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【20-15】山東省 蓬莱 蜃気楼が招く旅心

2020年10月28日

阿南ヴァージニア史代

阿南ヴァージニア史代

米国生まれ。東アジア歴史・地理学でハワイ大学修士号。台湾に留学。70年日本国籍取得。1983年以来、3度にわたって計12年間、中国に滞在。夫は、元駐中国日本大使。現在、テ ンプル大学ジャパンで中国史を教えている。著書に『円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』、『古き北京との出会い:樹と石と水の物語』 、『樹の声--北京の古樹と名木』など。

山東半島の東端に位置する蓬莱は、近年、休暇用の別荘を探している都会の人々の関心を惹き付けている。
渤海と黄海が出会う此の地は温暖な気候と新鮮な空気に恵まれている。
私はこれまで六回、蓬莱を訪れたが、初夏の頃、海上に現れる蜃気楼を何度か見たことがある。
蓬莱の名の由来は、道教の聖山から来ており、民間の言い伝えでは、道教神話に登場する八仙人が不老長寿の薬を求めて此処から船出したとされている。
さらに、秦始皇帝や漢武帝も長寿の秘術を手に入れようと蓬莱に来たとの伝承もある。

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蓬莱閣:渤海と黄海が出会う境界線

 かつて登州と呼ばれた此の場所は、古い昔からの港であった。私は2008年、此処で開催された"登州と海のシルクロード学術会議"に招かれ、その際に、蓬莱の歴史について様々な知識を学ぶことが出来た。登州は、唐時代の707年に堅固な軍港として建設され、今でも此の港は「水城」と呼ばれている。高い城壁に守られた水路によって、中国沿海の都市、そして海外の国々との交易も盛んに行われた。

 登州と日本との関わりも永い歴史があり、双方の記録から、隋代に日本の使節団が此処を訪れたことが確認できる。日本の初代遣隋使小野妹子は608年、登州に到着している。日本僧円仁が840年、登州に至り、10日ほど滞在した際、宿泊先の開元寺(740年開山)の壁面に書き残された日本使節の筆跡を発見した逸話は良く知られている。円仁は、"日本国"という字や759年の遣唐使一行の名前を見て、さぞ驚いたことであろう。地図を仔細に見ると、朝鮮半島に沿って北上し遼東半島に至り、そこから小さな島嶼が飛び石のように連なって登州に達しているルートが、陸から余り離れていないという点からも古代の船旅の安全を確保するものであったことが分かる。近隣の国々から多くの訪問客が来て、今のゲストハウス蓬莱飯店の場所には、唐時代、新羅館と渤海館があったことを地元の歴史研究者は教えてくれた。

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水城:唐時代の707年に堅固な軍港として建設された

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明時代登州の地図 ❶「水城」 ❷丹崖山 ❸登州城壁の北西

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蓬莱海岸前の八仙石像

「登州古船博物館」には、蓬莱近海で発見された幾艘かの古い船が展示されている。加えて、古代の造船技術を伝える立体模型や海上貿易の重要性を示す地図等も観ることが出来る。錨、舵輪そして良く保存された厚板などは、当時の技術水準の高さを示している。私達一行は2007年に訪問した際、幸運にも、博物館の庭に円仁を記念して二本の龍爪槐を植樹することが出来た。円仁は9世紀に著された日記に登州で見聞した事物や場所について重要な記述を残している。私たちは円仁よりさらに古い時代の遣隋使の1400年祭を慶祝すべく、登州に特別の光を当てていた。

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(左)「登州古船博物館」内の古船跡(右)円仁を記念して龍爪槐植樹。「登州古船博物館」庭内

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古代海の交流の地図 ❶登州 ❷日本〜登州のルート ❸対馬(日本)

「登州古船博物館」から西方の海岸に面した崖の上に、中国四大楼閣の一つである蓬莱閣(1061年築)が建っている。この楼閣は、六つの建物が巧みに繋がっており、次第に丹崖山へ連なり頂上の蓬莱閣に至る。唐代からあった竜王宮や宋代の天后宮(媽祖廟)は、この地の人々の海に対する強い畏敬の念を表している。円仁日記にも、海を見下ろすこの小さな寺院への言及が在り、竜王宮は唐初、漁民たちが操業の安全を祈って建てたと言われている。今に至るも漁灯祭が春節の13日と14日に執り行われ、東海竜王への祈りが捧げられる。天后宮の境内一杯に枝を張った唐時代の巨大な槐樹が人の目を驚かせる。この神木は、1200年もの間、陰を作って夏の陽光から信徒たちを守って来たのだ。

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天后宮の境内の唐槐

 私は登州の旧市街にある戚継光一族の旧居を訪れた。戚将軍は1528年に登州で生まれ、後に蒙古族や沿岸を荒らす海賊と戦った英雄として人々の尊敬を集めている。戚一族は明初から登州軍区の司令の地位を世襲して来た名家であった。その場所は、見事な御影石造りの牌坊があり、一目で分かる所にある。私は、牌坊街を西に辿り、9.5メーターもの高さのある「父子総督牌坊」の下をくぐって、昔の面影を残す狭い府門街まで歩いて行った。そこから北へ向かうと三層の厳めしい屋根を持った楼閣風の門が在り、その先が唐の時代の役所があった処である。南へ向かえば城牆街という名の城壁に囲まれた旧市街に至る。この城壁の中側に開元寺跡(現在はアパート群)が在り、この寺には、前に述べたように、かつて日本の使節たちも滞在している。このように、昔の役所から旧登州城壁までの道は唐の時代からの歴史そのものであると言って良い。ゆっくりと時間をかけて散策すれば、この古い街の全容を身を以て体験することが出来る。

 古来、国際交易の中心であった蓬莱の重要性は"海のシルクロード"の窓口としての位置からも容易に理解しうる。私が、かつて蓬莱閣から見た海上に浮かぶ蜃気楼は、秦の時代から今に至るまで、旅人たちの心を招き寄せている。

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(左)竜王宮内東海竜王像 (右)戚継光旧居「父子総督牌坊」

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昔の面影を残す府門街の楼閣風の門


※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.20(2020年8月)より転載したものである。