中国の日本人研究者便り
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【21-01】国の枠にとらわれない研究が日本の科学を発展させる

2021年05月26日

小林和彦

小林和彦:
東京大学大学院農学生命科学研究科・名誉教授

略歴

長野県出身。1976年東京大学農学部卒業、農林省野菜試験場、農業技術研究所、農業環境技術研究所研究員。その間、1987-1988年米国ノースカロライナ・ステート大学訪問研究者。2003年東京大学農学生命科学研究科教授。2018年定年退職・名誉教授、同年中国科学院国際人材計画訪問研究者。2020年南京信息工程大学引進海外高層次人材

① 中国で研究することになったいきさつ

 私は、農学部卒業直前の1976年2月から3月にかけて、東北地方の農村青年訪中団に入れてもらって、初めて中国を訪れました。同年1月に周恩来総理が亡くなり、4月に「第一次天安門事件」が勃発したので、振り返れば「嵐の前の静けさ」だったのですが、訪問者一同は「文化大革命は成功裡に完成しつつある」と信じて帰国したものです。

 大学を卒業して農水省の試験場に就職した私は、その後40年間以上にわたり、人間活動による大気組成変化が植物特に農作物に及ぼす影響を研究しました。光化学スモッグの主成分であるオゾン、成層圏オゾンの減少で増えるB領域紫外線、上昇し続ける大気CO2などの稲や小麦への影響を、圃場実験で調べました。どの影響も日本国内に限らず、アジアから世界全体の問題なので、国外でも実験したいと思っていたところ、1999年に中国科学院南京土壌研究所の研究者たちが、日本科学技術振興事業団(当時)戦略的基礎研究(CREST)予算で、私が岩手県の田んぼでやっていたCO2増加実験を見にきました(写真1)。彼らに、「これを中国でもやりませんか」と誘ってから、わずか2年弱で技術移転を済ませ、2001年に江蘇省無錫市の田んぼで、稲と小麦のCO2増加実験を始めました。その後、実験地を江蘇省揚州市郊外に移してCO2増加実験を続けました。

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写真1

 また、中国の地表オゾン濃度上昇で農業生産に大きな影響が出ると予測されたので、2006年からはオゾンの増加実験も始めました(写真2)。

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写真2

② 研究テーマと中国での研究活動

 土壌研究所の人たちと中国の田んぼで始めたCO2やオゾンの増加実験は、世界でも数少ない研究でしたので、結果を多数の論文にできました。地表オゾン濃度上昇の影響については、現在も研究を続けており、2018年には中国科学院国際人材計画に採択されて、北京の生態環境研究センターで研究を行いました。同センターでは、北京市北部の延慶区でポプラへの地表オゾンの影響を大規模実験中で(写真3)、そのデータの解析や論文執筆を研究者や学生と行いました。圃場でのこうした実験は、オゾンの影響を定量的にとらえるのに必要ですが、影響のしくみを知ることも大切です。オゾンが葉の気孔を通して植物体内に侵入し、細胞膜に到達するまでの輸送・反応モデルを、生態環境研究センターの学生と研究しました。このように、実験とモデルの両方を使って、オゾンが植物に及ぼす影響を推定し、オゾンの影響低減に役立てることを目指しています。中国では、PM2.5の人間の健康への悪影響を減らすために、原因物質の放出削減が進められており、PM濃度は最近かなり低下したようです。一方、オゾン濃度は現在も上昇しており、植物へはPMよりもオゾンの影響が大きいため、農作物や自然植生への影響はさらに激化しています。

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写真3

③ 中国の研究機関の特徴

 中国科学院は、自然科学の研究推進をミッションとする国の役所です。日本にも国立研究所はありますが、多くが農水省や環境省など各省庁所属の研究所で、科学研究自体が任務の役所はありません。中国科学院傘下には、中国各地に100あまりの研究所や研究センターがあります。私が今までに仕事をしたのは、南京土壌研究所と北京の生態環境研究センターですが、この「中国の日本人研究者便り」には、中国科学院の他の研究機関の記事が掲載されています。また、中国科学院には、中国科学院大学という大学院があり、優秀な学生を教育して各研究所へ配属します。

中国科学院のパフォーマンスは、2020年のNature Indexでは世界一です。しかも、中国科学院と中国科学院大学を合わせると、全分野では2位のハーバード大学の約2倍、地球・環境分野では2位のヘルムホルツ協会(ドイツ)の約3倍と、まさに「ダントツ」です。

 そうした高いパフォーマンスは、人数の多さだけで達成されているのではありません。日本の、例えば環境省予算のプロジェクトでは、評価委員の先生に環境行政への貢献を問われた挙句、「これは科研費の研究じゃないんだ!」と叱責されたりしますが、中国科学院では、世界の一流誌へ論文が出ないことを叱責されるのではないでしょうか。研究者個人だけでなく、研究所のパフォーマンスも評価され、その結果によりサッカーJリーグのJ1-J2入れ替えのような、研究所のランク入れ替えがなされると聞いています。

 中国政府の他の役所にも、多くの研究所があります。私が知るのはごく一部ですが、研究が役所の制約下に置かれていると感じることがあります。それに対して、中国科学院の研究所では、米国の大学や研究所と同様に、研究者が研究内容を自分で決めている印象です。実は、そうした印象から、「この人たちとなら、一緒に仕事をできる」と感じたことが、土壌研究所の人たちとの共同研究に踏み切った主な理由です。また、日本の大学で学位を取得し務めた後に帰国して、中国科学院の別の研究所に職を得た友人も、土壌研究所との共同研究へ私の背を押してくれました。

④ 日本と中国の研究環境の違い

 ひとことで言えば、「中国のほうが、研究がはかどる」と感じます。自分が「お客さん」で、研究以外の業務を免れるためかもしれませんが、学生の質とモティベーションが高いのも、中国で研究がはかどる理由です。例えば、東京大学の学生には優秀な者も多いですが、就活に気を取られることと、学生の多くが研究を職業に選ばない(選べない)ことが、私の知る中国科学院の学生たちとの違いです。また、中国科学院の研究所では、上記のように意思決定が早いことも、研究がはかどる理由でしょう。

⑤ 中国での研究活動を考えている研究者へのアドバイス

 既に日本国外での研究を経験した方は、「中国の日本人研究者便り」に掲載された他の方のアドバイスを参照願います。そうでない方へは、国外へ1年以上滞在して研究することを強くお勧めします。研究上の成果だけでなく、自分の成長に役立つはずです。そして、今世界で最も勢いがある中国の研究所や大学は、研究の場として今後さらに重要になるでしょう。なお、中国での研究場所を決める際には、受け入れ先とのやりとりを通じて、「一緒にやれそう」と感じられることがとても大切です。信頼する中国の知人からのアドバイスも、大きな助けになります。

⑥ 中国との研究交流を考える

 科学を国家の枠内にはめ込もうとする国家主義的な動きが、最近強まっているように感じます。ですが、パスツールの「科学に国境は無い」という言葉どおり、科学は国の枠にとらわれない活動によってこそ進歩します。前記のような中国科学院のパフォーマンスも、中国から流出した人材をうまく還流させた結果です。私が今まで一緒に研究した中国科学院の人たちの多くは、欧米や日本で研究実績を積んだ後で科学院の研究所にポジションを得ています。また、欧米に留まった中国出身研究者とのつながりも、パフォーマンス向上に役立っています。

 1976年の私がそうだったように、日本人が中国を見るとき、中国への期待あるいは恐れが眼を曇らせがちです。中国が、経済規模だけでなく科学の多くの分野でも日本を大きく上回ったいま、中国との人と研究の交流を盛んにしてこそ、日本の科学の発展を期待できるのです。