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【19-15】中国を茶旅する―茶畑面積中国一になる貴州省

2019年8月9日

須賀 努(すが つとむ)

1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウォッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。

 中国西南部に位置する貴州省。少数民族の多く住む省であり、中国で最も貧しい省の一つと言われた貴州だが、近年様々な分野で注目を集めている。今回は茶畑面積を急速に伸ばしている湄潭県を中心に「茶」から見た貴州省について紹介してみたい。

貴州の茶について

 筆者が初めて貴州省に行ったのはもう10年以上前の2008年だった。その頃、貴州の茶と言えば、中国十大茗茶の1つとも言われた、都匀毛尖という名の緑茶が知られているぐらいで、他にどんな茶があるかもわからず、有名な観光地である黄果樹の滝だけを見て帰ってきた思い出がある。

 因みに都匀毛尖は解放後、毛沢東にその茶が送られ、自らその名前を命名したとも言われている。また1915年のパナマ運河開通記念万博では同じ貴州省の茅台酒と共に金賞を受賞したというから、当時の主要産業の1つになったはずだ。もっとも貴州といえば茶よりは白酒の方が有名であり、茅台酒は後に「国酒」と呼ばれるほどだったが、茶は名を轟かすまでには至らなかった。

 そもそも茶の発祥地は中国だと言われている。歴史的には「雲貴(雲南―貴州)高原に起源を発し、それが四川へ伝わり、更に福建、浙江一帯に伝播した」という考えが妥当のようで、「中国西南部を茶の原産地ならびに喫茶文化の発祥地」とする学説が優勢だと聞く。つまり貴州は中国でも最も早く茶が作られ、飲まれた可能性のある場所の1つだということになる。

 トン族やミャオ族などが住むあたりでは、古くから茶作りが行われており、擂茶や打油茶などで知られている。今でも茶作りは行われており、茶業との関係は窺われるが、その生産量が全中国的に見て多かったとはいえない。だが今や少数民族対策、貧困対策などの名目で、中央政府を含めて、大規模な投資が行われており、これまで茶畑面積が中国で一番広かった雲南省を抜き去ったとも言われている。

遵義会議

 今回中国国内線を使って、省都の貴陽ではなく、直接目的地の湄潭の近くの空港に降り立った。そこは遵義!中国、特に共産党の歴史に詳しい方ならすぐに思い出す重要な地名だ。1935年長征を行っていた共産党はここ遵義で会議を開き、それまでのソ連留学組の主導部が失脚し、「中国独自の革命路線をかかげ、農村に根拠地を造って都市を包囲する戦術」を主張した毛沢東が再び主導権を握った歴史的な場所なのだ。因みにこの会議には周恩来、鄧小平、陳雲、劉少奇など、後の指導者たちが参加している。

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遵義会議の会場

 折角なのでその聖地、遵義会議記念館にも行って見た。さすがに朝から多くの観光客が列をなしていた。入口のすぐ横には古めかしい立派な建物が建っており、ここの2階が会議の行われた場所だという。中に入ることができたので覗いてみると、宿泊施設などもある。ここは元々国民革命軍二十五軍二師長柏輝章の私邸だったというが、なぜここで会議は行われたのだろうか。因みに毛沢東はこの時主要メンバーではなかったので、別の場所に宿泊し、2㎞ほど歩いて会議に来ていたらしい。

 正面には記念館があり、中は当然ながら偉大なる共産党の歴史が語られ、当時共産党へ勧誘するための看板などが飾られていて興味深い。ガイドさんが色々と説明してくれるのだが、参観者が多くてごった返しており、よく聞き取れない。こんな田舎でも戦闘はあったようで負傷者の写真が飾られていたが、その中に若き日の胡耀邦もいたのには驚いた。当時共産党に参加するのは若者が多かったことも理解できる。

湄潭茶の歴史を旅する

 遵義から車で60㎞あまり、湄潭に到着する。湄潭の街を歩いていると、小高い丘の上に大きな急須のモニュメントがあるのが目を惹く。あれを見れば誰もがこの街が茶業に力を入れているとよく分かる。更にバスで湄潭の街から郊外に出て、山を登っていく。湄潭も周囲は山なのだ。着いたところは景色を楽しむようにできていたが、霧が凄くてよく見えない。それでも目を凝らしてみると、斜面に茶樹が張り付いている。

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湄潭市内の巨大急須モニュメント

 古い建物があったので中に入ると、文革中のスローガンがあり、ここが小さな国営工場だったことが分かる。といっても製茶道具は極めて質素、我々の横にいた人が、「こうやって作ったんだ、昔は」などと言いながら懐かしそうに笊を揺すって見せた。もう一つ古い建物があり、そこには湄潭茶場打鼓坡分場という看板が掛かっている。なんとここがあの中国茶業界のレジェンド、張天福氏が1939年に作った最初の試験茶園だったのだ。

 その時、張氏は29歳ながら、既に日本の静岡を視察し、中国茶業の近代化のため機械化を進めており、1935年には福建省福安に茶業試験場と茶業農学校を設立するなど、その若さで中国有数の茶業専門家になっていた。その彼が福建省から国民政府の要請を受け、貴州に派遣され、山の中を1週間以上もさまよい歩いて、土壌に優れた湄潭にたどり着いたと聞いている。それがどれだけ困難なことだったか、今では想像できない苦労の末にこの地が開かれたに違いない。

 往時の写真がいくつか飾られていたが、なぜこんな山の中に茶園を作る必要があったのだろうか。それは日本軍の侵攻と無関係ではない。1938年には武漢が陥落し、当時主要輸出物資だった茶業を守るため、湖北・湖南から生産ラインが疎開させられたということだろう。因みに現在でも中国有数の紅茶となっている雲南紅茶、滇紅も同時期に湖南省から技術が移転され、疎開先の雲南省鳳慶で本格的な生産が始まっていく。

 湄潭の街の近くまで戻っていくと、ここに茶業博物館があった。見るからに歴史を感じさせるレンガ造りの建物が見える。ここが1939年、張天福氏が選定した茶畑から採れた茶葉を加工するために作られた茶工場だったのだ。驚くほど当時の様子を留めており、いい感じに保存されている。同行者も皆興奮気味に工場内に入っていく。中には当時の製茶機械がずらりと残されており、まさに近代茶業博物館だった。外は緑に囲まれており、環境は抜群、ずっとここにいたいような衝動にかられた。この工場がこのように残されていたのは、開発や発展と無縁だったから、というのはちょっと皮肉な感じがする。

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1939年に建てられた茶工場(現博物館)

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1939年に作られた湄潭茶場打鼓坡分場

 解放後、紅茶の輸出需要が高まり、全中国で生産が強化される。それは当時の友好国、ソ連の必要物資であり、技術や資金援助の見返りに、大量に輸出する必要に迫られていたからだ。貴州も張氏が築いた試験施設を基礎に、工夫紅茶の生産が行われたが、その品質のためか、1958年からは紅砕茶(ティバッグ用のCTC)に切り替えられていき、黔紅と呼ばれていた。だがその需要低下により、徐々に紅茶生産は減少していき、いわゆる紅改緑(紅茶から緑茶への生産切り替え)と呼ばれる政策が打ち出される。その中で21世紀に入り、新たな紅茶作りも行われ始めていた。

中国一の規模 中国茶海

 官坪小茶海というところに行った。比較的平地で山の上のような霧もなく、天気も良くなっている。ここは広大な茶畑が遥か向こうまで連なっており、茶の海と呼ばれている。貴州省では現在大規模な茶園開発が行われており、そのすごさを見せつけられる思いだった。これまで茶畑面積中国一は雲南省だったが、貴州が取って代わるのも時間の問題に思えた。ただガイドさんが「ここは『小』ですからね。もっとすごいのが後で見られますよ」と言っていたのが気にかかる。丘の上から見る景色が実によかった。

 翠芽という少数民族の村へも行く。ここも完全な観光用テーマパークだった。餅つきが行われ、名産品のカラフルな傘が並んでいた。農家菜のレストランなどもあり、子供たちが楽しそうに走り回っていた。貴州の観光業育成は相当の資金を使い、確実に動いているようだが、その成果は投資額に見合っているのだろうか。

 車で移動していると、大きな塔が建っているのが目に入ってきた。そこの前で少数民族の衣装を着た女性が地元産のお茶を淹れ、観光客に振る舞っていた。踊りも披露されている。完全な観光地なのだが、周囲は全て茶畑なのである。エレベーターで塔の上に上ってみた。五層の上でもお茶が振る舞われており、お茶を飲みながら周囲を見渡したのだが、何と360度、見渡す限り全て茶畑のみ、遥か地平線の向こうまで茶畑が繋がっている。これだけの規模の茶畑は、これまでアジア中の茶畑を回ってきたが見た覚えがない。世界でも極めて稀らしい。それでついた名前が「中国茶海」だという。さっきの小茶海が小さく見えてしまうから恐ろしい。

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中国茶海

 茶畑の中に入り、茶葉を摘むお客もいる。その横に立ってみると、その何処までも続く様子には圧倒されてしまう。この平地にこれだけの茶畑を作れば、一気に機械摘みで大量の茶を作ることも可能だろう。品質の問題はあるかもしれないが、生産量はどこまで伸びるのか。もしここの茶葉を販売するのに見合った市場が見つかれば大化けするかもしれない。日本の製茶機械メーカーに話を聞いても「今一番多い出張先は貴州省」と答えており、これまで培ってきた日本の機械製茶技術がここの茶作りを支えていく可能性も大いにある。

湄潭茶の現状を見る

 紅茶の歴史ばかりを述べてきたが湄潭茶の基本はあくまで緑茶。その上で現在紅茶を作っている会社があるというので、その茶業者を訪ねた。車は町から少し離れた工場のような建物の前で停まった。庭には様々な品種の茶樹が植わっている。規模もかなり大きい。そのビルに入るときれいなお茶の売り場がある。奥には大勢が一度にお茶が飲めるスペースもある。貴州のティーツーリズムも盛んだと驚く。このような施設を造れば、政府から補助金も出ているという。お客も次々に入ってきて、店側はその対応に追われている。ちょうど茶博がある時期だったため、中国全土の茶業関係者が集まってきており、貴州茶はいま中国茶業界でも注目されていることが分かる。

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貴州茶業博覧会。少数民族の衣装で茶葉を売る

 しかしどうしてこのお茶屋さんに連れてこられたのかと思いながらお茶を飲んでいると、何となくこの紅茶、懐かしい味がする。何とここのオーナーは福建省出身で十数年前に貴州に投資して、福建から茶樹を持ち込み、福建式の紅茶も作っているというのだ。遵義紅という紅茶のブランドを登記したのは数年前。色々と苦労はあったが、貴州の茶畑に福建品種の小葉種を植え、独自の紅茶を作った。湄潭には昔も紅茶があったこともあり、名前は有名な地名である遵義を使ったという。非常に才覚の働く福建人らしい投資だ。若い後継者は、これからITなども駆使して茶業を継いでいくと謙虚に語っていた。

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遵義紅を生産する福建系茶業者

 午後はまた茶業者を訪問した。郊外のオフィスへ向かうと、ここの庭には200年以上前の古茶樹が何本も移植されており、如何に貴州茶の歴史が古いかを示しているようだった。茶工場は見学ルートがしっかり整っており、設備は最新式だった。説明書きもきちんとあり、よく理解できるようになっており、如何にもお客を意識した作りとなっている。

 ここでゆっくりお茶を頂いて、などと思っているとすぐに移動の合図が出た。どこへ行くのかと思っていると、茶園が見られるというのでワクワクした。車で30分ぐらい行った場所に着くと、そこは実に整備された、立派な茶園だった。いくつもの建物があり、茶葉も買えるし、製茶体験コーナーやギャラリーまである。今朝摘まれた茶葉が日光萎凋されており、釜炒りの実演も見ることができた。そして宿泊施設まで併設されている。まさに一大観光茶園、ティーツーリズムで驚く。

 茶園を見学するというので歩き出したが、まるで公園のように整備されており、遊歩道が設置されている。あまりに広大な敷地、30分以上歩いても帰り着かない広さ。日本では考えられないスケールだ。茶葉はすくすくと育ち、所々で茶摘みも行われている。手で摘むにはいくら人出があっても足りない面積だ。しかも茶園の区画ごとに、表示がある。元々は若者向けに1坪茶園主制度を設けて、茶の振興を図ったようだが、現在では一般の出資者を募り、一定の資金に対して、茶葉などで支払う制度を作っていた。

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1坪茶園主の茶園

 これは中国各地で広がっているモデルらしいが、この規模で行われると迫力がある。誰かが言っていたが「貴州ではすでに茶葉を売るのではなく、茶園を売っているのだ」と。確かに後発の貴州の茶を如何に販売するかが最大のポイントなのだろう。ここに観光をマッチさせることにより、より凄みのある観光茶園が完成するのだ。

 この茶園には有名人の1坪茶園がいくつもあった。その中に、貴州の茶業界の基礎を作った、あの張天福氏の茶園も表示されている。そこにはこの時ご一緒した張夫人の名前もあり、皆が記念写真を撮るのに殺到していた。なぜ張夫人が貴州にやって来たのか、それは張氏の足跡を再度辿り、その偉大な道のりを確認したいという思いがあったのではないだろうか。

 夕方になると、外に大勢が集まり、会食が始まった。100人ぐらいいるのではないだろうか。席がない人、後から来た人は、屋内に別の卓を設けるほどの大盛況だった。地元料理が並び、酒もふるまわれた。オーナーや政府役人の挨拶の後、食事をしながら各地の代表団が挨拶を始めた。東北地方、山東、上海、広東など中国全土から来ていた。ロシア人やモロッコ人も混ざっている。これだけの人が集まるのは、この会社の集客力だろう。客人を丁重に持てなしている総経理は休む間もなく動き回っている。大車輪の活躍だ。彼女はこの2-3日は寝ていないのではないだろうか。

 貴州茶の歴史は古いが、本格的な生産が始まったのは解放後であり、そして今や第2の革命的な茶産業発展プロジェクトが進行中だと言える。果たしてその試みはどこまで進み、どのような成果を上げるのか、各茶業者の奮闘も踏まえて、これからも注目してみていきたい。


※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.16(2019年8月)より転載したものである。