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【19-22】人間文化のありか 秋の、虫談義

2019年11月21日

松岡格

松岡 格(まつおか ただす):
獨協大学国際教養学部准教授

1977年生まれ。学術博士(東京大学)。エスニック・マイノリティ研究会代表幹事。専門は地域研究(中国語圏)、文化人類学、マイノリティ研究。著書に『中国56民族手帖』『台湾原住民社会の地方化―マイノリティの20世紀』など、論文多数。

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秋の虫

 今年の夏は暑い日が続いたが、ここ数日はかなり落ちついている。日が落ちてからは、だいぶ涼しくなっている。十五夜(中秋節)も過ぎて、少し秋の気配も感じられる。夜も深まると、窓の外から虫の鳴き声が響いてくる。コオロギか鈴虫の類であろう。今晩もリーンリーンとかリリリとか、ジジジジ、とかそんな声が聞こえて来る。虫の音を聞いていると、静けさを感じるし、心が落ちついてくる。

 行水の捨てどころなし、虫のこゑ

という俳句を詠った歌人(上島鬼貫)の伝えたかったのも、そのような静けさだろうか。あるいはもっと積極的に、虫の声自体を鑑賞したかったのだろうか。まあ、いまに比べれば自然環境豊かな時代のことである。だいたいが私がいま聞いている虫の声より、ずっと賑やかであっただろう。まるでオーケストラによる交響曲のようだったかもしれない。

コオロギを買う理由

 最近の日本では、なぜかあまり見かけないような気がするが、かつてはコオロギをとって虫かごに入れたり、あるいはデパートで虫かごに入った鈴虫を買ったりして持ち帰り、家で鳴き声を楽しむ人もいたようである。

 中国でもコオロギの入った虫かごを持っている人を見かけることがあり得る。自分で育てる人もいるだろうが、おそらくはだいたいマーケットなどで買ったものだと思われる。だが中国人がコオロギを買う、あるいは飼うのは鳴き声を聞くためではない。

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 闘わせることが目的である。コオロギのオス同士を同じ空間に入れて闘わせる。闘鶏とか闘牛、あるいは闘犬とか、各地で動物を闘わせるようなゲーム(遊戯)がある。中国の少数民族でも闘牛がある。前号で特集されていた貴州省の少数民族はこれが有名である。牛は牛でも、角が立派なあの水牛同士を闘わせるのである。

 この闘牛は単なるゲームというより、ある種の儀礼と考えた方がよいかもしれない。それに対して虫同士を闘わせる漢民族の習慣(コオロギ相撲)は、よりゲームとしての要素が強いような気もする。一体いつ頃から始まったのかわからないが、長い伝統を持つとされており、中国の秋の風物詩である。どうやら歴代王朝の宮廷などでも好まれていたようである。テレビの宮廷ドラマで見かけた覚えがある。

 日本で虫の音を楽しむのは、当然、男性だけではない。しかし中国のコオロギ相撲は男性の娯楽である。中国の街角で男達が集まっている輪の中を覗くとコオロギたちの闘いが見られるかもしれない。

 同じコオロギでも日本と中国で関心を持つところが異なるわけだが、縄張りをめぐって闘うのもオス同士、メスを求めて鳴き声を発するのも繁殖期を迎えたオスということである。それが両方とも秋の風物詩となっている。動物の生態と文化がリンクしているという意味では共通している。秋がコオロギの繁殖期なのだろうか。繁殖による行動、と聞くと日本の秋の風情とはどうも合わないような気もするが、コオロギの知ったことではないだろう。はっきり言えば、人間の勝手である。

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虫の音

 話は戻るが、日本人というのはかなり虫の声というものに関心がある民族と見える。代表的なのは、なんと言ってもセミだろう。

 夏になれば都内でも緑のあるところ、かなり盛んにセミが鳴いている。公園やキャンプ場、森の中などではもっと盛んに鳴いている。電車に乗って遠出すれば、降りるとすぐに割れんばかりの大合唱が迫ってくる駅もある。

 日本人であれば、アブラゼミ、ニイニイゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、クマゼミ、ヒグラシなどなど、鳴き声を聞いてある程度は聞き分けられる。

 少数民族の彝族の学生達に何度かセミの鳴き声を聞いてもらったことがある。そうすると「このセミはここにもいる」「このセミはここにはいない」と明確な反応があった。音としては聞いているわけである。しかしその鳴き声に関心が向くことはないようで、ましてや聞き分けるという発想はないということであった。

 少数民族に限らず、また中国に限らず、日本以外で虫の声に関心をもって聞き分ける、という例はなかなか見つからないだろう。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

という、松尾芭蕉の有名な俳句がある。冒頭であげた上島鬼貫の句と違って、こちらは確実に静けさをテーマにした詩である。自然環境豊かな背景で、しかも白昼の情景を詠っていると思われるので、客観的に見れば、セミの鳴き声は音としてはかなり騒々しいはずである。しかし静寂な環境とセミの鳴き声のコントラストの中で、恐らく一瞬時が止まったかのような静けさを歌人は感じたことであろう。セミではないのだが、同じ芭蕉の句で次のように虫の音に触れたものがある。

蓑虫の音を聞きに来よ草の庵

芭蕉に限らず、蓑虫の鳴き声を扱った句は他にも見つかるようである。ご存じの通り、蓑虫は鳴かない。しかし鳴かない虫にも音を聞き取ろうとしてしまう日本人はかなり物好き、いや、虫(の音)好きと言えるのではないか。

虫を食べること

 さきほどのコオロギの例にしてもそうだが、同じ東アジアでも、中国では虫の音を鑑賞するというのはあまり聞いたことがない(もっとも、すでに書いたように、珍しいのは、虫の音を好む日本の方である)。では現代中国では虫とはどんな存在なのか、というと、すぐ思いつくのは、食べる対象としての虫である。

 特に雲南省など西南地域の少数民族では、虫を食べることがよく知られている。代表的なのが、竹虫であろう。竹林の竹の中で生育する虫の幼虫を、竹の中から取り出して集め、だいたいの場合、簡単な味付けで炒める。栄養豊富な食材となる。精を付けられるということで、特に妊婦が食べるとよいとされる。

 この料理は少数民族地区に限らず、雲南の地方料理として出てくる可能性があるポピュラーな食材である。この他にも昆虫の幼虫やさなぎを食材として食べる例は多く見られる。

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 また、成虫を食べることもある。私が少数民族の村の料理で出てきてギョッとしたのが、スズメバチが山盛りで出てきた時である。セミを食べる地域もあるようだ。以前紹介した「雲南十八怪」の中にも「蚂蚱当做下酒菜(バッタを酒の肴にしている)」というのがある。これに関しては、日本でもバッタ(イナゴ)を佃煮にして食べる地域もあり、日本人にとってはそう驚くことではないかもしれないが。

 だが多くの日本人は、こうした中国の昆虫食の習慣を知ると、かなり驚くようである。また、それなりに好奇心をそそるようである。実際、セミを食べる中国人の行動をとりあげたテレビ番組だかニュースだかがあったそうである。日本にたくさんセミがいても、まず食べようと思わないのだから、やはり奇異に感じることであろう。

 文化の違いは大きいなと、思っていたのだが、ところがどっこい、最近日本では昆虫食がちょっとした話題になっているそうだ。冒頭で出てきたコオロギも食材になるようである。いわゆるゲテモノ食いというのが一定の関心を集めているようだから、その延長なのかもしれないが、これからの食糧不足の対策の一つとして真剣に考えられている人もいるようである。さて、今後の日本の虫をめぐる状況は、どのような展開をたどることになるのだろうか。


※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.17(2019年11月)より転載したものである。