富坂聰が斬る!
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【20-02】香港、国家安全法

2020年6月03日

富坂聰

富坂聰(とみさか さとし):拓殖大学海外事情研究所 教授

略歴

1964年、愛知県生まれ。
北京大学中文系中退。
「週刊ポスト」(小学館)「週刊文春」(文芸春秋)記者。
1994年「龍の『伝人』たち」で第一回21世紀国際ノンフィクション大賞受賞。
2014年より現職。

著書

  • 「中国人民解放軍の内幕」(2012 文春新書)
  • 「中国マネーの正体」(2011 PHPビジネス新書)
  • 「平成海防論 国難は海からやってくる」(2009 新潮社) ほか多数

 香港がこれから荒れそうだ。というより混乱必至である。

 5月27日、まず中国国歌への侮辱行為を禁止する「国歌条例案」が香港立法会で本格審議となった。そして、その翌日には香港での反政府的な動きを取り締まる「国家安全法制」が全国人民代表大会(全人代)で正式に採択された。

 コロナ禍が完全に過ぎ去っていないにもかかわらず、すでに北京の動きに反発する散発的なデモが香港で起きている。今回は地元警察の対応が早く、数百人が逮捕された。

 昨年のデモの勢い――といってもさすがに100万人とか200万人という報道には呆れたが――を考えれば盛り上がりに欠けるようだが、今後、6月4日の「天安門事件」犠牲者追悼集会(香港政府は許可しなかったが)、昨年の反逃亡犯条例反対デモ1周年、さらに7月1日の香港返還セレモニーとデモ隊側のイベントが続くことを考えれば、先手を打って火消しに走りたかったのかもしれない。

 今回の流れを見ていて思うのは、もはや中国も引く気はないのだろう、ということだ。もっと正確な表現をすれば、引く理由がなくなったということだ。

 日本には不足しがちな視点だが、中国が今回、国家安全法制で踏み出したのにはデモ隊側のオウンゴールもあった。

 別の表現をすれば「藪をつついて蛇を出してしまった」のだ。「藪」とは昨年の反逃亡犯条例デモを指し、「蛇」は言わずと知れた中国共産党である。

 昨年の反逃亡犯条例デモが、もし6月の当初の性格を維持し、非暴力で整然とし、市民生活を脅かすこともなく、さらに外国に助けを求める動きから距離を置いていれば、中国が介入することはなかったはずだ。そして中国は対処に困ったはずだ。

 だが、デモは途中から軌道を失った。市民の足であり交通の大動脈である地下鉄を麻痺させ、空港を占拠し「親大陸」とのレッテルを張られた商店やレストランを襲撃し破壊、香港警察の個人情報をネットにばらまいた。家の住所や子供の写真をネットにさらされた家族の受難はいうまでもない。子供の多くは学校で深刻ないじめに遭った。

 中国が巨大なので、「過激な行動をとらなければ、彼らは耳を貸さない」という意見もある。しかし、そうだろうか。第一、デモ隊が有無を言わせず道路を封鎖しているときに、緊急車両は足止めされていたのだが、その救急車に乗っていたのが自分の親しい人だったら、そんな理屈を承服できるはずはない。

 そして北京から見て最悪だったのが外国に公然と助けを求めたことだ。デモ隊の中には星条旗やユニオンジャックを振る者も現われた。中国系メディアにはデモ隊のリーダーたちが米総領事館の政治担当者らと何度も会合を持っている写真も掲載された。民主派の頭目だと中国が敵視するジミー・ライ氏などは、訪米すればペンス副大統領やペロシ下院議長が出てきて歓待されるのだから、共産党がピリつくのも当然だろう。

 香港「一国二制度」の生みの親・鄧小平はかつてこの制度については「愛国者」であることが前提だと述べたことがある。言い換えれば「敵に協力する者を守る制度ではない」と語っている。

 そもそも昨年のデモのきっかけになった逃亡犯条例は、前述したように北京が熱望したものではなかった。成立すればそれに越したことはないという程度の認識だったはずだ。逃亡犯条例などなくとも、中国が逮捕したい人間は逮捕できるから当然だ。

 だが、その北京をデモ隊の過激な行動とアメリカの関与によって、ぐっと香港の未来に介入させてしまったのである。

 こういうと日本人は意外に思うかもしれないが、中国は香港の問題に関与することにはずっと抑制的であった。

 それは東洋の真珠と呼ばれた香港が、中国にとって大切な存在であり、その光を失わないように中国も気を使ってきたからである。

 だが、中国にとって経済利益よりも重要な主権の問題に触れれば、その遠慮は終わる。また昨今の大陸経済の伸長により相対的に地盤沈下の目立つ香港にはかつての魅力はなくなっている。

 そして最も重要な要素は、米中関係の悪化である。とくにトランプ政権との関係はもはや修復の見通しが立たないほどだ。中国にアメリカの顔色をうかがう理由はなくなっているのだ。コロナ禍のなかで激しさを増した米中対立は、もはやアメリカの遠慮という要素を中国から奪ってしまったのである。

 26日付『環球時報』は、中央政府駐香港特別行政区連絡弁公室が暴徒に向けた警告だとして、「中央の決心を甘く見るな」と報じた。