林幸秀の中国科学技術群像
トップ  > コラム&リポート 林幸秀の中国科学技術群像 >  【22-11】【近代編35】裴文中~北京原人の頭蓋骨の発見者

【22-11】【近代編35】裴文中~北京原人の頭蓋骨の発見者

2022年05月30日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、考古学の歴史的発見と言われる北京原人の完全に近い頭蓋骨を発見し、中国の考古学発展の基礎を築いた裴文中(はいぶんちゅう)を取り上げる。

生い立ちと教育

 裴文中は、清朝末期の1904年に現在の河北省唐山市に生まれた。唐山市は、北京や天津の東に位置しており、1976年の大地震で大きな被害を受けるも復興し、現在中国の重要な港湾都市・産業都市として発展している。

 教師の家庭に生まれた裴文中は、1921年に北京大学の予科に入学し、1923年には北京大学本科地質学科に転入した。1927年に北京大学を卒業したのち北京地質調査所の職員となった。

北京地質調査所による周口店の発掘

 北京地質調査所は、政府の地質調査機関として1913年に設置されたものであり、日本の第三高等学校や東京帝国大学地質学科に留学した章鴻釗(しょうこうしょう)が初代の所長を務めた。この北京地質調査所に1914年から1925年まで派遣され、中国各地で調査を行ったのがスウェーデンの地質学者ユハン・グンナール・アンデショーン(Johan Gunnar Andersson)である。アンデショーンは、1921年から北京市中心部から南西約50キロメートルにある周口店で調査を開始し、1923年に彩色土器や人類の歯の破片を発見した。

裴文中による完全な頭蓋骨の発見

 裴文中が北京大学を卒業し北京地質調査所に入った1927年は、アンデショーンによる歯の破片の発見を受けて調査が拡大した時期であった。米国ロックフェラー財団が資金を援助し、同財団が運営していた北京協和医学院が中心となって発掘することとなり、カナダから派遣された北京協和医学院のブラック(Davidson Black)教授が責任者となった。

 北京大学を卒業して間もなかった裴文中は1928年に周口店に派遣され、そこで行われていた発掘調査に補助的な形で参加した。1929年12月、部下の作業員から小さな洞窟を見つけたとの報告を受け、日暮れにもかかわらず洞窟に行き、辛抱強く洞窟の中を探したところ、人類と思われる頭蓋骨が完全に近い形で地中に埋まっているのを発見した。これが北京原人と命名され、考古学上の大発見となった。現在までの調査で、北京原人は現生人類とチンパンジーの間に位置し、直立二足歩行が可能であったホモ・エレクトスに分類されている。北京原人は現在のアジア人とは異なり、約70万年から20万年前に活動し、その後絶滅したと考えられている。

中国の考古学、文化人類学の発展に貢献

 北京原人の頭蓋骨発見の後、裴文中は1935年にフランスに留学し、パリ大学でアンリ・ブルイユ(Henri Édouard Prosper Breuil)教授に師事した。ブルイユ教授は、旧石器時代研究のパイオニア的存在であり、ラスコーなどの洞窟壁画についても研究した学者である。裴文中は、1937年に同大学で自然科学の博士号を取得し帰国したが、直後に日中戦争が始まった。裴文中は周口店発掘担当主任となったが、日中戦争中はほとんど業務が出来なかった。

 日本軍の敗戦や国共内戦を経て、裴文中は1950年に中華人民共和国の文化部に出仕し、博物館行政を担当した。さらに、1954年には中国科学院の古脊椎動物研究室(現在の古脊椎動物・古人類研究所)で研究を再開し、1955年には中国科学院の院士に当選している。また、北京大学や北京師範大学で教鞭を執り後進の指導に当たった。

 後述するように、裴文中が発見した北京原人の頭蓋骨は日米開戦の混乱の中で行方不明となるが、裴文中は1966年に周口店で中国人だけでの発掘調査を指揮した。その際には、残念ながら1927年のような完全に近い頭蓋骨は発見されなかったが、頭蓋骨の破片や歯などの化石と石器を発見している。

 1979年には北京自然歴史博物館の館長に任命されたが、その3年後の1981年に病を得て北京で亡くなった。享年78歳であった。

北京原人の頭蓋骨の鑑定と分析

 裴文中が発見した北京原人の頭蓋骨は北京協和医学院に運ばれ、責任者のブラック教授が指揮を執って詳細な鑑定と分析が行われた。ブラックは1934年に急性心不全で亡くなるが、ドイツ人で同医学院副教授であったワイデンライヒ(Franz Weidenreich)がブラックの業務を継続した。ワイデンライヒは、詳細な鑑定と分析の結果を記録して残すとともに、頭蓋骨のレプリカを作成し北京協和医学院に厳重に保管させた。

太平洋戦争勃発で頭蓋骨は行方不明に

 1937年に日中戦争が開始され北京は日本軍に占領されるが、北京協和医学院は米国のロックフェラー財団の運営であったことから、日本軍の占領を免れた。1941年12月、日本軍の真珠湾攻撃により日米戦争が開始されると、日本軍は北京協和医学院を占領し北京原人の頭蓋骨を捜索したが、その時点で頭蓋骨はすでにどこかに持ち出されており発見できなかった。

 現在伝えられている紛失の経緯であるが、1940年頃から日米間の軋轢が高まり日米での戦争が予感される中で、北京協和医学院も安全でなくなる可能性があった。このため同医学院では、北京原人の頭蓋骨などを米国に移送して一時保管することとした。北京原人の頭蓋骨や他の化石を2つの大きな箱に入れ、鉄道で河北省秦皇島に運んで米国の貨客船「プレジデント・ハリソン」で米国に移送する計画が立てられた。1941年12月5日に、2つの箱は米国海兵隊員とともに北京を出発し、12月8日午前に無事秦皇島に到着し、貨客船の到着を待った。ところが同じ日に日米開戦となり、貨客船は上海沖で日本軍に拿捕されてしまった。その後、護送任務に当たっていた海兵隊員も日本軍の捕虜になり、その混乱の中で北京原人の頭蓋骨は行方が分からなくなってしまった。

 現在も北京原人の頭蓋骨の行方は全く分かっていない。ただ、幸いなことにワイデンライヒの詳細な鑑定・分析報告とレプリカの存在、さらには戦後の裴文中指揮による中国独自の発掘調査により、北京原人の考古学的価値は揺らいでいない。

 発見場所である周口店は、1987年にユネスコの世界遺産に登録されている。

image

周口店遺跡博物館

参考資料

関連記事

書籍紹介:近代中国の科学技術群像