林幸秀の中国科学技術群像
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【21-24】【近代編18】侯徳榜~中国の近代化学工業の基礎を築く

2021年09月24日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、近代中国の化学工業の基礎を築いた侯徳榜(こうとくぼう)を取り上げる。

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侯徳榜

生い立ちと教育

 侯徳榜は、1890年に現在の福建省福州の農家に生まれた。13歳から地元福州の福州英華書院で学び、17歳から上海に出て鉄路学院で鉄道工学を学んだ。この時期侯徳榜は、米国の西海岸における中国人労働者の差別・虐待に激しく憤り、デモなどに参加している。1910年に鉄路学院を卒業後に、天津にあった英国資本による鉄道会社の実習生となるが、ここで帝国主義の英国が技術と経済的な優位により、貧しい中国と人民を残酷に搾取している実情を目の当たりにし、科学と工業で苦難の中国を救うことを志したという。

米国への留学

 その後21歳となった1911年、侯徳榜は北京に出て米国留学の準備機構である清華学堂(後の清華大学)に入学し、庚款(こうかん)留学生制度に合格して、1913年に米国マサチューセッツ工科大学(MIT)に留学し工業化学を専攻した。1917年には同校から学士号を取得し、その後コロンビア大学の大学院に入学して1919年に修士号、1921年に博士号を取得した。

民間化学会社に就職

 侯徳榜は博士号を取得後直ちに帰国し、化学会社永利ソーダ会社の技師長に就任した。永利ソーダ会社は中国初の大型化学会社であり、創業者は范旭東(はんきょくとう)である。范旭東は侯徳榜の7歳年上で、1883年に湖南省で生まれ、1900年に日本に留学し旧制第六高等学校(岡山)および旧制京都帝国大学に学び、工業化学を専攻した。同大学を卒業後、1911年に帰国して実業界に身を転じた。

 侯徳榜の帰国当時、永利ソーダ会社はアルカリソーダ製造工場を天津に建設中であり、侯徳榜はその責任者となった。ホワイトカラーのスーツを脱いで作業服とゴム靴姿になり、酸やアンモニア臭のある服で汗まみれになって仕事をした。苦労の末1926年にアルカリソーダの国産化に初めて成功し、米国のフィラデルフィア万国博覧会に同社の製品を出展して金賞を受賞した。さらに、価格低減化の開発を進めることにより、中国市場での国産品の参入に成功した。

 天津での成功を元に、永利ソーダ会社は南京にも工場を建設し、侯徳榜は国産化の拡大に力を注いだ。1934年に永利ソーダ会社は、化学品全般を扱う総合的な会社である永利化学工業となった。

新しいソーダ製造技術の開発

 1937年に日中戦争が勃発し、日本軍は南京の工場を占拠しようとしたため、侯徳榜らは同工場の主要機器を撤去し四川省に移動して、永利川西化学工場を設置した。この工場で侯徳榜は、より低廉で効率の良いソーダ製造技術の開発を目指した。当初はドイツの技術に依存しようとしたが、ドイツの会社より非常に高い技術料を要求されたことから、自主技術の開発を目指した。侯徳榜は、従来広く用いられているソルベイ法と合成アンモニア法との結合を考え試行錯誤を繰り返し、現在「侯徳榜法(Hou's process)」と呼ばれている合成法を開発した。この方法によれば、炭酸ナトリウム(アルカリソーダ)だけではなく、塩化アンモニウムも副産物として回収でき、この塩化アンモニウムは肥料に使えることから、合成工程を低廉化できることとなった。

 1945年には、永利化学工業創業者の范旭東が亡くなり、侯徳榜が総経理(社長)となった。

新中国建国後

 1949年に中華人民共和国が建国されると、侯徳榜は聶栄臻 元帥らの働きかけで、新政府に活躍の場を移し、政務院(現在の国務院)化学工業部副部長、重工業部技術顧問に任命されていく。

 建国後に取り組んだ大きな仕事は、化学肥料工場の全国的な設置である。当時の中国の農村は肥料が不足していたため収穫が少なく、これが食糧不足の大きな原因となっていた。そこで、化学工業部は1957年に中国全土に比較的小規模の窒素肥料工場を作る戦略構想を提案し、侯徳榜はその技術的な責任者となった。侯徳榜は、自らが開発した侯徳榜法を応用して炭酸水素アンモニウムの生産を合成アンモニアに組み込む方法を考え、窒素肥料工場の建設費やエネルギー消費量を大幅に低減することを可能とした。この方法で1958年にモデルプラントの建設運営が完了し、それ以降中国全土に小規模な窒素肥料工場が建設されていった。1970年代には、このような小さな窒素肥料工場の生産量は全国の窒素肥料の総生産量の半分以上を占め、中国の農業の発展に貢献をした。

晩年

 新中国建国後に新しい化学肥料技術開発を進めていた頃、侯徳榜は既に60歳代後半と高齢であったが、それにもかかわらず化学工業部の上海化工研究院に常駐し、スタッフと共に塔に登ったり溝に入ったりして昼夜技術開発に勤しんだという。

 1966年に文革が勃発し、侯徳榜は革命派の圧迫を受けるが、これにも彼は意に介することなく業務を続行した。しかし、文革期間中に白血病を発症し、1975年に北京で死去した。享年84歳であった。

参考資料