論文を探したい場合、所属先(中国語では「単位」)も加えて検索しますが、複数の所属先がある人や職場を変えている場合などは検索が面倒になります。この点はCiniiのシステムが優れています(なお、日本で行われているアジアに関する人文・社会科学の論文については、科学技術振興機構「中国・アジア研究論文データベース」がある)。

 科研費については、中国は開放的とは言えません。日本の学術振興会に相当する組織として、中国には国家自然科学基金と国家人文社会科学基金があり、文理で分けられています。前者は外国籍者に申請資格を与えていますが、人文社会科学基金は外国籍者に資格がありません。学術振興会も海外居住の日本人研究者を直接支援する仕組みは不十分ですし、国際交流基金も外国人に支援するため、海外にいる日本人研究者は支援対象になっていません。したがって、人文社会科学の研究者が中国の大学等で働く場合、研究費の獲得が非常に困難だという問題があります。外部資金の獲得は、研究を持続させるために必要であると同時に、それそのものが大きな業績評価になるので非常に重要なものです。現在、調査や会議参加にかかる費用は、ほとんど自分の給与から支払わなければなりません。それでも、厳しい業績審査に応えるためにも、私財を投じて研究を続けなければなりません。

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浙江省で働く外国人研究者の会合にて

⑤ 日本人の大学院生や若手研究者にアドバイスはありますか?

 現在、多くの日本人が専任教員として中国の大学で働いていて、今後も増える見込みです。日本の大学では若手の教員が不足していて、今後研究者を目指す若者が日本で指導教員を探すのが難しくなるかもしれません。そうなったとき、中国で働く日本人研究者を頼って、中国の大学院に入学し、日本人指導教員のもとで研究を続けるというパターンも出てくるのではないかと思います。中国の大学も優秀な留学生を呼び込みたいため、豊富な奨学金などを準備しています。理系の大学院では、中国語ができない留学生も多いので、中国語ができなくても大丈夫でしょう。

 私の場合、中国で博士号を取得した後、日本に帰国しました。むろん就職は厳しく、栃木の某ホテルで住込み従業員を始めました。早朝から調理場・洗い場、布団あげ、客室等清掃、調理場、配膳、洗い場という日々を繰り返すだけでした。同僚に、もうひとり博士号を取ったばかりの男性がいて、深夜に二人で並んで食器を洗っていたことを今でも思い出します。今でも、そのように過ごしている博士号取得者は少なくないと思います。もちろん中国での生活には不自由なこともたくさんありますが、日本で代わり映えしない日々を過ごすよりも、一度しかない人生で挑戦しつづける道を選ぶ方が、私はよいと思います。

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ときどき大阪港から上海へ船で渡航しています。

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